アレクサンドロス大王(第2章) 快進撃とダレイオスの逃亡

アレクサンドロス大王 マニアック
アレクサンドロス大王 Giuseppe Cades, Public domain, via Wikimedia Commons
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紀元前336年、マケドニアの王フィリッポス2世は早速ペルシアへの遠征隊を組織し送り出した。しかし、娘クレオパトラ(アレクサンドロスの妹)の結婚の祝宴が行われている中、フィリッポス2世は暗殺されてしまう。跡を継いだのが息子であるアレクサンドロス3世(後の大王)である。

アレクサンドロス3世は、紀元前356年、父フィリッポス2世と母オリュンピアスとの間に生まれた。フィリッポス2世は、アリストテレスを招きアレクサンドロス3世の家庭教師につけ、学問を学ばせた。そして、肉体の鍛錬を怠らず生活は質実で身体的にも剛健であった。アレクサンドロス3世と同年代の貴族達も一緒にアリストテレスの元で学んでおり、次第に気の合う仲間となっていく。彼らは後に、アレクサンドロスの側近となり東方遠征で大きな役割を果たしていくのである。そしてその中の一人、プトレマイオスは後にプトレマイオス朝エジプトの初代王となるのだ。アレクサンドロスは18歳になると、カイロネイアの戦いに出陣した。これが後の大王となるアレクサンドロス3世の初陣であった。

マケドニア王国(BC336)

マケドニア王国(BC336)
引用元の画像を日本語化Marsyas (French original); Kordas (Spanish translation), CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

アレクサンドロスは、ペルシア遠征の前にやっておくべきことがあった。マケドニア北方のトラキアの存在が懸念視されていたためトラキアへ出陣した。その直後、ギリシア内でアレクサンドロスが戦死したというガゼ情報が流れた。それに乗じて、カイロネイアの戦いで敗れ恨みを持ったテーバイが反乱を起こした。アレクサンドロスは、テーバイに向かいすぐさま鎮圧した。テーバイの処遇をどうするのか?アレクサンドロスはコリントス同盟に加盟するポリスに任せたのだ。ポリスに緊張が走った。もしテーバイへの処遇がアレクサンドロスの意にそぐわないものだとしたら、、、それを考えると厳しくせざるを得ない。結果、テーバイの街は破壊しつくされ、住民は全て奴隷となったのである。

東方遠征の話しを進める前に、アケメネス朝ペルシアの強さを書いておく。広大な領土を維持するため、ペルシアはいくつもの施策をしている。ペルシアの宗教はゾロアスター教であったが、征服した領土に対しゾロアスター教を強要せず宗教の自由を認めたのだ。また、その土地の習慣も認め、ペルシア語を強要することも無かった。ペルシアの歴代の王は、帝国を維持するために必要なことだと認識していたのだ。広大な領土は分割管理され、それぞれサトラップを配置した。このサトラップにはペルシアの貴族が就いた。ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーの代理人である王に対し、ペルシア貴族達は忠誠を誓っており王の意向に背くものは居なかったのだ(例外は居たが)。それゆえ、サトラップの存在は帝国統治に大きな役割を果たしていた。そしてもう一つ、王の道の存在も忘れてはならない。王の道は安全性を確保するため、周辺を兵士が常時警備していた。これほど安全で素早く移動できる道は世界に無かったと言われていたのだ。また、征服地から定期的に集まって来る貢納により、帝国の財政は無尽蔵であった。使っても使っても減っていかないのである。この尽きることのない富を使って強大な軍隊を編成できたのだ。

アレクサンドロス大王の東方遠征(イッソスまでの経路)

アレクサンドロス大王の東方遠征(イッソスまでの経路)

諸ポリスはコリントス同盟の規約に従い兵士をマケドニアに送り出した。東方遠征が始まった。アレクサンドロス率いるマケドニア軍は、ダーダネルス海峡を渡り小アジアに上陸した。対するペルシアは、小アジアでサトラップが集まり会議を開いた。マケドニア軍をどう対処するか、2つの案が出た。一つ目は小アジア沿岸の全ての作物を焼き払い持久戦に持ち込む作戦。遠征の基本は征服した土地で食料・物資を補充しながら進軍するのが通例で、食糧不足に追い込もうとする作戦だ。そしてもう一つの案がペルシア軍を普通にぶつけて撃退するという案だ。そして後者が選択された。ペルシア軍の強さを過信し普通にやったら勝てると高をくくり、マケドニア軍の強さを認識していなかったのだ。マケドニアとペルシアが最初に激突したのがグラニコス川の戦いだ。白馬にまたがったアレクサンドロスは自ら先頭に立ち、敵陣に切り込み敵将を討ったのだ。これによりアレクサンドロスのカリスマ性は際立ち軍の士気はさらに上がるのだった。捉えたペルシア兵士の中にギリシア人傭兵が多数存在した。これを知ったアレクサンドロスは憤怒し、その場で処刑していくのであった。

アレクサンドロスは、小アジアの西岸に沿って進軍した。小アジアの各都市では、グラニコス川の戦いで圧倒的な強さでペルシア軍を破ったアレクサンドロスの噂が既に広まっていた。小アジアの都市は戦わずに次々と降伏した。いくつかの都市ではマケドニア軍が到着すると常備しているペルシア兵は逃げ出す始末であった。このようにしてアレクサンドロスは戦わずして小アジアを手中に収めていくのであった。各都市の行政機関をそのままの形でマケドニアが引き継ぎ、住人達は税を収める先がペルシアからマケドニアに変わった。そしてペルシアによる専制的な支配者の元に置かれていたギリシア植民都市の住民は、民主的な政治を行うマケドニアを歓迎したのだった。ギリシアは古代から民主的な政治を行う性質を持っており、ギリシア人によって建国されたマケドニアもその性質を持っているのだ。

一方、ペルシアの王ダレイオス3世はバビロンに居た。グラニコス川の戦いの敗北の知らせが入ると、1000人を超える身の回りを世話する召使や料理人などを帯同し、さながら宮廷そのものが移動するかのような大移動をしたのだ。全支配地域から兵をバビロンに招集し、多民族が入り混じる大部隊を編成していた。その数はマケドニア軍を優に上回っていた。

マケドニア軍は、小アジアを東へ進軍し、ペルシア軍はバビロンを出て西へ進軍した。そして両者はイッソスで激突したのだ。アレクサンドロスとダレイオスの直接対決である。場所は海と山に囲まれた狭い地域であったため、ペルシア自慢の騎兵隊は機能しなかった。対してマケドニアの騎兵隊は隊列をうまく組み替えながら不利な地形に対処し優勢に進めた。アレクサンドロスは、ペルシア軍の一部の部隊が崩壊したのを知ると、そこをめがけて突進しダレイオスに直接攻撃を仕掛けた。ダレイオスは一目散に逃げだした。妻や子供、親族を置き去りにしてだ。王の逃亡でイッソスの戦いはアレクサンドロスの勝利に終わった。その直後に、ダレイオスから講和の申し出があったがアレクサンドロスは拒否している。アレクサンドロスは、残されたダレイオスの妻、子供、親族を丁重に扱い、ダレイオスの妻と結婚した。ダレイオスの親族を自分の親族としたのだ。これはいわゆる政略結婚の一種であり、ペルシア帝国の領土は全て自分が引き継ぎ、そして自身が次の王であることをアピールするものであった。

アレクサンドロスはペルシアの王ダレイオスがぶざまに逃亡したことを各地で宣伝して回った。大帝国を築き上げたアケメネス朝ペルシアの衰退がここから一気に加速するのであった。

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