今回のテーマはキリスト教の国教化とローマ帝国の東西分裂です。
ディオクレティアヌスが始めた分割統治は、コンスタンティヌス1世によって再び単独皇帝による統治に戻りましたが、コンスタンティヌス1世以降、また分割統治になったり、単独統治になったりを繰り返します。
また、キリスト教に関してもミラノ勅令で公認されましたが、後に登場するユリアヌスにより一時的に冷遇され、時を経て、テオドシウスにより国教化されることになります。
今回のテーマをローマ皇帝別に重要ポイントをまとめてみました。
ユリアヌス
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- キリスト教の優遇措置を撤廃。背教者と呼ばれる。
テオドシウス
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- キリスト教の国教化
- ローマ帝国の東西分裂
キリスト教の優遇措置を撤廃
ミラノ勅令でキリスト教が公認されましたが、公認されてのはキリスト教だけではありません。
全ての宗教の自由が許されました。
その中で、キリスト教だけ優遇されていたのです。
361年にローマ皇帝に就いたユリアヌスは、キリスト教に与えられた優遇措置を撤廃し、キリスト教以外の宗教を優遇しました。
そのため、ユリアヌスはキリスト教関係者から背教者と呼ばれるようになりました。
キリスト教の国教化
ニケーア公会議でアタナシウス派が正統とされたキリスト教ですが、
アリウス派を支持する皇帝、アタナシウス派を支持する皇帝、キリスト教以外の宗教を支持する皇帝、いろんな皇帝が以降に登場してきます。
ローマ皇帝ごとに支持が異なり、統一されませんでした。
そんな中、392年、デオドシウスはアタナシウス派のキリスト教を帝国唯一の宗教と位置づけ、国教化しました。他の宗教は禁止です。
ローマ帝国内のギリシアでは、ギリシア神話を祭った競技大会オリンピアが古代から開催されてきましたが、これも禁止となりました。後に、1896年、オリンピックと名称を変えて再開されることになります。
ローマ帝国の東西分裂
375年から始まったゲルマン人の大移動はますます激化する一方でした。
ゲルマン人の侵入に対応するには、一人では無理だと判断したテオドシウスは、二人の息子にローマ皇帝を継がせ、395年テオドシウスの死後、息子二人による分割統治が始まりました。(ローマ帝国の東西分裂)
これまで、複数人による統治と単独による統治が繰り返されてきましたが、単独統治に戻ることはありません。
教科書には「東西分裂」と表現されていますが、仲たがいしたから分裂したわけではありません。以降、単独統治に戻ることがなかったため、後世の歴史学者は「分裂」と表現しています。
この分裂以降、西はゲルマン人にやりたい放題やられ西ローマ皇帝の権威は低下していきます。東側からしてみても、西はどうでもいい領域となり果てます。