農奴制とフューダリズム(封建制)の確立

フランスの荘園 世界史
フランスの荘園

今回のテーマはフューダリズム(封建制)です。
フューダリズムは農奴あっての制度です。まずは農奴の背景や経緯を古代ローマにさかのぼって見ていきます。必要のない方は、読み飛ばしてください。

ローマ市民の没落

紀元2世紀初期のインスラ

紀元2世紀初期のインスラ(Wikipediaより引用。クリックで引用元へ)

共和政ローマ前半あたりのローマ市民は土地を所有していて、小規模ながらも農業で生計を建てていました。そして、青年男性には軍人として戦う義務があったため、農業の収益で防具を買って戦争に出かけていました。

農業を営む家族で大きな働き手である男手が不在になることが頻繁に発生し、農業経営が次第に困難になっていきます。当然ですが、戦争で殉職するものも多かったため、さらに拍車をかけていたのです。このような家族は農業で生計を建てることが出来ず生活は困窮し、やがて土地を売ることで一時的にしのぐしかありませんでした。

彼らは、インスラと呼ばれる賃貸マンションの一室を借りて住んでいましたが、賃料が払えなくなると追い出されホームレスとなり、物乞いをして生きていくことになります。(没落農民没落市民または無産市民と呼ぶ)

ラティンフンディア(ラティフンディウム)

彼らから土地を買い上げていたのが貴族や大富豪で、農業が小規模経営から大規模経営にシフトしていくきっかけとなりました。当時のローマ帝国では、領土拡大の過程で獲得した奴隷を安く売りさばいていて、大規模経営者は大量に奴隷を購入し、働かせていました。(この農業形態をラティンフンディアまたはラティフンディウムと呼ぶ)

コロナートゥスへのシフト

農園

農園

奴隷に賃金を支払うことはありません。必要最低限の食料を与えるのみです。働けなくなったらポイ捨てして新しい奴隷を購入し労働力を補充していました。奴隷を安く大量に購入できる間はこれでうまくいっていました。ところが領土拡大の停滞期に入ると奴隷が手に入りずらくなり、うまくいかないようになってきます。ラティンフンディアの行き詰まりです。そこで大規模経営者が考え出したのが、没落農民を労働力として利用することでした。

大規模経営者は地主(領主)として没落農民に土地を貸し出し、農作業をしてもらい、その見返りとして地代を受け取りました。(この農業形態をコロナートゥス、土地を借りる人をコロヌスと呼ぶ)
ラティンフンディアの奴隷は全て地主に搾取されたのに対し、コロヌスは地代を収めて残ったものを自分のものとすることができローマ市民権も持っていました。

奴隷を用いた経営よりも、労働意欲のあるコロヌスを採用する方が効率面で良かったため、コロナートゥスへのシフトが加速していきました。コロヌスと地主との間で契約を結び、契約期間が満了した場合、再契約するも良し、土地を移動して別の地主と契約するも良し、または農業から離れて商人になるも良し。比較的自由でした。

コンスタンティヌス1世が332年に出した法令「コロヌスの土地緊縛令」でコロヌスの自由は奪われることになりました。コロヌスは土地の移動を禁じられ、その身分は固定化されました。同じ身分同士でしか結婚が認められず、身分は子に世襲されるためローマ帝国にとって永続的な税収源となりました。コンスタンティヌス1世以降の時代でもコロヌスに対する法的な整備が少しずつ行われ、次第に農奴へと移行していきました。

農奴とフューダリズム(封建制)

荘園(ラベンダー畑)

荘園(ラベンダー畑)

フューダリズム(封建制)を構成する要素である、荘園農奴臣下を順を追って見ていきます。

9世紀のヨーロッパでは、マジャール人ヴァイキングの略奪に苦しめられていました。国王はそれらにうまく対応できずにいた中、各地の貴族達が撃退していました。これに伴い、貴族の力は増し、有力な貴族は様々な特権を国王から与えられていきます。特権の中で最たるものがインムニテート(不輸不入権)です。インムニテートにより、貴族の保有領土に対し国への納税義務が免除され、王国役人の立ち入りを拒否できるようになりました。このように、国からの支配を受けない領土を荘園と呼びます。荘園内では貴族による私的支配が行われていました。

荘園を運営する上で欠かすことが出来ない存在が農奴です。(逆に言うと、農奴の数が少なくなると荘園の運営は厳しくなっていきます。)

一つの荘園には、領主が直接運営する農地(直営地)と、農奴へ貸し出すための農地の2種類が混在している場合が多い。
農奴の義務は以下のふたつ。

貢納
 借りた土地の地代を領主に払うこと。地代を除いた分は農奴のものになります。
賦役
 領主の直営地で農作業をしてあげること。直営地で発生する利益は全て領主のものになり、農奴はただ働きをしなければならない。

農奴は、領主が定めた独自の法律を守らなければならず、違反した場合は裁判が開かれ処遇が決定されます。(これは領主に与えられた特権で領主裁判権といいます。)

そして、荘園を運営する上でもう一つ大事な要素があります。それは軍事力です。領主は外敵の侵入から自分の領土を守るために臣下を雇っていました。臣下とは兵士を指し、領主は独自の軍隊を持っていました。軍隊を維持するためにはお金や食料が必要で、それらは農奴から徴収したものでまかなわれていました。

特権で保護された荘園を保有し、農奴の労働から得た貢納物で臣下を雇って領土を防衛してもらう。中世ヨーロッパで貴族による領土の私的支配が広く行われるようになり、このような社会構造をフューダリズム(封建制)と言います。フューダリズムを基盤とした中世ヨーロッパの王国は、貴族に権力が分散していたため王権は弱いものでした。

フューダリズムの衰退

フィレンツェで発行されたフローリン金貨

フィレンツェで発行されたフローリン金貨

フューダリズムは、中世後半に入ると次第に破綻し始めます。その最大の要因とさるのが貨幣経済の発展です。

中世初期のころ、質の悪い貨幣が出回るようになり貨幣の信用が低下していたため、世の中は物々交換が主流となっていました。そのため農奴が収める地代は農作物でした。

ところが、中世後半になると貨幣の質が上がり、世の中は貨幣による取引きが主流となっていました。その中で次第に農奴が収める地代も貨幣に切り替わっていきます。農奴は、育てた農作物を街で売って貨幣を獲得し、地代を払い手元に残った貨幣を貯蓄していきました。物々交換が主流であったころは、手元に残った農作物は痛んでしまうため貯蓄できなかったのです。

そして、貯蓄した貨幣で土地を買い農作物を自作する農奴が増え始め、次第に農奴が減少していくことになりました。

基本的に農奴の身分は固定化されて農奴から脱することはできないのですが、貨幣を出してきて土地を購入したいという農奴に対し、領主もやはり貨幣が欲しい訳です。このように農奴が自作農民へ転身するにつれ荘園の運営が厳しくなり、フューダリズムの破綻に繋がったという訳です。

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