「ウマル」は、一般に二人の歴史的人物を指して用いられる名称です。第一に、正統カリフ時代の第2代カリフ、ウマル・イブン=アル=ハッターブ(在位634–644年)で、イスラーム共同体(ウンマ)を預言者ムハンマドの死後に大きく拡張し、征服地の統治枠組みと官僚・財政の骨格を整えた人物です。第二に、ウマイヤ朝第8代カリフで「ウマル2世」と称されるウマル・イブン=アブドゥルアズィーズ(在位717–720年)で、信仰の敬虔と寛容、税制是正などの改革で知られます。前者は帝国の地理と制度を拡張する「建設者」、後者は体制のゆがみに対して倫理と制度の両面から手当てを試みた「改革者」として対照的に記憶されてきました。本稿は、日本語の世界史教科で「ウマル」と出てきたときに迷いやすい二人を同時に視野に入れ、出自と時代背景、統治と制度、拡張・宗教・法、そしてウマル2世の改革と評価という四つの観点から、要点を漏らさず明快に整理します。
人物と時代背景――ウマル1世とウマル2世の位置づけ
ウマル1世(ウマル・イブン=アル=ハッターブ)は、預言者ムハンマドと同時代のムスリムで、メディナ共同体の主要な助言者の一人でした。初代カリフ・アブー=バクルの下で重要な軍事・行政任務を担い、634年に第2代カリフとして選出されます。当時の共同体は、アラビア半島の部族を統合してイスラームの規範のもとに結び直す途上にあり、一方で北方の二大帝国――東ローマ(ビザンツ)とサーサーン朝イラン――が長年の抗争で疲弊していました。この国際環境のもと、ウマル1世の治世に共同体は急速に外へと展開していきます。
ウマル2世(ウマル・イブン=アブドゥルアズィーズ)は、ウマイヤ家の血統に属し、717年にカリフに擁立されました。彼が直面したのは、急拡張と長期統治の副作用です。部族派閥(カイス/イエメン)間の競合、税制における改宗者(マワーリー)と非ムスリム(ディンミー)の扱いの不均衡、地方総督の専横、財政の硬直など、体制疲労が露呈していました。ウマル2世は敬虔さと実務を併せ持ち、短い在位期間ながら普遍主義に立脚した是正を試みます。
両者の関係は「創設と反省」の補完関係と見ると理解が早まります。ウマル1世は、新たに獲得した領域と住民を統治しうる枠組み(軍団・台帳・税制・司法)を作り上げました。半世紀を経て、ウマル2世はその枠組みが特定集団(アラブ部族)に偏って運用され、イスラームの平等原理との齟齬を生んでいる点にメスを入れました。すなわち、同じ「ウマル」の名の下に、制度の骨格と倫理の矯正という二つの局面が層をなしているのです。
統治と制度――ウマル1世の行政改革と都市・財政の設計
ウマル1世の統治の核は、征服地の管理を可能にする制度化でした。まず、兵籍台帳(ディーワーン)を整備し、参戦者とその家族に対する俸給(アター)と配当の規則を明文化しました。これにより、戦利品の分配が恣意に流れることを抑え、アラビア各地の部族戦士を安定的に駐屯(ジュンド)へ組み込むことができました。兵站の観点では、クーファとバスラ(イラク)、フスタート(エジプト)、ダマスクスほかに「駐屯都市(アムサール)」を整え、軍政・税務・裁判・宗教教育の拠点として機能させます。これらの都市は後にイスラーム都市文明の核となり、商業・学芸の成長点にもなりました。
税制面では、在来の制度を活かしつつ再編を図りました。農地に賦課するハラージュ(土地税)と、共同体の保護下にある非ムスリム成人男子に課すジズヤ(人頭税)を設定し、地方の生産力に応じた徴収を行います。ウマル1世の方針は、征服直後の混乱を避け、既存の官僚・徴税人を条件付きで活用しながら、中央の監督を強める「二重構造」の運用でした。徴税は暴力を伴いがちで、彼は総督や徴税官に対し度重なる訓戒状を送り、過重な負担の是正と訴願の受理を命じたことが伝えられています。
司法と行政においては、カーディー(裁判官)の任命が重要でした。都市ごとに適任者を選び、家族法・商取引・刑罰に関わる紛争処理を委ねます。規範の根拠はクルアーンと預言者の慣行(スンナ)でありつつ、具体の運用では法学者の見解(ラʼイ)も尊重されました。カリフの権威は強固でありながら、地方の自律的な紛争解決の余地を残したことが、広域統治のコストを抑える知恵でした。行政では、郵驛制度(バリード)を整備して、文書と人員の迅速な移送・情報収集・監察を可能にし、クーデターの芽や総督の不正を早期に把握する体制を築きました。
都市経営でもウマル1世の足跡は大きいです。エルサレムへの入城では、聖地の宗教施設を保護し、住民の生命・財産・礼拝の保障を約し、都市の共同体間関係を安定化させました(後世に「ウマルの盟約」と称される規定群が伝わりますが、具体の条項や成立時期には学術的議論があります)。エジプトでは、ナイルデルタの灌漑・徴税の運用とともに、港湾と市場の整備を進め、地中海交易の再編に寄与しました。これらの施策は、宗教共同体の理念(保護民の権利・義務)と、実務(税と治安)の接合という、イスラーム国家の「二重構造」を具体化するものでした。
拡張・宗教・法――征服の進展、被征服社会の統合、正義の観念
ウマル1世の治世は、地図の塗り替えの時代です。東方ではカーディシーヤ、ニハーヴァンドなどの戦いを経てサーサーン朝は崩壊し、イラクからイラン高原へイスラームの支配が広がりました。西方ではシャーム(シリア・パレスチナ)とエジプトが東ローマから離れ、地中海東岸の主要都市が相次いでイスラーム側に接続されます。征服は軍事的勝利だけでは維持できず、ウマル1世は住民の宗教・法・経済の枠組みを可能な限り温存しつつ、共同体の法秩序(シャリーア)を重ねる手法を採りました。ユダヤ教徒・キリスト教徒は「啓典の民」として契約(ジンミー)に入り、ジズヤの負担と引き換えに礼拝・自治・財産の保護を受けました。
宗教と法の面で重要なのは、「正義(アドル)」の観念が統治の倫理的支柱となったことです。史料には、総督の豪奢を戒め、弱者の訴えを直接聞く姿勢、裁判官の廉潔を重んじた話柄が多く見えます。彼自身は質素な生活を好み、公的資産の私的流用に厳しく、カリフ家族への特権付与を避けるよう努めたと伝えられます。これらの逸話には理想化の色も差しますが、支配者の徳と制度の両方で「正義」を形にする努力が、広域帝国の統合に不可欠であったことは確かです。
他方で、戦争と課税は社会的緊張を生みます。征服軍の駐屯は市場と土地利用を変え、部族間・都市民との摩擦を増やしました。改宗の扱いでは、税収の維持と平等原理がしばしば衝突し、地域差の大きい運用が行われました。ウマル1世の死(644年、刺殺)後、共同体は次代以降に内乱と王朝化の波にさらされますが、彼が整えた都市・軍政・財政・司法の骨格は、正統カリフ時代を超えて長く生き続けます。
文化面でも、ウマル1世の時代は「イスラーム都市」の原型をつくりました。モスクは礼拝のみならず、説教(フトバ)による政治的コミュニケーション、教育(クルアーン読誦・法学)、慈善(ワクフ)の拠点となり、市場(スーク)は宗教監督官(ムフタシブ)によって秩序が保たれました。家族法・商取引・遺産分配に関わる規範は、後代の法学派(マズハブ)に継承され、都市生活の細部を律していきます。
ウマル2世の改革と評価――敬虔と普遍主義の試み、史料の論点
ウマル2世の治世は短いながら、ウマイヤ体制の「倫理的再調整」を標榜した点で特筆されます。彼は州総督の贈収賄と豪奢を厳しく取り締まり、王族の特権的収入を削減し、公的資産の返還を命じたと伝えられます。税制においては、イスラームへの改宗者(マワーリー)からのジズヤ徴収を大幅に緩和または停止し、改宗の真意を疑うような過度の審査を禁じる通達を出したとされます。これにより、財政の短期的収入は減るものの、イスラーム共同体の普遍主義を制度面で担保する方向に舵を切りました。
宗教政策では、学者層(ウラマー)の意見を尊重し、預言者の言行録(ハディース)の収集・筆録を奨励したことが後代の伝承に見えます。説教と教化を重んじ、征服よりも統治の正統性と民心の涵養に力点を置きました。また、被保護民(ディンミー)への過度の差別的慣行を抑制し、契約の公正な履行を求める姿勢を示しました。彼の死(720年)は病とされ、短命ゆえに改革は道半ばでしたが、後世、敬虔公(ザーヒド)として理想化される素地となります。
評価には注意点もあります。ウマル2世に帰せられる改革詔勅のすべてが同時代・同人のものか、史料学的検討が続いています。また、彼の改革は体制を持続させるための現実対応でもあり、宗派対立・部族抗争・国境戦の構造的要因を一挙に解決したわけではありません。それでも、改宗と税の関係に道徳的基準を導入し、行政の廉潔を重視したことは、アッバース革命後の国家理念――平等と正義――の言説にも接続していきます。
総じて「ウマル」という名は、イスラーム史において二つの相を象徴します。ウマル1世は、軍団・都市・税・裁判というハードな制度の骨格を確立し、帝国を実務で動かす仕組みを作りました。ウマル2世は、その仕組みが抱えた偏りを、信仰の倫理と法の修正で是正しようとしました。いずれも、宗教共同体の理想と領域国家の現実をつなぐ作業の担い手であり、成功と限界を併せ持つ「統治の実験」の要所を形づくっています。両者を合わせて学ぶことで、イスラーム初期国家のダイナミズム――拡張・制度化・反省――が立体的に見えてくるのです。

