【フランス王国の歴史】カペー朝の成立

サント=シャペル教会フランス
サント=シャペル教会

中世ヨーロッパは、政治的変動と社会構造の急激な変化の時代でした。
8世紀から11世紀にかけて、ノルマン人やマジャール人による侵略は、西フランク王国の統治機構に大きな打撃を与え、中央集権的な権力が弱体化する中、地方の領主と貴族の影響力は急速に拡大し、封建社会が形成されていきました。987年、カロリング朝が断絶し、有力貴族であるユーグ・カペーが国王に選出されたことは、この社会変容の象徴的な出来事となります。
本記事では、カペー朝の成立から当時の情勢を見ていきます。

カペー朝の成立

8世紀から9世紀にかけて、ヨーロッパは未曾有の危機に直面していました。ノルマン人(ヴァイキング)やマジャール人による度重なる侵略は、西フランク王国の統治機構に壊滅的な打撃を与えました。これらの侵略者は、河川や沿岸部を中心に攻撃を繰り返し、中央集権的な王権の脆弱性を露呈させたのです。

国王は外部の脅威に効果的に対処できず、軍事的防衛能力を失っていきました。この状況下で、地方の領主や貴族は自らの防衛システムを構築し、地域社会を保護する役割を担うようになりました。

民衆は中央の権力に失望し、より安全で具体的な保護を提供できる地方の貴族のもとに集まりました。土地を基盤とした封建制度が急速に発展し、社会は新たな秩序を形成していったのです。騎士、聖職者、農民という三層構造が明確化し、各階層が独自の役割と権利を持つ社会システムが生まれました。

987年、西フランク王国のカロリング朝が断絶した後、有力貴族であるユーグ・カペーが国王に選出されたことは、この社会変容の象徴的な出来事でした。これがカペー朝の始まりであり、近代フランス王国への転換点となったのです。

言語の分岐:フランス語とドイツ語

元は一つの王国(フランク王国)であったフランス(西フランク王国)とドイツ(東フランク王国)で、異なる言語が使用されるにいたる経緯は何だったのか?

それは、843年の3国に分裂したヴェルダン条約あたりまでさかのぼります。

ストラスブールの誓い

ストラスブールの誓い
Nithard, Public domain, via Wikimedia Commons

当時、3人の兄弟で領土をめぐり対立状態にあった中、西フランクの王シャルル2世と東フランクの王ルートヴィヒ2世は協力して長兄ロタール1世に対抗することを誓いました。

これは、ストラスブールの誓いと呼ばれるもので、お互いが相手の言語で誓約したものです(右図が現在でも残っている誓約書)。

西フランク王は母親の影響で日常的にロマンス語(後のフランス語)を、東フランク王はゲルマン民族のチュートン語(後のドイツ語)を話していました。つまり、誓約書には西フランク王はチュートン語で、東フランク王はロマンス語で誓約したものになります。

王が日常で話している言葉が国民に広がっていくのは自然な流れであり、これがフランス語とドイツ語に分かれた起因となります。

911年にノルマン人によって建てられたノルマンディー公国でも100年後にはすでにフランス語に染まっていました。

アンジュー家の台頭と国際的影響

アンジュー家は、もともと優秀な狩人として知られ、ノルマン人の侵入に対する功績により、カディネ地方を与えられました。カペー朝の成立の際、アンジュー家はカペー家を王に推薦した経緯があり、王族との戦略的な婚姻関係を通じて急速に勢力を拡大し、後に複数の王朝に王を輩出することになります。

彼らの政治的野心と外交戦略は、中世ヨーロッパの権力構造を大きく変える原動力となりました。

ノルマンディー公国の動き

ノルマン朝(イングランド王国)

イングランド王国ではデーン人による支配(デーン朝)が続いているなか、王家のエドワード(当時11歳)がノルマンディー公国に亡命し約20年間、ノルマンディーの宮廷で生活を送っていました。エドワードと当時のノルマンディー公ギョームとは親しい間柄でした。

一方で、イングランドは有力貴族ハロルドがデーン人を追い払ったため、エドワードはイングランドに戻り、1042年王位に就きました。ノルマンディー公ギョームはエドワードに面会し、次の王位継承権を譲ってもらう約束を取り付けたました。ところが、1066年エドワードが死去すると、ハロルドが王位に就いてしまいます。

次の王位に就くはずだったギョームは激怒しイングランドへの侵攻を開始しました。ヘイスティングズの戦いでハロルドに勝利したギョームは、1066年、イングランド王ウィリアム1世として王位に就き、ノルマン朝が開かれました。

両シチリア王国

1000年頃から、ノルマンディー公国のノルマン人は新天地を求めて南イタリアへ移動し始めます。当初はイスラム勢力を追い出すための傭兵として雇われましたが、やがて自らの勢力を拡大。1130年には、ローマ教皇から正式な領主として認められ、両シチリア王国が誕生しました。

キリスト教権威の失墜とグレゴリウス7世による改革

当時のキリスト教会は政治利用され、そして教会の司教は領主化し、民衆から富を奪いつくし、その権威は失墜していました。結婚を禁じられた聖職者たちは、当たり前のように妻を持ち、聖職の売買も行われていました。

このような背景の中で修道院運動が各地で起こりました。修道院とは、カトリック教徒である修道士が一般民衆としての日常生活を捨て自給自足の質素な生活をしながら修行する場です。キリスト教の堕落を嘆(なげ)いて発生した修道院運動は、民衆の絶大な支持を得ました。

1073年、民衆の支持を得てローマ教皇に選出されたのが、イタリア出身の修道士ヒルデブラントです。彼は、グレゴリウス7世として教皇の座に就くと、聖職者の結婚や聖職の売買を改めて禁止する改革に取り組みました。
彼の功績により、皇帝や王をしのぐほど教会の権威を取り戻すことに成功したのです。

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