【フランス王国の歴史】十字軍とアンジュー帝国の崩壊

フォントヴロー修道院(フランス) 世界史
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十字軍によりフランスとローマ教皇の関係は親密となり、フランス国王の力は増していきます。
前回に引き続き十字軍、そしてフランス、イングランド、アンジュー家の盛衰を絡めながら追っていきます。

フランス王国カペー朝の歴代王
ユーグ・カペー(987年ー996年)
ロベール2世(996年ー1031年)敬虔王
アンリ1世(1031年ー1060年)
フィリップ1世(1060年–1108年)
ルイ6世(1108年ー1137年)肥満王
ルイ7世(1137年ー1180年)若王
フィリップ2世(1180年ー1223年)尊厳王
ルイ8世(1223年ー1226年)獅子王
ルイ9世(1226年ー1270年)聖王
フィリップ3世(Hardi 1270年ー1285年)豪胆王
フィリップ4世(1285年–1314年)端麗王
ルイ10世(1314年–1316年)喧嘩王
ジャン1世(1316年)遺腹王
フィリップ5世(1316年–1322年)長躯王
シャルル4世(1322年–1328年)端麗王

イングランド王国プランタジネット朝の歴代王
ヘンリー2世(1154年-1189年)
若ヘンリー(1170年-1183年) ヘンリー2世と共同国王
リチャード1世(1189年-1199年)獅子心王
ジョン(1199年-1216年)欠地王
ヘンリー3世(1216年-1272年)
エドワード1世(1272年-1307年)
エドワード2世(1307年-1327年)
エドワード3世(1327年-1377年)
リチャード2世(1377年-1399年)

太字になっている王が本記事で登場する王です。

第2回十字軍(1147年ー1148年)

主な登場人物
ルイ7世(若王)・・・当時のフランス国王
コンラート3世・・・当時の神聖ローマ皇帝
アリエノール・ダキテーヌ・・・ルイ7世の妻 アキテーヌ領の相続権を保有
レーモン・ド・ポワティエ・・・アンティオキアの統治者 アリエノールの叔父でありアキテーヌ公ギヨーム10世の弟 
ヘンリー2世・・・ノルマンディー公でありイングランドのプランタジネット朝の創始者。

1146年、オリエントでフランス人が虐殺されているという報告が、フランス王ルイ7世(若王)のもとに届いた。第1回十字軍ではフランス王は参加しなかったが、今回はルイ7世が十字軍を呼びかけ軍隊を編成しオリエントへ向かった。ルイ7世の妻アリエノールもそれに同行した。神聖ローマ皇帝コンラート3世も同様に軍隊を編成しオリエントへ向かった。

フランス軍は、できるかぎり粗暴な行為を防止する努力に務めたが、ドイツ軍は粗暴な行為を働いてしまう。十字軍がコンスタンティノープルに到着すると、ビザンツ皇帝はアンティオキアまでの道を教え、出来る限り素早く通過させた。だが、その道は険しい山々が立ちはだかる道であった。十字軍は、道中でトルコ騎兵に襲われ大きな損害をだしてしまう。ビザンツ皇帝は、この野蛮な十字軍が全滅に追い込まれることを期待して危険な道を教えたのである。十字軍への裏切りだったのだ。

十字軍は何とかアンティオキアに到着する。アンティオキアはアリエノールの叔父であるレーモンが統治していたが、以前からアリエノールのレーモンへの異常な愛情に気付いていた夫ルイ7世は、不安にかられすぐにアンティオキアを出発した。

ダマスカスの攻略に取り掛かるが、ビザンツ皇帝から危険な道を教えられ大きな損害を出したのはドイツ人の粗暴な行為のせいだと言って殺し合いが始まるなど連携が全く取れず、失敗に終わる。戦意を喪失した十字軍はそこで解散となり、祖国へ戻るのであった。

このようにして第2回十字軍は失敗に終わった。アリエノールは帰国すると、ルイ7世に離婚を突きつけ、教会はそれを認め離婚は成立したのだ。その結果、ルイ7世はアリエノールが保有する広大なアキテーヌ領を失うのであった。

そして、アリエノールは、2か月も立たたず、ノルマンディー公でまもなくイングランド王となるヘンリー2世と結婚してしまうのだ。ヘンリー2世は、アリエノールと結婚することによりアキテーヌ領を手に入れ、さらにフランス国内の領主と同盟関係を次々に結んでいく。フランス国王の立場は苦しくなっていくのであった。

プランタジネット朝とアンジュー帝国

プランタジネット家

プランタジネット家

ノルマンディー公家とアンジュー家が婚姻関係を結ぶことでプランタジネット家が始まる。その間に出来た子がプランタジネット朝の創始者ヘンリー2世である。

ヘンリー2世の父親はアンジュー家の貴族であり、男系の血統を優先することからプランタジネット朝は後のジョン欠地王までをアンジュー朝と呼ぶことがある(ジョン欠地王はアンジュー領など大半の領土を失うため、アンジュー朝と呼ぶ場合はジョン欠地王までである)。

アンジュー家は、ヘンリー2世の妻アリエノールが保有するアキテーヌ領も加わり、広大な領土を保有するアンジュー帝国を築くのであった。

アンジュー帝国の拡大

アンジュー帝国の拡大
引用元の画像を日本語化France_1154-fr.svg: Sémhur (talk)derivative work: Rowanwindwhistler, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

第3回十字軍(1189年ー1192年)

主な登場人物
リチャード1世(獅子心王)・・・当時のイングランド国王
フィリップ2世(尊厳王)・・・当時のフランス国王
フリードリヒ・バルバロッサ・・・当時の神聖ローマ皇帝
サラーフ・アッ=ディーン(サラディン)・・・イスラーム王朝アイユーブ朝の創始者

1187年、エルサレムがイスラム王朝のアイユーブ朝により陥落した。これを受け、第3回十字軍が開始された。今回の主役はイングランドであった。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサは一足先に大軍を率いて出発した。一足遅れて、イングランド王リチャード1世とフランス王フィリップ2世も出発した。今回の十字軍は役に立たない民衆を同行させず、騎士や兵士のみで進軍するのであった。

フリードリヒはコンスタンティノープルを経由して小アジアに入ったが、サレフ河で溺死してしまい、神聖ローマ軍はここで解散、一部の希望す兵士だけでエルサレムに向かうことになった。

一方、イングランドとフランスはイタリアを経由して航路でパレスティナに上陸し、イスラエル北部のアッコンでサラディン率いるアイユーブ朝と激突した。そこでリチャード1世は体調を崩し、フィリップ2世に毒を盛られたと文句を言って、兵士たちを残してほとんど一人で帰国してしまったのだ。残されたフィリップ2世も結局エルサレムを奪還することが出来なかった。

十字軍は、回数を重ねるたびにその情熱は冷めていったのである。エルサレムよりも、イングランドにとってはフランスをどう打ち負かすかの方が重要で、フランスにとっても同様であったのだ。そして、アイユーブ朝も対キリスト教徒よりも内部の敵をどう抑えるのかの方が重要であった。サラディンとリチャード1世は妥協しあい、停戦協定を結び、エルサレムはアイユーブ朝の統治下となるが、キリスト教徒の巡礼は認めらることとなったのだ。

一応の功績を残したと見られるリチャード1世だったが、特別たたえられることもなく、ただ出費がかさんだだけの結果となった。

第4回十字軍(1202年ー1204年)

主な登場人物
インノケンティウス3世・・・当時のローマ教皇
イサキオス2世・・・ビザンツ皇帝だったが、弟に幽閉され皇帝の座を奪われる
アレクシオス3世・・・イサキオス2世の弟で兄から皇帝の座を奪い取る
アレクシオス4世・・・イサキオス2世の息子 十字軍に助けを求める
ボードワン・・・フランスの貴族フランドル伯 ラテン帝国の皇帝

ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけたのをきっかけに始まったのが、第4回目の十字軍であった。主にフランス人貴族がその呼びかけに応じたのだ。ただ、フランス王フィリップ2世は国内の問題が山積みであったため、今回は参加していない。

イングランド王も同様に不参加だった。十字軍は、過去にビザンツ帝国に裏切られた過去があったことから、イタリアを経由して海路でエルサレムを目指した。ヴェネチア人に船を出してもらおうとしたが、料金の先払いを求められ、手持ちでは足りなかった。当時、ヴェネチアの支配下にあったザラの町が反旗を翻しハンガリー王国のもとに下っていた。ザラを取り返しくれれば、手持ちの金で船を出してあげると約束したため、背に腹を代えられない十字軍は、それに応じてザラの町を取り戻してあげたのだ。

ここで思いもしないことが起きる。当時、ビザンツ帝国では兄弟間で皇帝の座をめぐる争いが起きていた。皇帝は弟に皇帝の座を奪われ、兄は幽閉され、兄の息子は追放されていた。その息子が十字軍に、皇帝を倒してほしいと助けを求めてきたのだ。もし助けてくれれば、ギリシア正教会はカトリック教会の配下に入ると約束したのだ。十字軍に参加している貴族にとって、エルサレム奪還よりギリシア正教会を手に入れローマ教皇に献上する方がはるかにメリットは大きかった。そして、同行していた商人気質の高いヴェネチア人も、アジアとヨーロッパを結ぶ交易路であるコンスタンティノープルがどうしても欲しかった。十字軍の目的は、エルサレム奪還からコンスタンティノープルの制圧に変更された。

彼らはコンスタンティノープルに向かい、見事に制圧に成功したのだ。幽閉されていた前皇帝は復帰し、その息子を共同皇帝としたが、十字軍へ支払う資金を捻出するため貴族や民衆に重税を課したため、すぐに暗殺されてしまう。その暗殺を主導した人物が皇帝の座に就くと、十字軍はこれに乗じてこの皇帝を追い出しコンスタンティノープルを奪うのであった。

十字軍に参加した貴族達でコンスタンティノープルや周辺領土を分割し、ヴェネチア人は主に港と周辺の島を手に入れるのであった。ビザンツ帝国はコンスタンティノープルを奪われ、周辺に亡命政権を建て領土は4分の1まで縮小した。コンスタンティノープルを首都にしたラテン帝国が成立し、フランスのフランドル伯ボードワンが皇帝に就いた。

この十字軍で圧倒的に得をしたのがヴェネチア人であった。一方のフランスは文化的影響力を拡大した。過去の十字軍を通して、フランス文化やフランス語はオリエント世界に広がり、第4回十字軍でさらに広がりを見せるのであった。

ローマ教皇インノケンティウス3世のもと、東西教会の統合が進められた。カトリック世界において大きな出来事が起きた中、神聖ローマ帝国やイングランドは蚊帳(かや)の外であった。

ジョン(欠地王)とアンジュー帝国の崩壊

第4回十字軍が行われている中、イングランドで事件が起きる。

当時のイングランド王ジョンはノルマン人やサクソン人の貴族を信用しておらず、軍は傭兵でまかなっていた。軍を維持するため重い課税を課し、王に対する反感は高まっていた。その反感からの暴動を警戒し守りを固めるため、さらに傭兵を雇う必要に迫られた。そして、その費用をまかなうため、さらに重税を課すことで王への反感はますます高まるという恐るべき悪循環に陥っていた。イングランドのプランタジネット朝は、厳しい財政難となっていたのだ。

その中で、ジョンの甥であるブリュターニュ公の息子アーサーとの対立をきっかけにして、さらに苦しくなっていく。アーサーは突然行方不明となり(現在でも詳細は謎のままである)、ジョンが主導して暗殺したという噂が広がった。フランス王フィリップ2世(尊厳王)はイングランドを弱体化するためにこの事件を最大限利用した。ジョンを裁判にかけることを決定したのだ。フィリップ2世はジョンに出頭するよう言ったが、ジョンは拒否してイングランドで兵を招集しようとしたが集まらなかった。

そして、出頭しないジョンに対して有罪を言い渡し、1204年ノルマンディー公国は制圧され、フランス国王の手中に収まった。さらにジョンが保有していたフランス国内にあるその他の領土も次々と没収されていくのだ。ジョンは欠地王と呼ばれるようになり、アンジュー帝国は崩壊するのであった。

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