サン=マルティン(ホセ・デ・サン=マルティン) – 世界史用語集

ホセ・デ・サン=マルティン(José de San Martín, 1778–1850)は、南米独立革命をアルゼンチン・チリ・ペルーの三地域で推し進めた軍人・政治家です。ラ・プラタ(現アルゼンチン)に生まれ、少年期にスペインへ渡って正規軍で経験を積み、ナポレオン戦争の只中で軍事・行政の実務を身につけました。1812年に帰郷してからは、アンデス横断作戦でチリを解放し、海軍力を整えてペルーへ遠征、1821年にリマ入城と独立宣言にこぎつけて「ペルー護国者」を称しました。翌1822年のグアヤキル会談でボリバルに主導権を譲ると第一線を退き、欧州で静かな晩年を送りました。彼の方法は、戦場の勝利だけでなく、補給・徴税・外交・宣伝・統治案を束ねた総合戦略に特色があり、スペイン帝国体制の脆弱部を突いて、南米南部から「帝都リマ」へと圧力軸をずらす発想にありました。

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出自・形成と帰郷――帝国軍人からラ・プラタの革命へ

サン=マルティンは1778年、ラ・プラタ総督領のヤペジュ(現アルゼンチン北東部)に生まれました。父親はスペイン王領の行政・軍務に携わる下級官吏で、一家は彼が幼い頃にスペイン本国へ移住します。少年期から士官教育を受け、アフリカ・イベリア半島での戦役に参加して、歩兵戦術、砲兵運用、兵站管理、文書作法を学びました。1808年の半島戦争では反仏闘争に加わり、バイレンなどでの戦功が記録されています。こうした経歴は、単なる勇将ではなく「制度を動かせる実務家」という性格を形づくりました。

1810年、ブエノスアイレスで五月革命が起こり、ラ・プラタ全域で自治・独立の議論が加速します。サン=マルティンは1812年にアメリカへ戻り、志願兵騎兵連隊「グラナデーロス・ア・カバージョ」を創設、翌年のサン・ロレンソの小会戦で手際のよい上陸阻止を成功させました。彼は早くから「リマを倒さずして独立なし」と主張し、リオ・デ・ラ・プラタ戦域の内紛や上北方の高地戦から決別、アンデスを越えてチリを解放し、海からペルーへ向かうという大戦略に舵を切ります。1814年にはクヨ州(本拠メンドーサ)の統治を委ねられ、徴発の簡素化、工房・鋳造所の整備、軍糧調達、住民動員の合意形成に動きました。

この時期、彼はオイギンスやベラスコらチリ側の亡命者と連携し、共通の作戦計画を煮詰めます。同時に、ロッジ(ラウタロ派)の結社的ネットワーク、印刷物や布告による宣伝、先住民・辺境民との関係調整など、政治と心理の戦を仕掛け、国籍や身分を越えた支持のすそ野を広げていきました。彼の政治感覚は非情に現実的で、中央集権か連邦かをめぐるブエノスアイレスの内戦には深入りせず、対王党派の戦争を優先させる「前線主義」を貫きます。

アンデス越えからチリ解放、そして海へ――総合戦略としての独立戦争

1817年初頭、アンデス山脈の越境作戦が敢行されました。軍は複数の峠路(ロス・パトス峠とウスパジャタ峠など)に分進し、陽動を交えてチリ側へ降下します。高地順応、獣力の配分、寒冷対策、火砲の曳上げ、食糧・硝石・衣服の備蓄など、綿密な準備が成果を生み、チリ側の王党派は機動に対応できず後退しました。2月のチャカブーコで独立派が勝利し、1818年のマイポにおける決戦で王党派の主力を粉砕、チリの独立確立が現実味を帯びます。オイギンスは最高司令官として臨時政権を担い、サン=マルティンは次の目標を「海」と定めました。

チリは長い海岸線と造船・商船の蓄積を活かし、コクラン(英海軍出身の私掠・帆走戦の名手)を招聘して艦隊を刷新します。サン=マルティンは陸海の結節点として港湾・補給・徴税を再設計し、海上封鎖と上陸作戦を組み合わせてリマを圧迫する構想を固めました。これは内陸の高地戦に終始した上方戦線(現ボリビア)と異なる発想で、帝国中心の沿岸都市を「外から締め付ける」ものでした。1820年、遠征軍はペルー沿岸に上陸し、独立の宣言・布告を各地で展開、王党派内部のクレオール士官や富裕層に寝返りの余地を与える心理戦を仕掛けます。

1821年、リマは占領され、7月28日に独立が宣言されました。サン=マルティンは「ペルー護国者(プロテクタドール)」として暫定統治に入り、検閲の緩和、象徴(旗・紋章)の制定、奴隷制の段階的廃止に向けた措置(出生自由や売買抑制の布告)、先住民からの人頭税・労役の撤廃など、社会の枠組みを帝国モデルから切り離す政策を打ち出します。王党派は高地に退いて抗戦を続け、戦争は未決着のまま長期化しました。ここで彼は、北部大陸で連勝を重ねていたシモン・ボリバルの支援を仰ぐため、グアヤキルで会談に臨みます。

1822年7月のグアヤキル会談は、史上まれな「二人の解放者」の会合として知られます。会談の詳細は記録が乏しく解釈が分かれますが、概して言えば、軍事的主導権の譲渡と統治構想の差異(複王制・立憲君主制志向か、共和制の徹底か)、兵站の分担と人員補充、外債と財政の扱いなどが核心でした。結果、サン=マルティンは自軍の主導権維持に固執せず、ボリバルに道を譲って前線から退く決断をします。1822年末、彼はリマの護国者職を辞し、祖国の内戦に巻き込まれまいと欧州へ去りました。その後のアヤクチョの勝利(1824)でスペインの支配は決着しますが、その栄誉はボリバルとスケールへ帰しました。

この退場は、勇猛な英雄像と異なる冷静な自己抑制を示しています。彼は政争と個人崇拝が独立プロジェクトを破綻させる危険を読み、統合作戦のために自己の栄達を引き換えにしました。こうした姿勢は、のちにアルゼンチン・チリ・ペルーでの評価に影を落としもしましたが、作戦立案者・制度設計者としての彼の像を一層際立たせる結果にもなりました。

統治構想・思想・人となり――「秩序ある自由」をめざして

サン=マルティンは、急進的な社会革命というより「秩序ある自由」を好む実務主義者でした。彼は当時のスペイン世界が抱えた身分制・人頭税・強制労役・奴隷制・閉鎖的通商を段階的に解体する政策を打ち出しつつ、急激な没収・報復・無秩序を避けました。貨幣・関税・徴税の制度を維持し、旧支配層の中間層・商人・士官を抱き込みながら、忠誠の乗り換えを促すのが彼のやり方でした。これは裏切りの奨励ではなく、「帝国の法から独立国家の法へ」移行する際に必要な実務の政治だったと言えます。

王制か共和制かという点では、彼は一貫した王党ではありませんが、当時の南米社会が安定した立憲君主制を媒介にして国際承認を得やすいという計算を持っていました。インカ王族を君主に戴く「インカ王制案」などが議論されたのも、象徴統合のための一案として理解できます。他方、ボリバルは共和制の理念を掲げつつも、非常権限や終身大統領への傾斜を強め、現実には強権的でした。両者の差は、手段・秩序観・地域構造の差に根差しており、単純な保守/革新の区別には収まりません。

サン=マルティンの人柄について同時代人は、寡黙で倹約、兵士と民衆に公平、約束に厳格、敵に対しても礼を失わないと記しています。アンデス遠征の準備では、織工・鍛冶・硝石職人・獣医・案内人・通訳・司祭に至るまで名簿と給付を整え、軍紀の緩みを嫌って略奪を厳禁しました。彼は無頼のカウディーリョではなく、法と規律にもとづく「国軍」の原型をつくろうとしたのです。兵士の遺族・負傷者に対する恩給、現地住民への代価支払い、先住民領の通行許可の取り付けなど、細部に配慮した記録が残ります。

宣伝・広報の重要性も早くから理解していました。布告・軍楽・旗章・記念祭・印刷物を通じ、独立の理念と具体的利益(税の軽減、通商自由、法の平等)を語り、帝国側の宣伝(秩序崩壊・無神論・略奪の恐怖)に対抗しました。司祭や修道会とは対立より協力を選び、信仰を敵に回す不必要な挑発を避けています。こうした「説得の政治」は、彼の戦略全体を貫く柱でした。

晩年と記憶――静かな引退、揺れる評価、そして遺産

グアヤキル会談後、サン=マルティンは短期間ブエノスアイレスに戻りますが、内戦的対立(中央集権派と連邦派の抗争)に巻き込まれるのを避け、娘とともに欧州へ渡りました。以後、ブローニュ=シュル=メール(仏)の静かな寓居で書簡のやり取りに限って政治を遠望し、亡命者・留学生・商人らと交流しながら暮らしました。1850年、同地で没し、遺骸はのちにブエノスアイレス大聖堂へ改葬されます。

評価は、19世紀の国家建設とともに揺れました。アルゼンチンでは内戦の記憶が長く尾を引き、どの派閥の英雄とみなすかで像が変わりました。チリではオイギンスと並び立つ解放者として、ペルーでは護国者として顕彰されつつ、ボリバルの巨大な記憶の陰に隠れる面もありました。20世紀に入ると、軍部・自由主義・保守・改革派のいずれもが彼を「自らの祖」とみなしたい誘惑に駆られ、像は政治的利用の対象にもなりました。軍紀の重視、略奪忌避、行政の整序、内戦不関与、対外干渉の最小化という彼の特質は、たしかに多様な政見に解釈可能な普遍性を持っていました。

歴史学は、神話化を離れて彼の実務の層を明らかにしてきました。アンデス越えの補給台帳、メンドーサの工房台帳、リマの布告集、港湾徴税の記録、宣伝用印刷物、敵将との往復書簡などが読み直され、戦略・兵站・統治の連関が具体的に描かれています。アンデス作戦における複数峠の分進、火砲の軽量化、動物資源の季節的運用、地元共同体の合意形成、宗教儀礼の活用、海軍私掠の制度化などは、組織的学習の賜物でした。ペルーでの統治についても、奴隷制の段階的廃止や先住民負担の撤廃が、理念だけでなく布告と執行体制を伴っていたことが実証されています。

彼の遺産は、地図上の国境だけでなく、軍の組織文化と政治の作法に残りました。すなわち、戦場で勝つために、後方の工房・徴税・教育・印刷・信仰・港湾・外交の全てを動員するという発想、相手の降伏と転向を容易にする寛容の政策、内戦を避けて外敵に優先順位をつける判断、個人権力を避ける自制心です。ボリバルほど多弁ではなく、ワシントンほど象徴化されもせず、ナポレオンほど華美でもない。けれども、その静かな構築力は、南米南部の独立が偶然の暴風ではなく、周到な設計に支えられていた事実を教えています。

今日、アンデスの峠には軍の記念碑が建ち、メンドーサには当時の工房や軍営を伝える博物館があり、ペルーの独立記念式典では護国者の肖像が掲げられます。一つひとつの地名と布告の背後に、文書と汗、そして沈黙の意思決定が積み上がっていました。サン=マルティンを知ることは、英雄叙事の陰で動く制度と段取りを読み解くことにほかなりません。