【フランス王国の歴史】アヴィニョン捕囚とテンプル騎士団の消滅

アヴィニョン教皇庁 世界史
アヴィニョン教皇庁

フランスは、十字軍への情熱が薄れていく中、フィリップ4世(端麗王)のもとで近世化していく。その一方で、フランス王国の財政は次第に厳しくなっていき、お金を捻出するためローマ教皇と対立、教皇庁をアヴィニョンに移動させた。さらに、フィリップ4世は、テンプル騎士団が保有する莫大な財産に目を付けるのである。

フランス王国カペー朝の歴代王
ユーグ・カペー(987年ー996年)
ロベール2世(996年ー1031年)敬虔王
アンリ1世(1031年ー1060年)
フィリップ1世(1060年–1108年)
ルイ6世(1108年ー1137年)肥満王
ルイ7世(1137年ー1180年)若王
フィリップ2世(1180年ー1223年)尊厳王
ルイ8世(1223年ー1226年)獅子王
ルイ9世(1226年ー1270年)聖王
フィリップ3世(Hardi 1270年ー1285年)豪胆王
フィリップ4世(1285年–1314年)端麗王
ルイ10世(1314年–1316年)喧嘩王
ジャン1世(1316年)遺腹王
フィリップ5世(1316年–1322年)長躯王
シャルル4世(1322年–1328年)端麗王

太字になっている王が本記事で登場する王です。

法の中央集権化

フィリップ4世(端麗王)は、裁判権を貴族や聖職者から取り上げ、一般市民である裁判役人に委ねることを決めた。法院から貴族や聖職者が排除され、一般市民で構成されるようになった。パリの高等法院を頂点にして各地に裁判官を配置し、法務の中央集権化を進めた。これは権力が分散した封建社会から権力の中央集権化を目指したものであった。

フランス王とイングランド王との確執は相変わらず続いていて、両者は自分の味方を作るため、お金で同盟者を買っていた。法務の中集権化にかかる莫大な出費に加え、同盟者へ支払う出費もかさみフランス王国の財政は厳しくなっていく。工業化していない時代では、生産が消費に追いつかず、浪費は破滅に結びつくのである。

ローマ教皇との確執と三部会

フィリップ4世は、教会の財産に目を付けた。教会はカトリック教徒から徴収した富をため込んでいた。当時の教皇ボニファティウス8世はこれに対抗するため、聖書者から財産を奪うことを禁じ、もし破るようなことがあれば破門にすると宣言した。フィリップ4世はフランス国内の教会が民衆から徴収した金銀をローマに持ち出すことを禁じたのだった。

1302年、教皇は各地の高位聖職者をローマに招集した。これに対抗すべく、フィリップ4世はフランス全土をこの抗争に巻き込む必要があったため、聖職者、貴族、ブルジョワの3身分をパリのノートルダム大聖堂に招集し、「三部会」を開催した。三部会の貴族たちは、教皇がフランス民衆から莫大な税を徴収していることを強く非難する言葉が述べ、フランス王を支持した。聖職者やブルジョワは当たり障りのない意見を述べるにとどまった。フランスの民衆も、フランス王を支持した。

フランドルの反乱

三部会が開催される少し前、フランドルで暴動が発生し、フランドル人によってフランス人が虐殺された。フランドルは形式上フランス王の臣下に相当する地域だ。この暴動が起こる経緯・背景を幾つか挙げておく。

フランドルは、名産品の毛織物で栄え裕福な地域であった。原料の羊毛はイングランドに依存していたため、フランドルとイングランドは深い関係にあった。フランドル伯ダンピエールが娘をイングランドの王子と結婚させようとしたが、裕福なフランドルをイングランドに奪われたくなかったフィリップ4世は、結婚を阻止するためダンピエールと娘を幽閉した。ダンピエールは抜け出すことに成功するが、娘は幽閉先で死去したため、結婚は破談となってしまったのだ。

フランドルにフランス王妃が訪れた際、貴婦人たちが王妃以上に豪華に着飾っていたため、「これでは誰が王妃なのか分かりませんわ」と言って気分を害した。フランドルの思い上がりを矯正するために、フランスはフランドルに対し重税を課すようになったのだ。

このようにしてフランスと対立状態にあったフランドルで、ついに暴動が発生したのだ。暴動を抑える名目で大貴族たちが兵を招集し、フランドルに向かうが、本当の目的はフランドルの富を手に入れるためであった。ところが、次々と大貴族が戦死し、敗北してしまうのである。フランドル人は戦死した貴族が身に着けていたものを剥ぎ取り、フランドルの教会に勝利の印として飾ったのであった。後にフランス王シャルル6世がこれを目にして激怒し、町のフランドル人を皆殺しにする悲劇を生む原因となる。

この結果、フランスの貴族達は当主を失い、フランス王はその息子達の後見人を務めた。フランス王と貴族は結束するようになり王権が強化されたのだ。もし、貴族がこの戦いに勝利して大きな富を獲得していたら、王と結束することはなく三部会にも参加していなかったかもしれない。

アヴィニョン捕囚(1309年ー1377年)

教皇は、神聖ローマ帝国を味方につけることに成功した。一方のフィリップ4世は、今は教皇との対立に専念したかったため、イングランドとの争いを回避したかった。フィリップ4世はフランスの一部の領土を断腸の思いでイングランドに譲渡し、和解したのである。

公会議の開催する権限を持っているのは教皇だけであったが、フィリップ4世は、教皇は異端者であると訴え、公会議を開催し、各地の聖職者に招集の通達を送った。教皇はそれに対し強く非難した。

両者対立している中で先手を打ったのが、フィリップ4世であった。フィリップ4世は部下をローマへ派遣し、教皇を拘束したのだ。その後、民衆が隙をついて教皇を助けだし、かくまっていたが、老齢の教皇ボニファティウス8世はそこで死去するのであった。

結果、ローマ教会はフィリップ4世の手中に収まり、教皇の選出権も握ったのだ。フィリップ4世は、フランスの司教ベルトランに自分の言うことを聞けば教皇に選出してもいいと伝えた。ベルトランは喜んでそれを承諾したのだ。1305年、ベルトランは、クレメンス5世として教皇に選出された。教皇庁もローマからフランスのアヴィニョンに移動させ、教皇もアヴィニョンに留まることになった。(アヴィニョン捕囚

カペー朝末期のフランス王国(1328年)

カペー朝末期のフランス王国(1328年)
引用元を日本語化Goran tek-en, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

 

テンプル騎士団の壊滅

クレメンス5世は、フィリップ4世から出される要求に次々と従っていく。フィリップ4世はテンプル騎士団の財産を没収するよう要求したが、クレメンス5世は、さすがにそれは出来なかったようで、それに代わる王が喜びそうなことで何とか取り繕(つくろ)うしかなかった。

テンプル騎士団とは、キリストのために戦う騎士団で、十字軍では主力として参加していた。また、彼らを裁けるのは教皇のみであるという特権を有し、さらに税も支払う必要もなかった。本部をパリに置き、ポルトガル、アラゴン、ドイツ、イタリアなどに支部が配置され、パリでは3分の1の区画を保有していた。ヨーロッパ各地の領主が領土をテンプル騎士団に寄付したため、大陸中に「テンプル」にちなんだ地名が残っている。
総会がパリで開かれると、各地から富が運ばれる宝物庫でもあった。

かつての十字軍の熱狂の中にあった時代は、心強い存在であったが、回を重ねるうちにエルサレムへの情熱が薄れていくと、テンプル騎士団の富が堕落を引き起こす。そして彼らは、聖職者や女を必要とせず同性愛に走り、崇拝するのは己自身となり、異教徒と特にイスラム教徒と繋がりを持ち始めていた。十字軍が無くなったことで、フランスでテンプル騎士団は無用な存在となっていたのだ。

そしてその富の用途は何なのか?ヨーロッパに国をくるのではいのか?そんな疑問をフィリップ4世は抱くのだ。彼らは十字軍の遠征の中、重装備で鈍足な動きしかできなかったが、トルコの俊敏な騎兵隊と戦いながら、俊敏性を学んでいった。要するに非常に強い軍事力を持っていたのだ。

1307年、フィリップ4世はついに行動に移した。テンプル騎士団の総長から幹部を含む多くの騎士を一斉に逮捕したのだ。罪状は、イエスキリストの聖性を否認したこと、イスラム教徒と与(くみ)したこと、入会儀式の異端性、メンバー間の汚らわしい性的関係、十字架に唾を吐きかける習慣、などであった。これらは全て、テンプル騎士団の自白に基(もと)づくものであった。フィリップ4世は、テンプル騎士団の財産を全て奪うことで、財政難から一瞬で大金持ちになったのだ。

クレメンス5世は、教皇を無視して一斉逮捕に踏み切ったフィリップ4世に対し激怒した。フィリップ4世は、そんな教皇を全く気に留めることなく、粛々とテンプル騎士団への法的措置を進めたのだ。

その中で、テンプル騎士団がひどい拷問にかけられたことが露見した。性器で吊り上げられたり、両足を火あぶりにされ皮膚と肉が焼け落ち骨がむき出しになっていたものもいた。これにより、フィリップ4世の立場は危うくなり、立場を回復するためクレメンス5世と和解した。
テンプル騎士団の支部が存在する周辺諸国でも裁判が行われたが、比較的ゆるい刑罰だったり無罪となっていた。クレメンス5世はその周辺諸国に対し、テンプル騎士団を拷問にかけなかったことを非難した。これは、フィリップ4世をかばうための非難であった。

裁判が長引く中、1314年、判決が出る前にフィリップ4世は、無罪を主張するテンプル騎士団の総長を火刑にした。無罪を主張するのは王権への侮辱ととらえ、王みずからが刑を執行したのだ。このようにして、テンプル騎士団は壊滅した。

フィリップ4世の治世

人々は、その好戦性を裁判を通して実現するようになった。憎きライバルをどのように陥(おとしい)れて裁判に持ち込むか、またはどう捏造(ねつぞう)してして裁判に持ち込むかを考えるようになった。有罪が宣告され火あぶりで死人が出れば出るほど、裁判所にはさらに多くの案件が持ち込まれるようになった。

1314年、クレメンス5世とフィリップ4世は、相次ぎ死去した。フィリップ4世は、善王なのか悪王なのかは別にして、封建制から君主制へ移行するきっかけを作ったのは確かだった。

カペー朝の断絶

フィリップ4世の跡を継いだのは息子であるルイ10世だ。ルイ10世は、貴族の不平不満を良く聞き入れてしまう性格で、例えば前王フィリップ4世に奪われた領主裁判権を戻してほしいという要求や、領主の臣下に直接干渉するのを辞めてほしいという要求だ。これらの要求は、君主制から封建制に逆戻りするものであった。

フィリップ4世が組み上げてきたものが貴族により壊されようとしていた。ところが、新しく出来上がったシステムは法律家により守られ頑丈で、貴族による古いシステムに戻そうとする力は成功しそうで成功しない、はねのけられてしまうのだ。

ルイ10世が死去すると、妻のお腹にいた息子ジャン1世が国王を引き継いだが、生まれて間もなく死去したため、ルイ10世の弟フィリップ5世が王位に就いた。

フィリップ5世の跡を弟シャルル4世が継いだが、娘しか残さずに死去したためカペー朝はここで断絶するのだ。

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