アレクサンドロス大王(序章) マケドニア・ギリシア・ペルシアの因縁

アレクサンドロス マニアック
アレクサンドロス Charles Laplante, Public domain, via Wikimedia Commons

アレクサンドロス大王の話しに入る前に、マケドニアとギリシアおよびペルシアの関係を過去にさかのぼって見ていく。

ギリシア
王は存在せず、複数のポリスを形成しそれぞれが独自の自治を行っていた。ポリス間の争いが絶い。
マケドニア
ギリシア人が建てた王国。ポリスを形成せず王を頂点とした支配体制を築いていた。ギリシア語を使用し、自分たちはギリシア人であると認識していた。
ペルシア
イラン高原でペルシア人により建国された王国。後にオリエントを統一し大帝国となる。

紀元前360年頃のマケドニア・ギリシア・ペルシア

紀元前360年頃のマケドニア・ギリシア・ペルシア

メディア王国に従属していたペルシアは反乱を起こし紀元前550年にアケメネス朝を開くと、25年という短期間にオリエントを統一し大帝国を築き上げた。紀元前522年、王位に就いたダレイオス1世は各地で発生した反乱を鎮めつつ、サトラップの配置、貨幣の発行や「王の道」と呼ばれる交通網を整え内政の強化をしていく。その中でギリシア征服の機会を探っていた。

紀元前499年、イオニアで反乱が発生した。イオニアはギリシアの植民都市でペルシアの支配下に入っていた。ギリシアでは、ペルシアに服従すべきだという意見と、対抗すべきだたいう意見が対立し、それに権力闘争が加わって混乱していた。ギリシアのアテナイはイオニアに援軍を送ったがペルシアに敗北し、反乱は鎮圧された。ダレイオス1世はイオニアの反乱を機にギリシアへの遠征に踏み切り、約半世紀に渡るペルシア戦争が始まった。

ペルシア戦争

ペルシア戦争 User:Bibi Saint-Pol, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

対するギリシアはアテナイを中心に、紀元前490年、重装歩兵密集陣でマラトンの戦いに勝利しペルシアを退けた。

ダレイオス1世が死去すると、その子クセルクセス1世も父の意志を継ぎギリシア遠征を再開する。クセルクセス1世はギリシア各地に投降するよう通達すると、マケドニアやテーバイはペルシア側についた。ペルシア側につくポリスがあった中、ギリシアはアテナイを中心に抗戦し、紀元前480年、ペルシア軍をサラミスに誘いこみ地の利を生かすことで勝利を収めた(サラミスの海戦)。

ペルシア軍はマケドニアで軍を整え再びギリシアに攻撃を仕掛けるも、アテナイを中心としたギリシア軍にプラタイアの戦いで大敗北を喫し、マケドニアを経由して撤退した。その後も小競り合いが続くがカリアスの和約で、紀元前449年ペルシア戦争は終結し、ギリシアが勝利した。

ペルシア戦争で活躍したアテナイはギリシアで覇権を握ることになったが、これを良く思わないスパルタとの間で大きな対立が発生する。そして、アテナイを盟主としたデロス同盟とスパルタを盟主としたペロポネソス同盟に分かれ、諸ポリスを巻き込んだ戦争へと発展していく(ペロポネソス戦争)。なお、マケドニアはスパルタ側について戦争に参加している。紀元前431年に始まったペロポネソス戦争は、当初はアテナイ側が優勢で進行したが、次第にスパルタが劣勢を跳ね返し、紀元前404年にペロポネソス同盟が勝利を収め戦争が終結した。スパルタはギリシアの覇権をアテナイから奪ったのである。

ペロポネソス戦争

ペロポネソス戦争(青がスパルタ陣営、赤がアテナイ陣営)Translator was Kenmayer, CC0, via Wikimedia Commons

スパルタの勢いは増し、ペルシア領の小アジアへ進出して戦果を上げていく。その中、ペルシアはスパルタを直接叩くことはしなかった。取った方法は、反スパルタをかかげるアテナイを含む諸ポリスにスパルタとの戦争を持ちかけ、ギリシア本土でポリス間の戦争を引き起こすことだった。ポリスはその持ちかけに同調し、紀元前395年、ギリシアで再び戦争が始まった(コリントス戦争)。

スパルタの小アジアへの征服活動は一旦停止せざるを得なくなった。ペルシアの思惑通りの展開となったのである。この戦争も、アテナイvsスパルタの色合いが強いものとなり、ペルシアはアテナを支援した。ところが、ペルシアに誤算が生まれる。ペルシアの支援は必要以上にアテナイを勢いづかせてしまい、スパルタの弱体化は達成出来るが逆にアテナイを台頭させてしまう。ペルシアは、アテナイに対しスパルタとの講和を促した。もし講和しなければ、ペルシアはスパルタ側につくぞ、と脅したのだった。

紀元前387年、アテナイとスパルタはアンタルキダスの和約を締結し、コリントス戦争は終結した。この戦争は、ギリシアおけるポリス間の争いであるため、和約の内容は各ポリスがお互い合意してなされるのが通常である。ところが、その内容はペルシアの王アルタクセルクセス2世が作成したものであった(そのためこの和約は大王の和約とも呼ぶ)。ようするに、ペルシアにとって都合の良い和約をギリシアに押し付けたのだ。和約の内容は、「ギリシア植民都市を含む小アジアはペルシアのものだ。もし手を出したら再びペルシア戦争だ!それが嫌ならおとなしくしていろ」だった。

コリントス戦争の屈辱的な結末で、ペルシアの打倒がギリシア人の悲願となっていく。ギリシアの雄弁家イソクラテスは、街の中で打倒ペルシアを訴え続けた。だが、ポリス間で争いが絶えないギリシアでだれが主導するのか?答えを見いだせない。

一方、マケドニアは征服活動により獲得したパンガイオン金山から莫大な富を獲得し、富国強兵を押し進めてギリシアへの進出を画策していた。紀元前338年、マケドニアの王フィリッポス2世はギリシアへの進軍を開始した。

パンガイオン金山

パンガイオン金山(マケドニアに莫大な富をもたらした)

アテナイでは、イソクラテスが主張するマケドニアに服従してペルシアを打倒すべきという意見と、雄弁家デモステネスの主張するマケドニアに抵抗してギリシアの独立を維持すべきという意見、2つに揺れ動いていた。アテナイの下した選択は後者だった。アテナイに同調したテーバイも加わり、アテナイ・テーバイの連合軍はカイロネイアでマケドニア軍を迎え撃った。(カイロネイアの戦い)

結果は、マケドニアの圧倒的な軍事力の前にアテナイ・テーバイ連合軍はなすすべなく敗北した。カイロネイアの戦いに参加しなかったポリスはマケドニアの強さを知り、そこにペルシア打倒の希望を見たのだった。そして、マケドニアはスパルタを除く全ポリスとの間でコリントス同盟を結成した。マケドニアに忠誠を誓う代わりに各ポリスの自由な自治が約束された。ペルシア打倒が議決されたのは自然な流れであった。

長きにわたり対立し続けてきたポリスが、マケドニアを盟主として一つにまとまったのだ。ギリシアの逆襲がここから始まるのである。

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