湘軍 – 世界史用語集

「湘軍(しょうぐん)」とは、19世紀半ばの清(しん)王朝で、主に中国南部の湖南省(こなんしょう・フナンしょう)を中心に編成された地方の武装勢力・軍隊のことです。指導者は曾国藩(そうこくはん/ツォン・グオファン)という地方官僚・学者出身の人物で、彼が故郷の湖南で募兵した郷勇(きょうゆう)をもとに作り上げました。湘軍は、とくに太平天国の乱を鎮圧するうえで決定的な役割を果たした軍隊として知られています。

それまで清の軍事を支えてきたのは、満州族の「八旗軍(はっきぐん)」や、各地に配置された「緑営(りょくえい)」と呼ばれる正規軍でした。しかし太平天国の乱のような大規模な内乱に対して、これらの正規軍は腐敗や訓練不足によって効果的に対応できなくなっていました。そこで地方の有力官僚や郷紳(きょうしん)と呼ばれる地主層が、自前で兵士を集めて組織したのが湘軍のような地方軍です。その代表例が湖南省の湘軍でした。

湘軍は、単に一時的な反乱鎮圧部隊というだけでなく、「地方の有力者が自分の人脈と財力をもとに組織した軍隊」という点で、近代中国の軍事・政治のあり方に大きな影響を与えました。のちに淮軍(わいぐん)や各地の軍閥と呼ばれる勢力につながっていく「地方軍事力の台頭」の出発点の一つとみなされます。

以下では、湘軍が生まれた背景、組織と特徴、太平天国の乱での活躍、そしてその後の清朝と中国近代史へのつながりについて、順を追って見ていきます。

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湘軍の成立背景:太平天国の乱と清王朝の危機

湘軍が登場するのは、19世紀半ばの中国です。この時代の中国は、アヘン戦争でイギリスに敗れ、開港や賠償金支払いなどを強いられた直後でした。清王朝の権威は揺らぎ、社会不安が高まる中で、国内各地で宗教結社や秘密結社による反乱が頻発するようになります。その最大級のものが、広西省(こうせいしょう)から始まった太平天国の乱(1851〜1864年)でした。

太平天国は、洪秀全(こうしゅうぜん)という人物がキリスト教的な教えを独自に解釈して作り上げた宗教運動を背景に、「太平天国」という新しい理想国家の建設をめざした大規模な反乱政権です。彼らは清朝を「悪しき満州の王朝」とみなし、「滅満興漢(満州を滅ぼし漢民族を興す)」というスローガンを掲げて急速に勢力を広げました。やがて南京(なんきん)を占領して「天京(てんけい)」と改称し、各地の農民や貧困層を巻き込んだ長期の内戦状態になります。

この太平天国の乱を前にして、清王朝の八旗軍や緑営は有効に機能しませんでした。長年の平和と特権に甘んじた結果、規律はゆるみ、兵士の士気も低下していたからです。地方の役人たちは、従来型の軍隊だけでは太平軍を止められないことを痛感し、各地で自ら兵を募って地方軍を組織し始めました。これが「郷勇」や「団練」と呼ばれる民兵的な組織の発展につながります。

湖南省の地方官であった曾国藩も、こうした状況に直面した一人でした。彼は科挙に合格したエリート官僚でありながら、故郷である湘江(しょうこう)流域の人びとを中心に兵を集め、郷勇を編成しました。この郷勇が発展し、より大規模で組織立った軍隊となったものが「湘軍」です。湘江にちなんで「湘」の字が使われ、湖南の地方色を強く帯びた軍として知られるようになりました。

つまり湘軍は、中央政府が自ら派遣した正規軍ではなく、「地方官僚である曾国藩が、自分の人脈と地元社会を基盤に立ち上げた軍隊」でした。この点が、その後の中国における地方軍閥のあり方を先取りする性格を持っていたといわれます。

湘軍の組織と特徴:地方社会に根ざした軍隊

湘軍の大きな特徴は、その編成と財政基盤が「地方社会」に深く根ざしていたことです。曾国藩は、主に湖南省の農民や若者を地元の郷紳・地主層の推薦を受けて募集しました。兵士たちは同じ地域出身者同士で中隊・大隊のような部隊に組み込まれ、指揮官もまた地元の名士や学者が務めることが多かったため、「地縁」と「人縁」による結びつきが強い軍隊になりました。

財政についても、湘軍は清朝の中央政府から全面的な給与を受けていたわけではありません。確かに朝廷からの支援金はありましたが、それだけでは大軍を維持できないため、湖南省や周辺地域の地主・商人からの献金、地方税収の振り向けなど、地元の財源に大きく依存していました。このため、湘軍はしばしば「地方社会が自ら負担して作り上げた軍隊」と表現されます。

こうした編成方法は、一方で兵士の結束や士気を高める効果がありました。同郷の仲間や、日頃から尊敬している地元の名士が隊長を務めることで、兵士たちは「故郷を守る」という意識を持ちやすかったとされています。また、曾国藩は儒教的な規範を重んじる人物であり、軍紀の厳正や道徳教育を重視しました。兵士に対して節制や忠誠心を求め、略奪や暴行を固く禁じたと伝えられます。

さらに湘軍は、当時としては比較的近代的な兵器や戦術を取り入れようとした点でも注目されます。アヘン戦争を通じて西洋の火器の威力を知っていた清朝の一部官僚は、洋式の銃砲や砲術を導入する必要性を感じていました。湘軍や、のちに淮軍を率いる李鴻章(りこうしょう)らは、西洋式武器の購入や訓練にも関心を持ち、のちの洋務運動とも結びついていきます。

ただし、湘軍は近代的な国民軍というより、「曾国藩個人とその人脈に強く依存した軍隊」でもありました。兵士の忠誠心は国家や清王朝そのものに向かうよりも、湘軍の指揮官や郷里との関係に結びついていた側面があり、この点が後に地方軍閥の形成につながる要因ともなります。

太平天国の乱における湘軍の活躍

湘軍が歴史の表舞台に大きく登場するのは、太平天国の乱との戦いにおいてです。太平天国は長江(ちょうこう)流域を中心に広大な領域を支配していましたが、その勢力圏と湖南省は地理的にも近く、湘軍は太平軍と直接対峙することになりました。曾国藩は自身の軍事経験が乏しかったものの、慎重な戦略と堅実な攻城戦を重ねることで、次第に太平軍に打撃を与えていきます。

湘軍の大きな成果の一つが、安徽省(あんきしょう)の安慶(あんけい)をめぐる戦いです。安慶は長江中流域の重要拠点であり、ここを巡る攻防は太平天国の命運を大きく左右しました。湘軍は長期にわたる包囲と砲撃の末、1861年に安慶を陥落させます。この勝利によって太平天国は長江流域での支配を大きく揺さぶられ、戦局は清朝側に有利に傾いていきました。

その後も湘軍は、長江沿いの都市を次々と攻略し、最終的には太平天国の首都・天京(旧南京)への総攻撃に参加することになります。1864年、湘軍と淮軍など清朝側の諸軍は天京を攻め落とし、太平天国の乱は終結に向かいました。この時の戦闘は非常に激しく、多数の死者を出したと伝えられますが、湘軍にとっては「太平天国鎮圧の立役者」として名を上げる重要な戦いとなりました。

太平天国の乱を鎮圧する過程で、湘軍の将校たちの中からは、のちに清末を代表する政治家・軍人となる人物が多数育ちました。曽国藩のほか、左宗棠(さそうとう/ゾオ・ゾンタング)や胡林翼(こりんよく)などがその代表例です。彼らはそれぞれ西北辺境の防衛や対外戦争、洋務運動といった分野で重要な役割を果たすことになります。

このように湘軍は、単に太平天国を打ち破った軍隊というだけでなく、清王朝の後期を支える地方エリートたちの「人材の学校」としても機能しました。その一方で、彼らが地方に強大な軍事力と政治的影響力を持つようになったことは、中央集権を弱体化させる要因ともなりました。

湘軍の展開と清末へのつながり

太平天国の乱が終息すると、湘軍の一部は解散されましたが、そのすべてが完全に消えたわけではありません。各地の部隊や将校たちは、それぞれの地域で軍事・政治の実権を握り続けることも多く、湘軍で培われた「地方軍の自立性」は、その後の中国政治に長く影響を及ぼしました。

湘軍の後継とみなされる存在としてよく挙げられるのが、李鴻章を中心とする「淮軍(わいぐん)」です。淮軍は主に安徽省や江蘇省などを基盤とした地方軍であり、その編成原理や財政基盤は湘軍とよく似ていました。湘軍と淮軍をはじめとするこれらの地方軍は、清朝の正規軍に代わって、内乱の鎮圧や対外戦争の主力となっていきます。

19世紀後半になると、清王朝はアロー戦争や日清戦争など、列強との戦争にも直面するようになります。その際、湘軍や淮軍出身の将軍たちは、軍事力だけでなく、造船所・兵器工場・近代学校の設立など、いわゆる「洋務運動」と呼ばれる近代化政策にも深く関わりました。曾国藩や李鴻章、左宗棠らは、伝統的な儒教官僚でありながら、西洋技術の導入や近代的軍備の整備を進めた人物として評価されています。

しかし皮肉なことに、こうして地方軍が力を増せば増すほど、清朝の中央集権は相対的に弱まっていきました。皇帝や中央政府が直接指揮できる軍隊よりも、各省の有力者が握る軍のほうが現実の武力として強大になると、中央と地方の力関係は逆転していきます。この構図は、清朝が崩壊したあとの中華民国期に、各地の軍閥が割拠する状況として表面化しました。

その意味で、湘軍は太平天国の乱を鎮圧して清王朝を一時的には救いながらも、長期的には「地方軍事力の自立」という形で中央権力の弱体化を進める起点となったともいえます。地方の有力者が自前の軍隊を持ち、地域に根ざした財政・人脈にもとづいて政治を行うスタイルは、その後の軍閥時代や地方政権のあり方にまで影響を残しました。

こうした流れの中で湘軍を振り返ると、それは19世紀の中国が内乱と対外圧力に揺れる中で生み出した、「地方社会と結びついた新しいタイプの軍隊」であったことが分かります。湘軍は、清朝を守るために組織された軍隊でありながら、同時に清朝の伝統的な支配構造を変えていく力も内包していた存在だったのです。