今回は、フランス王国の流れを追っていきます。
8世紀ごろから頻繁にみられるようになったノルマン人(ヴァイキング)やマジャール人のフランク国内での略奪行為を国王はうまく対応出来ずにいた中で、活躍したのが領主であり貴族であった。民衆は国王を見放し貴族の元に集まり、貴族の力は増していった。権力は中央から地方へ分散していき、封建社会を形成していくようになる。西フランク王国でカロリング朝が断絶すると、987年、国王に選出されたのが有力貴族であるユーグ=カペーであった。これがカペー朝の始まりであり、フランス王国の始まりでもある。
以下にカペー朝の歴代国王を掲載しておく。
ユーグ・カペー(987年-996年)
ロベール2世(996年-1031年)敬虔王
アンリ1世(1031年-1060年)
フィリップ1世(1060年-1108年)
ルイ6世(1108年-1137年)肥満王
ルイ7世(1137年-1180年)若王
フィリップ2世(1180年-1223年)尊厳王
ルイ8世(1223年-1226年)獅子王
ルイ9世(1226年-1270年)聖王
フィリップ3世(1270年-1285年)豪胆王
フィリップ4世(1285年-1314年)端麗王
ルイ10世(1314年-1316年)喧嘩王
ジャン1世(1316年)遺腹王
フィリップ5世(1316年-1322年)長躯王
シャルル4世(1322年-1328年)端麗王
歴代の王には肥満王や聖王といったあだ名が付けられることがある。これは、同じような名前が多く、区別しやすいように付けられたのだ。身体的な特徴であったり、言動や功績にちなんだあだ名が付けられた。
フランス語とドイツ語
元は一つの王国(フランク王国)であったフランス(西フランク王国)とドイツ(東フランク王国)で、異なる言語が使用されるにいたる経緯は何だったのか?
それは、843年の3国に分裂したヴェルダン条約あたりまでさかのぼる。
当時、3人の兄弟で領土をめぐり対立状態にあった中、西フランクの王シャルル2世と東フランクの王ルートヴィヒ2世は協力して長兄ロタール1世に対抗することを誓った。
これは、ストラスブールの誓いと呼ばれるもので、お互いが相手の言語で誓約したものである(右図が現在でも残っている誓約書)。
西フランク王は母親の影響で日常的にロマンス語(後のフランス語)を、東フランク王はゲルマン民族のチュートン語(後のドイツ語)を話していた。つまり、西フランク王はチュートン語で、東フランク王はロマンス語で誓約したのだ。
王が日常で話している言葉が国民に広がっていくのは自然な流れであった。これが、フランス語とドイツ語に分かれた起因である。
911年にノルマン人によって建てられたノルマンディー公国でも100年後にはすでにフランス語に染まっていたのだ。
アンジュー家
元は優秀な狩人で、ノルマン人の侵入に対し功績を上げたことでカディネ地方を王から与えられたことがアンジュー家の起源である。
王族との婚姻関係を結んでいくことで急速に台頭し、後に方々(ほうぼう)の王朝に王を輩出することになる。
カペー朝の成立の際、アンジュー家はカペー家を王に推薦している。
ノルマン朝
イングランド王国ではデーン人による支配(デーン朝)が続いているなか、王家のエドワード(当時11歳)がノルマンディー公国に亡命し約20年間、ノルマンディーの宮廷で生活を送っていた。当時のノルマンディー公ギョームとは親しい関係であった。
一方で、イングランドは有力貴族ハロルドがデーン人を追い払ったため、エドワードはイングランドに戻り、1042年王位に就いた。ノルマンディー公ギョームはエドワードに面会し、次の王位継承権を譲ってもらう約束を取り付けたのだ。ところが、1066年エドワードが死去すると、ハロルドが王位に就いてしまう。
次の王位に就くはずだったギョームは激怒しイングランドに侵攻し、ヘイスティングズの戦いでハロルドに勝利した。1066年、ギョームはイングランド王ウィリアム1世として王位に就き、ノルマン朝が開かれた。
両シチリア王国
1000年ごろからノルマンディー公国のノルマン人が新天地を求めて南イタリアへ移動しだした。当初はイスラム勢力を追い出すため、傭兵として雇われていた。その後、続々とノルマン人が南イタリアに移動してくると、雇い主を追い出し占領した。1130年、ローマ教皇はノルマン人を正式な領主として認め、両シチリア王国が誕生したのだ。
キリスト教権威の失墜とグレゴリウス7世による改革
当時のキリスト教会は政治利用され、そして教会の司教は領主化し、民衆から富を奪いつくし、その権威は失墜していた。結婚を禁じられた聖職者たちは、当たり前のように妻を持ち、聖職の売買も行われていた。
このような背景の中で修道院運動が各地で起こった。修道院とは、カトリック教徒である修道士が一般民衆の日常生活を捨て自給自足の質素な生活をしながら修行する場である。キリスト教の堕落を嘆(なげ)いて発生した修道院運動は、民衆の絶大な支持を得た。
1073年、民衆の支持を得てローマ教皇に選出されたのが、イタリア出身の修道士ヒルデブラントであった。彼は、グレゴリウス7世として教皇の座に就いた。グレゴリウス7世は、聖職者の結婚や聖職の売買を改めて禁止する改革に取り組んだ。彼の功績により、皇帝や王をしのぐほど教会の権威を取り戻したのだ。
第1回十字軍(1096年ー1099年)
主な登場人物
フィリップ1世・・・当時のフランス王
ウルバヌス2世・・・当時のローマ教皇
隠者ピエール・・・フランスの司祭
ゴドフロワ・ド・ブイヨン・・・下ロレーヌ公でフランスの貴族 十字軍の指揮を執った
ボエモン・・・南イタリアのノルマン人貴族 後のアンティオキア公
フランス王国は、ローマ教皇を助け、そして助けられという協力関係を作り上げるのを理想としていたが、フランスの王権が弱すぎて助けられずにいた。そして、ローマ教皇が提唱した一大事業である十字軍でフランスは王権を取り戻すのだ。
フランス人である教皇シルウェステル2世(999~1003)は、エルサレムをイスラム勢力から取り戻すべきだとキリスト教諸国に訴えた。彼が十字軍を最初に提唱した人物であった。グレゴリウス7世も訴えていたが実現ならず。そして実現したのが、フランス人の教皇ウルバヌス2世(1088~1099)のときであった。ヨーロッパは多様性のため一つになり切れなかった。これを実現できるのは、アジアを意識した時のみで、それはヨーロッパが一つであることを自覚したときだ。11世紀のローマ教皇はそれを目指していた。
当時、イスラム勢力の支配下にあったイスラエルへの巡礼は大きな危険が付きまとい、生きて帰ってくるのはわずかだった。そのため危険を少なくするため数千人規模の巡礼者でエルサレムに向かうが、それでもエルサレムに到着できるのはわずかであった。1055年、イスラム王朝ブワイフ朝がセルジューク=トルコに滅ぼされ、エルサレムはセルジューク朝に渡った。さらにビザンツ帝国へ侵攻しアナトリア半島(現在のトルコ)をも制圧していた。
隠者ピエールはウルバヌス2世にエルサレムの奪還を呼びかけた。1095年、フランスで演説を行うと、そこに民衆が武器を取り集まり、民衆十字軍となりコンスタンティノープルを経由してエルサレムへ向かうことになる。このようにして十字軍は、フランスから始まったのである。民衆達は食料を得るため、ゆく先々で略奪行為を働き、コンスタンティノープルに就くころには既にその手は血で汚れ、野蛮人と化していた。コンスタンティノープルでも略奪を行い、ビザンツ帝国はこの民衆十字軍を蛮族として恐れた。ビザンツ皇帝は彼らに長居してほしくなかったため、船を用意し速やかにアジアへの出発をサポートしたのだった。ところが、小アジアに上陸するも、セルジューク朝に阻(はば)まれコンスタンティノープルに戻るしかなかった。
参加した人が服に赤い十字マークを付けたことから十字軍と呼ばれている。フランスの民衆がエルサレムへ向かったことを聞きつけた他国のカトリック教徒も続々とフランスに終結してきた。フランスの貴族たちは軍隊を編成し、そこにドイツの軍隊も加わったが、フランス王フィリップ1世は参加しなかった。こうして正規の騎士や兵士、そして民衆で構成される後発部隊が結成されたのだ。
下ロレーヌ公ゴドフロワ・ド・ブイヨンの指揮のもと十字軍は一旦、コンスタンティノープルを目指した。その途中で南イタリアのノルマン人達もボエモンに率いられて合流した。コンスタンティノープルに到着すると、古代芸術が結集した神秘の街を見て制圧して奪おうと考えた貴族が多く居たが、コンスタンティノープルを手に入れるのは最も有力な一人の貴族であることに気付いてこの案は取り下げられている。隠者ピエールもこの十字軍に合流しエルサレムへ向かった。
道中のアンティオキアを陥落させると、同行していたノルマン人ボエモンがうまく根回しをして、他の貴族をさしおきアンティオキアの支配権を我が物にした。ボエモンはエルサレムへ向かわずここで十字軍を離脱している。1099年、十字軍は見事にエルサレムの陥落に成功し、指導者のゴドフロワがエルサレムの統治者に任命された。そして、ビザンツ帝国はフランス王を「キリスト教徒の王の中の王」とたたえたのだった。(フランス王自身は十字軍に関与していなかったのだが)
十字軍の影響
十字軍を通して、女性、民衆、哲学、自由な思考が解放されていくことになる。
十字軍には多数の農民が参加しており、命がけで君主を守った。彼らは、次第に自由への意識が高まり、農民が集まって形成したコミューンと呼ばれる小さな自治区や自由都市が少しづつ誕生していった。彼らは、商人や職人となり生計を建て、貴族や農民と区別してブルジョワジー(ブルジョワの複数形)と呼ばれ、中には巨大な富を築くものも現れた。
キリスト教世界では女性は奴隷と同じような扱いをされてきたが、権利を主張できるようになってくる。特に領土の相続権は男性のみが保有するのが一般的だったが、このころになると女性も主張できるようになってきた。
ギリシアやオリエントの学問がキリスト教哲学に浸透し、フランス北部のフランドルや南部のアルビで広がっていく。キリスト教を考えるうえで、ギリシア学問を用いて真理を追及するものが現れるようになる。特に古代ギリシアの哲学者アリストテレスはイエスキリストと対等の存在となっていく。アルビ周辺のアルビジョワと呼ばれる地域は、イベリア、フランス、イタリアを結ぶ中継地点であり、多種多様な民族が混血を繰り返し思想もまじりあうことで、特に強い影響が見られた。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教が混在していたこの地域で反カトリック派(カタリ派、ワルドー派)の勢力が増し、後のアルビジョワ十字軍に繋がっていく。
1077年のカノッサの屈辱で神聖ローマ皇帝とローマ教皇の対立は本格化し、叙任権をめぐる闘争へと発展していた。その中で、十字軍を興したフランスと教皇との関係は親密になっていく。
フランス語は、イングランド、シチリア、エルサレムに広がり、フランスは、ヨーロッパ封建世界の中心となっていった。