ジョゼフィーヌ – 世界史用語集

「ジョゼフィーヌ」とは、フランス革命からナポレオン時代にかけて生きた女性で、本名をマリー=ジョゼフ=ローズ・ド・ボアルネといい、のちにナポレオン1世の最初の妻・フランス皇后となった人物です。一般には「ナポレオンの妻ジョゼフィーヌ」として知られていますが、その生涯は単なる「偉大な皇帝の妻」という枠をこえて、革命の恐怖政治を生き抜いた未亡人、社交界の花、ファッションリーダー、そしてボタニカルガーデンを作り上げた趣味人としての多面的な側面に満ちています。

ジョゼフィーヌはフランス本国ではなく、カリブ海にあるフランス領マルティニーク島の裕福な植民者家庭に生まれました。若くしてボアルネ伯爵と結婚してパリ社交界に入り込みますが、フランス革命の混乱の中で夫はギロチンにかけられ、自身も投獄されるなど、波乱に満ちた運命をたどります。その後、釈放された彼女はパリのサロンで再び頭角をあらわし、若き軍人ナポレオン・ボナパルトと出会って再婚し、やがて「フランス皇后」となりました。

とはいえ、二人の結婚生活は常に順風満帆だったわけではありません。ナポレオンの遠征中に生まれた不信、ジョゼフィーヌが皇帝に男子の後継者を与えられなかったこと、そしてヨーロッパ支配を目指すナポレオンの王朝戦略などが絡み合い、最終的に二人は政略的な離婚に至ります。それでもナポレオンは生涯ジョゼフィーヌへの愛情を完全には失わなかったと伝えられ、離婚後も彼女はマルメゾンの館で文化サロンを開き、園芸と芸術保護に専念しました。

以下では、まずジョゼフィーヌの生い立ちとボアルネ家時代、つづいてナポレオンとの出会いと皇后としての役割、離婚と晩年の生活、最後に歴史の中での評価やイメージの変化について順に見ていきます。彼女の生涯をたどることで、ナポレオン時代の政治・社会だけでなく、当時の女性の生き方や社交文化についても立体的に理解することができます。

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生い立ちとボアルネ家時代―植民地出身の貴婦人

ジョゼフィーヌは1763年、カリブ海のフランス領マルティニーク島で、サトウキビ農園を経営する白人植民者の娘として生まれました。幼少期を南国の自然の中で過ごした経験は、のちに彼女が植物や庭園づくりに強い関心を示す背景のひとつになったと言われます。とはいえ、当時のマルティニーク社会は砂糖プランテーションと奴隷制によって成り立っており、ジョゼフィーヌ自身も、植民地支配と奴隷制度の恩恵を受ける側の家庭で育ったことになります。

若くして彼女はフランス本国に渡り、貴族ボアルネ家のアレクサンドル・ド・ボアルネと結婚します。これにより、パリ社交界への道が開かれ、彼女は洗練された言葉遣いと振る舞いを身につけていきました。二人のあいだには息子ウジェーヌと娘オルタンスが生まれますが、夫婦仲は必ずしも良好ではなく、夫の浮気や借金問題などから、別居に至る時期もありました。

やがてフランス革命が勃発し、貴族階級は急速に危険な立場に置かれます。ボアルネ伯爵は革命軍の将軍として一時期は活躍したものの、やがてジャコバン派の恐怖政治のなかで「反革命の疑い」をかけられ、裁判ののちギロチン処刑されました。ジョゼフィーヌ自身も投獄され、生命の危機にさらされます。彼女は収監中に極度のストレスと栄養不足に苦しんだと伝えられ、若いころの肖像と比べると革命後には明らかにやつれた印象を与えます。

しかし、ロベスピエールの失脚とテルミドールのクーデタにより恐怖政治が終わると、ジョゼフィーヌは釈放されます。死刑寸前のところで助かったとも言われ、ここで彼女の人生は大きく転機を迎えます。未亡人となった彼女は、社交的な性格と洗練された魅力を活かし、パリの上流サロンで再び存在感を示し始めるのです。

ナポレオンとの結婚とフランス皇后としての役割

釈放後のジョゼフィーヌは、テルミドール以後の「総裁政府」期において、パリの社交界で人気の高い未亡人となりました。美貌だけでなく会話の巧みさと柔らかな物腰によって、多くの政治家や軍人たちが彼女の周囲に集まりました。その中の一人が、コルシカ出身の若い砲兵将校、ナポレオン・ボナパルトです。ナポレオンはジョゼフィーヌの息子ウジェーヌを通じて彼女と知り合い、一目惚れしたと言われます。

ジョゼフィーヌはナポレオンより6歳年上で、すでに子どももいる未亡人でしたが、二人は1796年に結婚します。このとき、ナポレオン側の家族、とくに母レティーツィアは結婚に賛成していなかったとされます。コルシカの小貴族出身で保守的な価値観を持つ家族から見ると、パリ社交界になじんだ年上の未亡人は、「息子を惑わす都会の女」に映ったからです。しかしナポレオンは強い意志でこの結婚を押し切り、ジョゼフィーヌは新進気鋭の将軍の妻として新たな役割を歩み始めます。

結婚直後、ナポレオンはイタリア遠征に出発し、華々しい軍事的成功をおさめます。彼は遠征先から頻繁に情熱的な手紙を書き送り、ジョゼフィーヌへの激しい愛情と嫉妬を吐露しました。しかし、パリに残されたジョゼフィーヌは、当初ナポレオンほどには恋愛感情が盛り上がっておらず、社交界で他の男性と親しくすることもありました。このため、ナポレオンが彼女の浮気を疑って激しく怒る場面も多く、二人の関係は感情の起伏が激しいものでした。

やがてナポレオンは軍事的成功を足がかりに政治権力を握り、1799年のブリュメール18日のクーデタを経て第一統領となります。ジョゼフィーヌは「第一統領夫人」として、トゥイルリー宮を中心に新しい共和国貴族社会のファッションとマナーをリードしました。彼女は古代風のハイウエストドレスや軽やかな薄手の衣装を好み、そのスタイルはヨーロッパ中に広がっていきます。

1804年、ナポレオンが皇帝として即位すると、ジョゼフィーヌは「フランス皇后」となりました。戴冠式では、ローマ教皇が見守る中、自分で自らの頭に冠を置いたあと、ナポレオンがジョゼフィーヌの頭にも冠を載せたというエピソードが有名です。この場面は、ナポレオンが自分の権威とともに、妻を正式な皇后として認めた象徴的な瞬間とされています。

皇后としてのジョゼフィーヌは、政治決定には直接かかわらないものの、周囲の人事や恩顧関係に影響力を持ちました。また、ナポレオンの親族や旧来の貴族層、革命で台頭した新興勢力のあいだの調停役を務めることも多く、その柔らかく社交的な性格は、しばしば緊張を和らげる役割を果たしました。一方で、彼女の浪費癖や寵臣への贈与は、財政負担や側近たちの不満の原因となることもありました。

離婚と晩年―マルメゾンの館と園芸・文化サロン

皇后としての華やかな地位にありながら、ジョゼフィーヌには大きな問題がありました。それは、ナポレオンとのあいだに男子の後継者を授からなかったことです。彼女にはボアルネ伯爵とのあいだの子どもがすでにいましたが、ナポレオン王朝を安定させるには、皇帝の血をひく男子継承者が必要だと考えられていました。ナポレオン自身も若いころの過労や病気の影響などから不妊である可能性が取り沙汰されましたが、のちに別の女性とのあいだに子をもうけたことから、次第に「問題はジョゼフィーヌ側にある」と受け止められていきます。

ナポレオンは長いあいだ、ジョゼフィーヌへの愛情と王朝戦略とのあいだで揺れ動きましたが、帝国の将来を考えるなかで、最終的には離婚を決断します。1810年、二人は形式的には互いの合意にもとづく「友好的な離婚」を行い、ジョゼフィーヌは皇后の地位を退きました。このとき、彼女は感情を抑えながらも、ナポレオンの決定を受け入れ、「帝国の利益」のためと理解を示したとされています。

離婚後も、ナポレオンはジョゼフィーヌに一定の敬意と経済的保障を与え続けました。彼女はパリ近郊のマルメゾン城に住み、そこを自らの居館として整備します。マルメゾンでは、庭園に世界中から珍しい植物や動物を集め、温室やバラ園を整備するなど、園芸と自然研究に情熱を注ぎました。マルメゾンの庭は、当時としてはきわめて珍しい植物コレクションの場となり、多くの植物学者・芸術家が出入りする文化的空間となりました。

また、ジョゼフィーヌはマルメゾンで小規模ながらも洗練されたサロンを開き、芸術家や音楽家、知識人たちを招きました。皇后の座を離れてもなお、彼女は「趣味人としての貴婦人」として、人々の記憶に残る存在であり続けたのです。そこでは、ナポレオン宮廷の硬く緊張した空気とは異なる、より自由で落ち着いた交流が行われていたと伝えられています。

1814年、ナポレオンが諸国民戦争の敗北と連合軍のパリ入城により退位を迫られたころ、ジョゼフィーヌはすでに健康を損なっていました。同年、彼女は風邪をこじらせたことをきっかけに病状を悪化させ、マルメゾンで亡くなります。彼女の死後、ナポレオンは流刑地で「真に愛した女性はジョゼフィーヌだけだった」と語ったとも伝えられ、二人の関係は「政治に引き裂かれた愛」としてロマンティックに語られることも多くなりました。

歴史的評価とイメージ―皇后・愛人・ファッションリーダー

ジョゼフィーヌに対する歴史的評価は、時代と観点によってさまざまです。ナポレオン時代の同時代人の中には、彼女を「浪費家で軽薄な女性」と批判する声もありました。豪華な衣装や宝飾品、マルメゾンでの贅沢な生活は、厳しい戦争や徴税に苦しむ民衆から見ると、皇帝夫妻の堕落の象徴とも映りかねませんでした。また、若いころの浮気や、側近への取り入り、縁故での引き立てなどが噂され、宮廷内での嫉妬と批判を招いたことも事実です。

一方で、彼女の社交的な才能や人心掌握術は、ナポレオン帝国の人間関係の潤滑油として一定のプラスの役割を果たしました。コルシカ出身で粗野な印象を持たれがちだったナポレオンに対し、洗練されたパリ社交界出身のジョゼフィーヌは、古い貴族たちとの橋渡し役を務めることができました。彼女のもとに集まる人脈は、ナポレオンにとっても政治的な情報源や、ヨーロッパ上流社会との接点として機能した側面があります。

ファッションとライフスタイルの面でも、ジョゼフィーヌは大きな影響を与えました。彼女が好んだエンパイア・スタイル(胸の下で切り替えたハイウエストのドレス)は「ジョゼフィーヌ風」としてヨーロッパ中に広まり、当時の女性たちの服装を一変させました。薄手で軽い布地を用いるスタイルは、重いコルセットやフープスカートからの解放として受け止められることもあり、「近代的な女性の身体表現」の一歩と見る研究者もいます。

園芸と芸術保護の分野では、マルメゾンの庭園やコレクションが後世に大きな影響を残しました。世界各地のバラを集めることに熱心だったことから、「バラを愛した皇后」として紹介されることも多く、彼女の名を冠したバラの品種も存在します。絵画や装飾芸術の分野でも、ジョゼフィーヌをモデルとした肖像画や、彼女が注文した作品が数多く残されており、当時の宮廷文化を知るうえで重要な史料となっています。

近代以降の歴史書や小説・映画の世界では、ジョゼフィーヌはしばしば「情熱的な恋愛の相手」として描かれます。貧しい軍人時代から皇帝にのぼりつめたナポレオンを支えた女性、しかし政略のために愛を犠牲にして離婚された悲劇の皇后、といったイメージは、多くの物語作品で用いられました。こうしたロマンティックな描写は、歴史的事実を単純化しすぎる面もありますが、同時に当時の人びとの感情や価値観を映し出す鏡として読むこともできます。

ジェンダー史の観点から見ると、ジョゼフィーヌは「男性権力者の影」としてだけでなく、激動の時代を生きた一人の女性として注目されます。植民地社会の出身であること、革命の恐怖政治を生き延びたこと、未亡人として再び自立し、社交界を舞台に人生を切り開いたこと、皇后となったのちも完全な権力者ではなく、愛情・嫉妬・老い・不妊といった個人的な問題に悩み続けたことなど、彼女の生涯には近代ヨーロッパの女性たちが直面した諸問題が凝縮されています。

まとめると、「ジョゼフィーヌ」という人物は、ナポレオンの「付属物」としてではなく、革命と帝政のはざまで揺れ動いたフランス社会を映し出す鏡のような存在だと言えます。彼女の人生をたどることで、軍事や外交の物語中心になりがちなナポレオン時代に、家庭・社交・文化・感情といった側面から光を当てることができるようになります。