【フランス王国の歴史】第2回十字軍とアンジュー帝国の拡大

フォントヴロー修道院(フランス)フランス
フォントヴロー修道院(フランス)

12世紀、十字軍という壮大な試みは、キリスト教世界における信仰の情熱と政治的野心を象徴するものでした。その中でも第2回十字軍(1147-1149年)は、宗教的義務感の下に始まったものの、失敗に終わり、ヨーロッパと中東に大きな波紋を広げました。

しかし、この失敗は単なる敗北ではなく、ヨーロッパ内での勢力図に新たな変化をもたらしました。特にアンジュー家がこの混乱の中で勢力を拡大し、後にイングランド王朝を築くきっかけとなりました。

本記事では、この十字軍の背景と失敗、そしてその後のアンジュー家の拡大に繋がるまでの動きを見ていきます。

第2回十字軍(1147年ー1148年)

1146年、オリエントでフランス人が虐殺されているとの報告がフランス国王ルイ7世(若王)のもとに届きました。第1回十字軍ではフランス国王が直接参加することはありませんでしたが、今回はルイ7世自らが十字軍を呼びかけ、軍隊を編成してオリエントへ向かいました。さらに、彼の妻であるアリエノール・ダキテーヌも同行します。同じ頃、神聖ローマ皇帝コンラート3世も軍を率いてオリエントを目指しました。

フランス軍はできる限り粗暴な行為を抑えようと努めましたが、一方でドイツ軍はそうした規律を欠いていました。十字軍がコンスタンティノープルに到着すると、ビザンツ皇帝はアンティオキアまでの道を教えました。しかし、その道は険しい山々に囲まれた危険なものでした。十字軍はその道中、トルコ騎兵の襲撃を受け、大きな損害を被ります。実はビザンツ皇帝は、この野蛮な十字軍が全滅することを期待し、あえてこの道を案内したのでした。これは十字軍への裏切り行為だったのです。

それでも何とかアンティオキアに到着した十字軍ですが、ここで新たな問題が発生します。アンティオキアの統治者であるレーモン・ド・ポワティエはアリエノールの叔父であり、彼女に対する異常な愛情が噂されていました。これを察知したルイ7世は、不安を抱えながらアンティオキアを早々に立ち去ります。

その後、十字軍はダマスカス攻略を試みましたが、ここでも統率の乱れが顕著でした。特に、ビザンツ皇帝から案内された危険な道での損害や、ドイツ軍の粗暴な行為が原因で内部の対立が激化し、殺し合いにまで発展しました。結果として連携が取れず、ダマスカス攻略は失敗に終わりました。この時点で戦意を喪失した十字軍は解散し、それぞれの祖国へ帰還することとなりました。

第2回十字軍が失敗に終わったことで、帰国したアリエノールはルイ7世に離婚を求めました。教会もこれを認め、離婚が成立します。この結果、ルイ7世はアリエノールが保有していた広大なアキテーヌ領を失うことになりました。

さらに、アリエノールは離婚からわずか2か月後に、ノルマンディー公であり、間もなくイングランド王となるヘンリー2世と再婚します。ヘンリー2世はアリエノールとの結婚によってアキテーヌ領を手に入れるだけでなく、フランス国内の有力領主たちと次々に同盟を結びます。この結果、フランス国王の立場はますます苦しいものとなり、フランスとイングランドの対立が一層深まる要因となっていったのです。

こうして第2回十字軍の失敗は、フランス国王の権力基盤に大きな打撃を与え、イングランド王との新たな対立の火種を生む結果となりました。

アンジュー帝国の拡大

アンジュー帝国の拡大
引用元の画像を日本語化France_1154-fr.svg: Sémhur (talk)derivative work: Rowanwindwhistler, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

プランタジネット朝とアンジュー帝国

プランタジネット家

プランタジネット家

プランタジネット朝は、ノルマンディー公家とアンジュー家が婚姻関係を結んだことをきっかけに誕生しました。この婚姻によって生まれたのが、プランタジネット朝の創始者となるヘンリー2世です。

ヘンリー2世の父親はアンジュー家の出身であり、この時代には男系の血統が重視されていました。そのため、プランタジネット朝の初期は「アンジュー朝」とも呼ばれることがあります。この呼び名は、ヘンリー2世から始まり、ジョン王(欠地王)までを指します。ジョン王は治世中にアンジュー領を含む広大な領土の大半を失ったため、「アンジュー朝」という名称がジョン王までに限定されるのです。

アンジュー家の力をさらに強大なものにしたのは、ヘンリー2世の妻アリエノール・ダキテーヌの存在でした。アリエノールは広大なアキテーヌ領の相続権を保有しており、彼女との結婚によりヘンリー2世はこの地域を自らの領土に加えることに成功します。これにより、アンジュー家はイングランド、ノルマンディー、アキテーヌ、さらにはフランス国内の他の領地を統合し、ヨーロッパ屈指の大規模な領土を持つ「アンジュー帝国」を築き上げました。

アンジュー帝国は、広大な領域にまたがる強大な統治体制でしたが、その広さゆえに内部対立や外部の圧力に晒されることも多く、後に分裂や領土喪失を経験することになります。それでも、ヘンリー2世が築き上げたこの帝国は、その後のフランスとイングランドの歴史に多大な影響を与え、両国の長い対立の基盤を形成したのです。

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