【フランス王国の歴史】アヴィニョン捕囚とテンプル騎士団の消滅

アヴィニョン教皇庁フランス
アヴィニョン教皇庁

フランス王国は、十字軍の熱狂が薄れていく中で、新たな時代へと突入しました。フィリップ4世(端麗王)の統治下で王権の強化と中央集権化が進み、封建社会から近代国家へと移行していきます。
しかし、その過程で王国の財政は厳しさを増し、教皇庁やテンプル騎士団との対立を引き起こしました。本記事では、フィリップ4世の政策や彼の治世における主要な出来事を詳しく解説していきます。

法の中央集権化

フィリップ4世は、王権を強化するために司法制度の改革を推し進めました。それまで裁判権を持っていた貴族や聖職者から権限を取り上げ、一般市民である裁判官に委ねることを決定します。こうして貴族や聖職者が法院から排除され、王の権威のもとにある司法機関が整備されました。

さらに、パリの高等法院を頂点とする司法組織を各地に配置し、法の中央集権化を進めます。この改革により、封建制の下で分散していた権力を国王のもとに集約することが可能となりました。

しかし、フランス王国は同時にイングランドとの確執にも悩まされていました。両国の王は、同盟関係を築くために莫大な資金を費やしていました。法務の改革による出費に加え、同盟維持のための財政負担も重なり、フランス王国の財政状況はさらに厳しくなっていきました。

ローマ教皇との対立と三部会の設立

フィリップ4世は、財政難を解決するために教会の財産に目をつけました。当時、カトリック教会は信者からの寄付によって莫大な富を蓄えていましたが、教皇ボニファティウス8世はこれを守るため、聖職者の財産を王が奪うことを禁じる布告を発しました。さらに、この命令に従わない者は破門にすると警告しました。

これに対し、フィリップ4世はフランス国内の教会がローマに財産を持ち出すことを禁止し、教皇との対立を深めていきます。1302年、ボニファティウス8世は各地の高位聖職者をローマに召集しましたが、フィリップ4世はこれに対抗し、フランス全土を巻き込むべく「三部会」を開催しました。

三部会には、聖職者・貴族・ブルジョワ(都市の富裕層)の三身分が招集されました。貴族たちは教皇がフランスの民衆から不当に税を徴収していると強く非難し、フランス王を支持する姿勢を示しました。一方、聖職者やブルジョワは穏健な立場をとりつつも、大きな反対はしませんでした。結果として、フランスの民衆も王を支持する方向に傾いていきました。

三部会とは
フランスにおいて国王が聖職者・貴族・平民(ブルジョワジー)の代表を召集し、重要な政治・経済問題について協議するための会議です。日本の「国会」のような立法機関ではなく、国王に助言を与える役割を持っていました。そのため、国王の意思に反して決議を行うことはできず、あくまで国王の承認を得ることが前提とされていました。
フランスで最初に三部会が開催されたのは1302年のことです。この年、フランス王フィリップ4世(端麗王)はローマ教皇ボニファティウス8世との対立を深め、国民の支持を得るために三部会を召集しました。

フランドルの反乱

フィリップ4世の治世において、フランドル地方(現在のベルギー北部)で大規模な反乱が発生しました。この反乱は、単なる地方の暴動ではなく、フランスとフランドルの政治的・経済的・文化的対立が爆発したものでした。その背景には、フランドルの経済的繁栄、イングランドとの密接な関係、そしてフランス王の統治方針が複雑に絡み合っています。

フランドルの経済的繁栄とフランスとの関係

中世のフランドルは、ヨーロッパ有数の経済的に豊かな地域でした。特に毛織物産業が盛んで、ブリュージュやガン(ヘント)などの都市は国際的な交易の中心地として繁栄していました。

  • 羊毛の供給元としてのイングランド
    フランドルの毛織物産業は、原料である羊毛をイングランドから輸入していました。このため、フランドルとイングランドの経済関係は非常に強く、イングランドとの貿易がフランドルの繁栄を支えていたのです。
  • フランスとの封建的関係
    一方で、フランドル伯(領主)は形式上フランス王の臣下であり、フランドル地方もフランスの影響下にありました。つまり、フランドルはイングランドと経済的に結びつきながらも、フランス王に臣従しているという複雑な立場にあったのです。この構造がフランドルをめぐる対立を生み出すことになります。

フィリップ4世の介入と対立の激化

フィリップ4世は、フランドルがイングランドと親密になりすぎることを警戒していました。特に、フランドル伯ギー・ド・ダンピエールが自らの娘をイングランド王子と結婚させようとしたことが、フランスとフランドルの関係を悪化させる決定的な要因となりました。

  • フランス王による婚姻阻止と幽閉
    フィリップ4世は、フランドルがイングランドと政治的にも結びつくことを防ぐため、ダンピエール親子を幽閉します。ダンピエール伯自身は脱出に成功しましたが、娘は幽閉先で死亡し、婚姻は破談となりました。この出来事は、フランドルにおいてフランス王への不信感を深めることになりました。
  • フランドルへの経済的圧力
    さらに、フィリップ4世はフランドルに対して重税を課し、経済的な締め付けを強めます。これには、フランドル人の富がフランス王の権威を脅かす可能性があるという警戒感もありました。

フランドルの自立意識と文化的摩擦

フランドルの都市は、交易による富の蓄積により、自治意識を強めていました。特に、フランドルの都市貴族や商人たちは、フランス王に従属するよりも自由な自治都市としての地位を守ることを望んでいました。

  • フランス王妃の侮辱発言
    ある時、フランドルを訪れたフランス王妃が、フランドルの貴婦人たちが自分以上に豪華な衣装を着ているのを見て、「これでは誰が王妃なのかわかりませんわ」と発言し、不快感を示しました。この言葉は、フランドル人にとって「フランス王家から見下された」という屈辱となり、反発をさらに強めることになりました。
  • フランドル人の反仏感情
    フランドルの人々はフランス人貴族を「外部からの支配者」と見なし、経済だけでなく文化的にも独立を求めるようになっていました。この意識が、後の反乱につながっていきます。

フランドル反乱の勃発

1302年、ついにフランドル人が蜂起し、「金拍車の戦い」Battle of the Golden Spurs)として知られる戦いが勃発します。

  • フランス軍の派遣とフランドルの抵抗
    フィリップ4世はフランドルの暴動を鎮圧するため、フランス軍を派遣しました。大貴族たちは、この機に乗じてフランドルの富を手に入れようと考え、戦争に積極的に参加します。しかし、フランドル軍は熟練した民兵と戦術によってフランス軍を撃退し、フランス側の多くの騎士が戦死しました。
  • 「金拍車の戦い」の衝撃
    戦場には、戦死したフランス貴族の拍車(騎士が履く黄金の拍車)が散乱しており、フランドル人はそれらを回収して教会に飾りました。これは彼らにとって「フランス王の圧政からの解放」を象徴するものでした。しかし、この侮辱的な行為はフランス王家の怒りを買い、後の報復戦争につながることになります。

反乱の結末とフランス王権の強化

フランドルの一時的な勝利にもかかわらず、フランス王国は最終的にフランドルを再び支配下に置くことに成功します。しかし、この戦争の代償は大きく、多くのフランス貴族が戦死し、その後継者たちは幼少だったため、フランス王がその後見人を務めることになりました。

  • 王権の強化
    この結果、フランスの貴族たちは国王とより強く結びつくことになり、中央集権化が進むことになりました。もしフランス貴族がフランドルの富を手にしていたら、王と結束する理由はなくなり、三部会の開催にも影響を与えていたかもしれません。
  • シャルル6世の復讐
    さらに後の時代、フランス王シャルル6世がフランドルの教会に飾られた「金拍車の戦利品」を目にし激怒しました。彼は町のフランドル人を皆殺しにするという大虐殺を命じることになります。この事件はフランスとフランドルの確執をより深め、以後も長く続く対立の原因となりました。

アヴィニョン捕囚と教皇庁の移転

フィリップ4世は、ローマ教皇との対立をさらに激化させました。彼は教皇ボニファティウス8世を「異端者」として糾弾し、フランス国内の聖職者を公会議に召集します。フィリップ4世は部下をローマに派遣し、教皇を拘束しました。しかし、教皇は最終的に民衆によって救出されるものの、すでに老齢であったため間もなく死去しました。

この事件を経て、フィリップ4世は次の教皇選出に介入し、1305年にクレメンス5世を教皇に任命しました。そして1309年、教皇庁をローマからフランス南部のアヴィニョンへ移し、教皇をフランス王の支配下に置くことに成功しました。これが「アヴィニョン捕囚」と呼ばれる事件です。

カペー朝末期のフランス王国(1328年)

カペー朝末期のフランス王国(1328年)
引用元を日本語化Goran tek-en, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

テンプル騎士団の壊滅

フィリップ4世は、財政難を解決するためにテンプル騎士団の莫大な財産に目をつけました。テンプル騎士団は十字軍遠征の中で大きな財を築き、ヨーロッパ各地に広大な領地を持っていました。

1307年、フィリップ4世はテンプル騎士団の幹部を一斉に逮捕し、異端の罪で告発しました。彼らは拷問によって罪を「自白」させられ、最終的には団員たちが火刑に処されることとなりました。こうして、テンプル騎士団は壊滅し、その財産はフランス王国のものとなりました。

フィリップ4世の遺産とカペー朝の終焉

フィリップ4世の治世は、封建制から中央集権国家への移行を促す重要な時代となりました。しかし、彼の死後、フランス王国は混乱に陥ります。

フィリップ4世の息子ルイ10世は、貴族たちの要求を受け入れ、王権の強化を抑えようとしましたが、短命で終わります。その後、弟のフィリップ5世、さらにシャルル4世が王位を継ぎますが、彼には男子の後継者がいませんでした。このため、1328年にカペー朝は断絶し、新たにヴァロワ朝が誕生することになります。

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