『コーラン(クルアーン)』 – 世界史用語集

『コーラン(クルアーン)』は、7世紀のアラビアで預言者ムハンマドに下ったとされる神の言葉を、アラビア語で記した聖典です。ムスリムにとっては単なる宗教書ではなく、祈り方や生き方の指針、社会の秩序を考える際の基準を与える存在です。114ある章(スーラ)から成り、章と節(アーヤ)が連なる詩的で強い韻律をもつ文体が特徴です。もともとは口頭で暗唱され、共同体の中で唱えられてきたため、読まれること(朗唱)と聞かれることが学びの中心にあります。

世界史の視点から見ると、『コーラン』は砂漠の隊商都市から誕生した新しい一神教運動が、帝国や学術の世界へ広がる際の「核」として機能しました。政治や法、文学や美術、科学や教育など多様な分野に影響し、翻訳や注釈(タフスィール)を通じて、地域ごとの固有の学問形成にも寄与しました。イスラーム世界はもちろん、非イスラーム圏の思想家や学者にとっても、『コーラン』の世界観と倫理、社会観は重要な参照点であり続けています。ここでは、成立の経緯、構成と主題、テキストの伝承と標準化、解釈と文化的影響という観点から、わかりやすく解説します。

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成立と啓示の経緯

イスラームの伝承によれば、『コーラン』は610年ごろ、ムハンマドがメッカ郊外のヒラー山洞で天使ガブリエル(ジブリール)から最初の啓示を受けたことに始まります。この出来事はイスラーム史の出発点とされ、以後およそ23年にわたって断続的に啓示が続いたと語られます。啓示はメッカ期とメディナ期に大別され、前者は信仰の根幹や来世の責任、偶像崇拝の批判など普遍的な主題を、後者は共同体の形成、法や規範、戦争と和平、相互扶助といった社会実務に関わる指針を多く含みます。

当時のアラビア社会では、詩(カスィーダ)や雄弁術が尊ばれ、言葉の響きが権威と結びついていました。『コーラン』はこの文化的基盤の上に、独自の韻律と反復、比喩と誓言を駆使してメッセージを伝えます。聖典そのものが「読まれるもの」を意味する語根から派生しており、音声での伝達が中心であったことを示します。ムハンマドの側近や信徒は、啓示が下るたびに暗唱し、同時に椰子の葉や骨、皮革などに書き留めたと伝えられます。音声と文字の二重の記憶が、後の編纂と標準化の基盤になりました。

啓示の語り口は一様ではありません。神の語りかけ、預言者への指示、共同体への勧告、過去の預言者たちの物語、宇宙や自然への観察の促しなど、多層的な声が交錯します。これにより、『コーラン』は単なる教義の要約ではなく、神と人間、共同体と歴史の関係を、リズムと物語性を通して描く書物になっています。メッカで受けた啓示とメディナで受けた啓示は、内容のみならず語りの調子にも違いが見られ、信仰の内面的深化と社会的制度化という二つの軸が並行して発展したことがうかがえます。

構成・言語・主要主題

『コーラン』は114のスーラからなり、その長短は大きく異なります。一般に巻頭の『開端章(アル=ファーティハ)』に続いて長い章が先に置かれ、次第に短くなる配列が採用されています。それぞれのスーラは多数のアーヤ(節)から構成され、章の冒頭には多くの場合「慈悲あまねき御方、慈悲深き御方の御名において(ビスミッラー)」と呼ばれる定式句(バスマラ)が置かれます(ただし『第9章 悔悟』は例外的に冒頭に置かれない伝統があります)。朗唱の実践では、章や節とは別に、30等分のジュズʾ、60等分のヒズブ、さらに礼拝に合わせた分割など、さまざまな読みの区切りが用意されています。

言語は古典アラビア語で、韻律と音の連鎖が強く意識されています。子音と長母音の配列、終止の押韻、対句や反復、寓意的表現(ムタシャービフ)などが、意味の説得力を高めます。一方で、具体的な語義や文法の解釈には、時代や地域による揺れが伴うため、言語学と辞書学、詩文の引用などを総動員した注釈(タフスィール)が歴史的に発達しました。複数の読み(キラーアート)も伝承され、子音骨格は同じでも母音や語形が異なる読みが、権威ある系列として今日まで受け継がれています。

主題としては、唯一神アッラーの絶対性、創造と終末、預言者たちの系譜、日々の礼拝・喜捨・断食・巡礼の意義、家族や相続、契約や商取引、戦争と和平、赦しと悔悟、慈悲と正義などが織り込まれます。『コーラン』は、法規定(アフカーム)に関わる節を含みますが、その数は全体から見れば限定的で、多くは信仰倫理や歴史物語、自然と人間の関係を熟考させる内容です。詩的でありながら、社会規範の手がかりを提供する構造が、共同体の形成と維持に資しました。

特定の章や節は、礼拝と生活の各場面で繰り返し唱えられます。『開端章』は礼拝の各単位で必ず朗唱され、『至高の座の節(アーヤト・アル=クルスィー)』(第2章255節)は保護と加護の祈りとして広く親しまれます。短い章群は子どもから大人まで暗唱され、葬送や祝い事、旅立ちなど、通過儀礼の折々に唱和されます。音声の美しさは宗教的体験の核であり、旋律や節回しを規範化する朗唱学(タジュウィード)が整備されました。

伝承・編纂と標準化の過程

ムハンマドの生前、啓示は暗唱と書きつけによって保持されていましたが、体系的な「書物」としての編纂は、預言者没後の共同体の課題になりました。伝承では、第1代正統カリフのアブー・バクル期に、戦死した暗唱者(ハーフィズ)の増加を受けて、節を集成する作業が始まり、次いで第3代カリフのウスマーン期に、標準写本(ムシャフ)を複製・配布して読み方の揺れを抑えたとされます。これを受けて、地方に散らばっていた写本の差異が調整され、共同体の統一が図られました。

標準化の際には、子音を中心とした書記(ラフム)に、後代の母音記号や点(点画、イジャーム)が付され、読みの安定が進みます。とはいえ、複数の正統な読みが併存する伝統は維持され、七あるいは十の権威ある読み(キラーアート)をめぐる学は、朗唱と書字の双方の規範を整える役割を果たしました。写本文化の成熟に伴い、節番号や章題、傍注、装飾見出しなどの書誌的要素が確立し、後に印刷技術の導入によって一層の標準化が進みます。

注釈(タフスィール)は、言語学・法学・神学・歴史学・語り伝え(イスラーム以前の伝承を含む)を総動員した総合学として発達しました。語の用例を古詩から拾い、文脈と啓示事情(アスバーブ・アン=ヌズール)を整え、同一主題の諸節を横断的に読み合わせる手法が確立されます。法学派ごとに強調点は異なるものの、注釈は単なる一意解の提示ではなく、読みの幅を管理し社会的合意を形成する営みとして機能しました。近代以降は歴史批判や文献学、比較宗教学の方法も取り入れられ、言語の層位や写本系統の比較、碑文資料との照合などが進みます。

写本そのものは、美術工芸と学術の交差点でした。章頭や区切りを飾る幾何学・植物文様、金泥やラピスラズリの色彩、書体(クーフィー体、ナスフ体など)の選択は、地域ごとの美意識と規範を反映します。『コーラン』は偶像崇拝を避けるため具象表現を抑制する傾向が強く、文字と文様の造形が宗教空間を満たしました。こうした視覚文化は、モスクの壁面やドーム、陶器や布装丁にも広がり、聖典の語を日常空間に刻み込みました。

読解と影響—法・信仰・文化の広がり

『コーラン』の読解は、信仰生活の最も基本的な実践です。毎日の礼拝での朗唱、金曜礼拝での説教、断食月(ラマダーン)における通読(ハットム)など、節目ごとに読みと聴きが重ねられます。暗唱は単なる記憶ではなく、発音・長短・抑揚を細かく規定するタジュウィードの規範に従って身につけられます。子どもたちは短い章から学び、熟達者は書を見ずに全体を唱えることができます。こうして聖典は、文字通り身体化された知として共同体に内在します。

法と倫理の面では、『コーラン』の節がハディース(預言者の言行録)や法学の理論と組み合わさり、イスラーム法(フィクフ)の根拠を成します。飲食や婚姻、相続、契約、刑罰、戦時の規範など、具体的な問題に対して、詩的記述から原則を抽出し、類推(キヤース)や合意(イジュマー)といった方法で拡張していくのが伝統的な学のやり方です。同時に、語の多義性や文脈の違いをめぐって解釈の幅が生じ、学派ごとの見解が生まれます。ある規定の適用範囲や時限性を論じる「アブローゲーション(ナスク)」の議論などは、古くから注釈と法学の接点で発達しました。

文化的影響は多方面に及びます。アラビア語圏の詩や散文は、『コーラン』の語彙とリズム、比喩の型を豊かに取り込みました。説教や歴史叙述、旅行記や科学書の前文にも、聖句の引用が頻出します。音楽的な朗唱は、地域の旋法や声楽伝統と交わりながら、聴衆の心を掴む宗教芸術となりました。書道や建築装飾におけるアラベスクと書字の融合は、視覚文化としてのイスラーム美術の象徴的な特徴です。教育面では、クッターブ(初等教育施設)やマドラサ(高等学寮)での暗唱と注釈の学びが、識字と学術の基盤を築きました。

翻訳は、非アラビア語話者に『コーラン』を開く重要な窓です。ただし、伝統的にはアラビア語の本文そのものが神の言葉とされ、翻訳は意味の解説(タフスィール)と位置づけられる場合があります。近代に入り、各国語訳が広く普及し、注釈を伴う訳や逐語訳、現代語訳など、多様なスタイルが登場しました。翻訳は受け入れ社会の文化や法体系と対話しながら広がり、用語選択や文体が、地域の宗教理解や公共言説にも影響を与えます。

現代においても、『コーラン』は政治や社会運動、倫理や科学をめぐる討議の中心で引用されます。環境保護や人権、ジェンダーや医療倫理の問題に対して、聖句をどのように読み替え、古典学の枠組みと現代の課題をどう結びつけるかが模索されます。デジタル技術は写本画像や朗唱音源、語彙データベースの共有を進め、比較と検索の方法を一変させました。他方、解釈の多様化は共同体内の合意形成を難しくする局面も生みます。伝統の規範と新しい課題の折り合いをどうつけるかは、今日の知的実践における主要なテーマです。

以上のように、『コーラン(クルアーン)』は、啓示の出来事に始まり、朗唱と注釈、法と倫理、芸術と教育を貫いて、社会を形づくってきたテキストです。音声と文字の二重の伝統に支えられ、地域ごとに多彩な表情を見せながら、現在もなお読み直され、生活の中で息づいています。世界史的に見れば、それは宗教の枠を超えて、言葉と共同体の関係、知の継承と変化のダイナミズムを示す、豊かな実例であると言えます。