興中会(こうちゅうかい/Xingzhonghui, Revive China Society)は、1894年に孫文(孫中山)がハワイ(ホノルル)で創設した反清革命結社で、のちに香港・日本・東南アジア・北米などに支部網を広げ、華僑を基盤に資金・宣伝・人材を動員した団体です。1895年の広州起義、1900年の恵州起義など武装蜂起を試み、最終的には1905年の中国同盟会(東京)結成に合流して近代中国の革命運動を組織化する基盤になりました。会名の「興中」は「振興中華/中華を興(おこ)す」の意に由来し、スローガンとして満洲王朝(清)打倒・中華の回復・共和立憲の実現を掲げました。以下では、成立背景と理念、組織と活動様式、主要蜂起と挫折、同盟会への合流と歴史的意義を整理して解説します。
成立背景と理念――日清戦争・華僑社会・「振興中華」の合流点
興中会の誕生は、19世紀末の国際秩序と東アジアの危機とが交差する地点にあります。列強による通商・租界・利権の浸透、清朝の洋務運動における中途半端な近代化、官僚制の腐敗と地方財政の逼迫は、知識人・商工層・新軍・学生の間に体制変革の機運を育みました。とくに1894年の日清戦争の敗北は、清王朝の求心力を決定的に低下させ、「民族の再生(振興)」という語りを現実の政治課題に押し上げます。
孫文は広東出身で、香港の医学校(香港西医院書院)で学び、同窓の陳少白・尤列・楊鶴齡らとともに政治議論を重ねました(いわゆる「四大寇」)。1894年、ハワイで成功した華僑商人・労働者の支持を得つつ、興中会をホノルルで発足させ、続けて翌年に香港で支部を整備します。華僑社会は、言論の自由度・資金・人脈の面で清朝直轄地より有利であり、革命運動の後方基地として機能しました。会の理念は、当初から反清・民族主義・共和志向を含み、のちの「三民主義(民族・民権・民生)」の萌芽が見られます。
スローガンの中核には、「振興中華」「(満洲支配を)駆逐し中華を回復する」といった表現が並びます。ここでいう「中華」は、単に漢族中心主義というより、帝国的身分秩序と外圧下の半主権状態からの脱却を意味し、近代主権国家の樹立という目標に接続していました。革命と立憲のどちらを優先するかは同時代でも議論が分かれましたが、興中会は少なくとも「暴力の可能性を排除しない」結社として出発します。
組織と活動――秘密結社的ネットワーク、華僑動員、宣伝と資金
興中会は、発足当初から半秘密結社としての性格を帯びました。入会には誓詞と血盟めいた儀礼が伴い、支部(分会)—連絡員—行動隊という多段のネットワークで情報統制を図りました。香港支部では楊衢雲が中心的役割を担い、後年、清朝の密偵によって暗殺されるほど皇族・保守派から危険視されました(1901)。このような秘密性は、治安当局の監視を潜り抜けるために必要でしたが、同時に内部連絡の錯綜・独断専行を生みやすい脆弱さも抱えました。
資金源の要は華僑社会でした。ホノルル、サンフランシスコ、横浜、シンガポール、ペナン、バタビアなどの華僑ネットワークは、商会・会館・同郷会・寺廟を結節点に、寄付・会費・義捐金を集め、武器購入と印刷・宣伝費に充てられました。新聞・パンフレット・演説会は、国内の士人・学生・新軍将兵に革命の正当性を訴える重要なメディアで、孫文は欧米・日本を遊説しながら、国際世論へのアピールも欠かしませんでした。
作戦面では、(1)沿海都市・省城での同時蜂起の企図、(2)新式軍隊・広東系民兵の取り込み、(3)官僚・将校の切り崩し、(4)電信・兵站・兵器庫への奇襲、といった手順が基本でした。いずれも、短期決戦で省城を掌握し、連鎖的蜂起を誘発して清廷の統制を崩す発想に立っています。他方、官軍の情報網・地方紳士層(郷紳)との力関係・外国勢力(租界当局)の中立・協力といった条件が整わないと、計画は未然に露見して鎮圧されがちでした。
主要蜂起と挫折――広州(1895)・恵州(1900)、そして犠牲
興中会の最初の大規模作戦は、1895年の広州起義でした。香港支部を基盤に、広東—広州での新軍・保安隊の一部を取り込み、兵器庫の掌握と省城の制圧を狙いましたが、計画は事前に発覚し、多数の同志が逮捕・処刑されました。孫文自身は国外におり、蜂起の指揮は現地の同志に委ねられていましたが、この経験は、指導中枢の不在・連絡の錯綜・情報露見という弱点を露呈させました。
次の転機は、1900年の恵州起義です。義和団事件で清廷と列強が対峙するなか、南中国での揺さぶりを狙って、広東・恵州—海豊一帯で武装蜂起が起こされ、鄭士良らが前面に立ちました。初動は一定の成功を収め、城郭を占領して政庁を代替する試みも見られましたが、官軍の増援と補給の切断で持久が利かず、短期占拠にとどまって退潮します。蜂起の失敗は、武器の質量不足、地方名望家の支持の欠如、国際情勢の読み違い(列強の介入バランス)などの複合要因によるものでした。
この間、指導・支援にあたった多くの要人が命を落としました。楊衢雲の暗殺は象徴的で、香港という半ば治外の空間であっても清廷の長い手が届くことを示しました。失敗の連続は厭戦気分と分裂の芽をもたらしますが、同時に、地方の学生社—読書会—新軍内サークル—商人ネットワークが育ち、革命の社会的下部構造が広がっていきました。
同盟会への合流と歴史的意義――分散の統合、理念の精錬、近代革命の器
1905年、東京で中国同盟会が結成され、興中会は華興会・光復会など各地の革命団体と統合されます。総理には孫文が就き、綱領に「民族・民権・民生」の骨子が明記され、スローガンとして「駆除韃虜・恢復中華・創立民国・平均地権」などの標語が体系化されました。これは、興中会期の理念を、より普遍的な政治言語(共和国・国民・土地制度)へと精錬したものです。組織面でも、宣伝・組織・軍事・財政の分掌、機関紙の発行、日本・東南アジア・米州を結ぶ海外本部の機能が強化され、蜂起の技術・外交折衝・資金調達の標準化が進みました。
興中会の歴史的意義は、第一に華僑動員のモデルを確立したことにあります。国内の政治空間が制限されるなかで、海外の自由空間・資本・印刷・通信を革命の資源として活用し、外から内へ影響を波及させる回路を拓きました。第二に、秘密結社的連帯と都市の公開世論(新聞・演説)を組み合わせる二層の運動様式を発明したことです。第三に、失敗と犠牲を通じて、軍事蜂起の条件・統治移行の手順・対外環境の読み方に関する経験知が蓄積され、辛亥革命の成功確率を高めました。
他方で、興中会は限界も抱えていました。地域・派閥の競合、作戦の即興性、地方名望層(郷紳)との関係調整の不安定さ、農村動員の弱さなどがそれで、これらは辛亥後の政治断絶(軍閥化)にも連続します。にもかかわらず、興中会が築いた国際ネットワーク、共和国の理念、華僑資本の動員、宣伝技術は、中国革命が近代メディア社会と世界市場の中で遂行されたことを示す制度的証拠です。
総じて、興中会は、散在する不満・理念・資源を結び、反清革命の「器」を作り上げた先駆的結社でした。ホノルルの小さな結社が、香港・東京・南洋・米州へと連なり、やがて同盟会、さらに国民党へと姿を変える長い運動の起点であったことに、その歴史的重みがあります。興中会を手がかりに見ると、近代中国の革命は、国内の社会矛盾だけでなく、越境する人・資本・メディアの力学の中で形成・加速されたことが、より立体的に理解できます。

