植民市(ローマ) – 世界史用語集

「植民市(しょくみんし)(ローマ)」とは、古代ローマが征服地や国境地帯に建設した「コロニア(colonia)」と呼ばれる都市・集落のことで、ローマ市民や同盟者を移住させることでローマの支配と文化を広げる役割を担ったものです。同じ「植民市」という訳語がギリシアにも使われますが、ギリシアのアポイキアが本国ポリスから分かれて独立した新ポリスをつくる性格が強かったのに対し、ローマの植民市は、あくまでローマ国家の支配を各地に行き渡らせるための「出先拠点」であり、政治的にもローマとの結びつきが強い存在でした。

ローマの植民市は、軍事的な前線基地であると同時に、退役兵に土地を与える場でもありました。征服地にローマ市民を入植させることで、その地域を軍事的に押さえ、同時にローマに忠誠を誓う人びとの分布を広げていきます。また、ローマ風の都市計画(碁盤目状の街路、フォルム、神殿、浴場など)、ラテン語、ローマ法、神々への祭祀が持ち込まれ、周囲の先住民社会は次第に「ローマ化(ローマニゼーション)」されていきました。

ローマの植民市には、「ラテン植民市」と「市民植民市」などいくつかの種類があり、そこに住む人びとの権利(ローマ市民権の有無)やローマとの関係の度合いも異なりました。植民市のネットワークは、イタリア半島から地中海世界全体へと広がり、共和政期から帝政期にかけて、ローマ世界を支える重要な骨組みとなっていきます。

以下では、まずローマの植民市とはどのような性格の都市だったのかを整理し、ギリシアの植民市との違いを確認します。ついで、共和政期におけるイタリア半島内の植民市と、その軍事・社会的役割を見ていきます。そのうえで、ラテン植民市と市民植民市の区別や、ローマ化の進展、帝政期の植民市の変化とその歴史的意義について説明します。

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ローマの植民市とは何か:ギリシア植民市との違い

ローマの植民市(コロニア)を理解するうえで重要なのは、「誰が、何のために」つくった都市なのかという点です。ギリシア世界の植民市(アポイキア)は、多くの場合、母市ポリスが人口増加や土地不足、交易ルート確保などを目的として市民を送り出し、遠方に新しいポリスを建てるものでした。新ポリスは、母市と宗教的・文化的な関係を保ちつつも、政治的には独立した存在として振る舞うことが多く、「親子関係」ではあるものの、「支配―従属」の関係とは限りませんでした。

これに対し、ローマの植民市は、ローマ国家――とくにローマ市(ウルブス・ローマ)を中心とする共同体――が上からの決定として建設する性格が強く、政治的にもローマの支配構造の一部として位置づけられました。植民市の設置は、元老院や民会などローマの公的機関によって決議され、指導者となる植民監督官(トリアムウィリなど)が任命されて、入植者が組織的に送り込まれます。

ローマの植民市は、主に次のような目的を持っていました。第一に、軍事的・戦略的目的です。国境地帯や反乱の起こりやすい地域にローマ市民や忠実な同盟者を配置し、城壁を備えた都市を築くことで、敵対勢力に対する「砦」として機能させました。第二に、土地配分の役割です。ローマでは征服地の公有地(アゲル・プブリクス)が生まれますが、その一部を植民市として分配し、貧しい市民や退役兵の生活基盤を整える政策が取られました。

第三に、文化・行政の拠点としての役割です。植民市にはローマ風の都市計画が導入され、フォルム(公共広場)、神殿、浴場、道路、上下水道などが整備されました。裁判や徴税、宗教儀礼の中心として機能することで、周囲の先住民共同体をローマの統治システムのもとに組み込んでいきます。ラテン語やローマ法、ローマの慣習が浸透することで、地方社会は徐々に「ローマ的な世界」の一部となっていきました。

このように、ローマの植民市は「ローマという国家が、征服地や周辺地域に送りだした“ミニ・ローマ”」と表現することができます。ギリシアの植民市が、本国から離れた独立ポリスとして広がっていったのに対し、ローマの植民市は、一つの中心(ローマ)を頂点とする統一国家の網目を作る拠点として機能したのです。

共和政期イタリアの植民市:征服地支配と市民の分流

ローマの植民市の歴史は、まずイタリア半島における支配拡大と深く結びついています。初期のローマは、ラティウム地方の一都市国家にすぎませんでしたが、周囲のラテン人諸都市やエトルリア人、サムニウム人などとの戦いを通じて、少しずつ支配領域を広げていきました。この過程で、征服した土地をいかに安定的に統治するかが大きな課題でした。

共和政初期から中期にかけて、ローマはイタリア各地の戦略的要所に植民市を設置しました。代表的な例として、オスティア(テヴェレ川河口の港町)、ネプテュネ、コリントゥム沿岸の諸都市などが挙げられます。これらの植民市は、海上交通の監視や沿岸防衛のための基地として重要でした。また、内陸部の要衝にも植民市が置かれ、山岳地帯の制圧や道路網の確保に役立てられました。

植民市に送られる入植者は、通常、ローマ市民と同盟者(ラテン人など)の混合でした。ローマ市民にとって、植民市への入植は、土地を得て自立した農民として生活するチャンスであると同時に、故郷を離れるリスクを伴う選択でもありました。都市部に残る市民にとっては、植民市への移住によって人口圧力が緩和され、貧民問題の一部が解消されるという利点もありました。

ローマの征服が進むにつれ、イタリア半島の多くの地域は、ローマ市、植民市、自治都市(同盟市)など、多様なステータスの都市が入り混じるモザイク状の構造をとりました。植民市は、その中で「ローマ的秩序」を地方に浸透させる役目を担っていました。ローマ風の裁判制度や官職、宗教儀礼が植民市を通じて地方に広がることで、イタリア全体が一つの政治文化圏として統合されていきます。

ただし、植民市の設置は常に順調だったわけではありません。先住民を土地から追い出して植民市を築く場合、当然ながら強い反発が起こりました。また、ローマ市民の中にも、遠隔地への移住を嫌がる者もおり、希望者が少ない場合には入植者を募るのに苦労することもありました。それでも、共和政期を通じて、植民市はローマのイタリア支配を下支えする重要な制度として機能し続けました。

ラテン植民市と市民植民市:権利とローマ化

ローマの植民市には、法的地位や住民の権利に応じて複数の種類がありました。とくに重要なのが、「ラテン植民市」と「市民植民市」の区別です。

「市民植民市(コロニア・チヴィウム)」は、その名の通りローマ市民を中心とした植民市で、住民は完全なローマ市民権を持ちました。彼らはローマに帰属し、ローマの民会に参加する権利(一部制限がある場合もありました)や、ローマ法にもとづく権利を持ちつつ、現地の植民市で生活しました。市民植民市は、ローマ本体の延長としての性格が強く、「ローマの分身」として扱われました。

これに対して「ラテン植民市」は、ラテン人を中心とする植民市であり、住民はラテン市民権(イウス・ラティウム)と呼ばれる限定された権利を持ちました。ラテン市民権は、婚姻・契約など一部の私法上の権利や、ローマ市民権への一定の道を開く特権を含んでいましたが、ローマの政治的決定に直接参加する権利(投票権など)は制限されていました。

ラテン植民市は、ローマと完全に同一ではないが、ローマと特別な関係を持つ「半ばローマ的」な共同体として機能しました。ローマは、ラテン植民市の住民に一定の特典を与えることで忠誠心を引き出し、同時にローマ化を進めていきました。ラテン語やローマ風の服装・名前、ローマの神々への信仰が植民市やその周辺に広がることで、周辺の先住民社会は次第に「ローマの一部」として再編されていきます。

こうした植民市のネットワークは、ローマ世界の統合に大きく寄与しました。軍事的には、植民市の住民はローマ軍の兵士として動員され、道路網を通じて迅速に集結することができました。経済的には、植民市が周辺地域の農産物や特産品を集め、ローマや他地域へと供給する中継拠点となりました。文化的には、劇場や浴場、フォルムなど公共施設を通じて、ローマ的な都市文化が地方に浸透しました。

このように、ローマの植民市は、単に人びとを移住させた「移民の町」ではなく、ローマ市民権制度と密接に結びついた「権利と義務のパッケージ」として存在していました。誰がどの権利を持ち、どこまでローマと一体なのか――その細やかな区分が、ローマの柔軟かつ複雑な支配構造の一部をなしていたのです。

帝政期の植民市とローマ世界の広がり

共和政末期から帝政期にかけて、ローマの植民市政策はイタリア半島の枠を超え、属州(プロウィンキア)にも広がっていきました。ガリア(現在のフランスやベルギー)、ヒスパニア(イベリア半島)、ブリタンニア(ブリテン島)、北アフリカ、東地中海世界など、広大な地域にローマ風の植民市が建設されました。

この時期、植民市はとくに退役軍人の受け皿として重要でした。長期の軍役を終えた兵士たちに土地と家を与え、植民市に定住させることで、皇帝は彼らの忠誠心に報いると同時に、地方支配の基盤を固めました。こうした軍人植民市は、しばしば皇帝の名前を冠し、皇帝崇拝の中心ともなりました。

帝政期のある段階からは、「コロニア」という称号自体が名誉的な意味を帯びるようになり、実際の植民の有無にかかわらず、重要都市に「コロニア」の称号が与えられる例も増えていきます。このため、初期のような「新設の植民市」と、後期の「称号としてのコロニア」を区別して理解する必要があります。

属州の都市の多くは、もともと先住民の集落や都市国家でしたが、そこにローマ風の都市施設が整備され、ローマ市民権やラテン市民権が付与されていくことで、次第にローマ化していきました。やがて212年のカラカラ帝の「アントニヌス勅令」によって、帝国内のほぼすべての自由民にローマ市民権が与えられると、市民権を通じた区別は弱まり、ローマ世界は形式上「全員がローマ市民」という状態になります。

それでも、都市の格や歴史的背景の違いは残り、古くからの植民市は依然として重要な地域拠点であり続けました。今日でも、ヨーロッパ各地の都市名や遺跡の中には、ローマ植民市としての起源を持つものが数多くあります。たとえば、ケルン(コロニア・アグリッピネンシス)、ケルチュの近くの都市、フランスやスペインの各地のローマ都市などは、植民市として建設・再編された例です。

このように、ローマの植民市は、イタリア半島から始まり、やがて地中海世界・西ヨーロッパ・西アジア・北アフリカへと広がる巨大なローマ世界の骨格を形づくりました。征服地の上に「ローマ風の都市」を植え付け、そこに人びとと制度・文化を流し込むことで、ローマは単なる軍事制圧ではなく、「ローマの世界」を作り上げていったのです。

世界史の学習で「植民市(ローマ)」という用語に出会ったときには、「ローマの支配と文化を地方に根づかせるために建設されたコロニア」「ローマ市民権やラテン市民権と結びついた都市」「軍事・土地配分・ローマ化の拠点」という要素をあわせて思い浮かべると、その意味がより具体的に理解しやすくなります。ギリシアの植民市との違いを意識しながら見ることで、古代の「植民」のあり方にも多様性があったことが見えてくるでしょう。