18世紀のフランスは、ヨーロッパの覇権をめぐる争いの中心にありました。ルイ14世の死後、ルイ15世が幼くして王位を継ぎ、摂政オルレアン公の下でフランスは新たな時代へと進みます。財政改革や国際情勢の変化の中で、フランスはポーランド継承戦争、そしてその後のオーストリア継承戦争に関与し、ヨーロッパ全土を巻き込む動乱に加わっていきました。
本記事では、1715年から1748年までのフランスの外交・軍事・政治の変遷を詳しく解説し、この時代が後のフランスの運命にどのような影響を与えたのかを見ていきます。
ルイ14世の死とフランスの新時代
1715年9月1日、フランス絶対王政の象徴であったルイ14世が死去し、その治世はおよそ72年に及びました。彼の死は、長期間にわたる戦争と財政危機に苦しむフランス王国にとって、大きな転換点となりました。彼の孫であるルイ15世はわずか5歳で王位を継承することになり、実際の統治はフィリップ2世(オルレアン公)が摂政として担うことになりました。
オルレアン公は、ルイ14世の厳格な中央集権体制を部分的に緩和し、貴族たちの影響力を回復させる政策を推進しました。その象徴的な改革の一つがポリシナール体制であり、王権の独裁性を和らげ、貴族や官僚の関与を強めました。この時期、フランスはルイ14世の時代に蓄積された莫大な財政赤字の解消に取り組む必要があったため、財政改革が不可欠でした。
財政再建とジョン・ローの試み
ルイ14世の晩年においてフランスはスペイン継承戦争による莫大な戦費負担の結果、深刻な財政危機に陥っていました。新たに摂政となったオルレアン公はこの状況を打開するために、スコットランド出身の経済学者であるジョン・ローを登用し、大胆な金融改革を推進しました。
ジョン・ローは紙幣経済を導入し、銀行を設立して通貨供給を増やすことで経済の活性化を図りました。この改革の中心となったのがミシシッピ会社であり、ルイジアナ植民地の開発を推進しながら投資を募り、フランス国内の経済成長を促進しようとしました。最初は成功したかに見えましたが、過剰な投機と期待の膨張により、1720年にはミシシッピ泡沫事件が発生し、ミシシッピ会社の株価が暴落するとともに、金融システムは崩壊しました。この事件はフランス社会に対する信用を失わせ、ジョン・ローは失脚し、フランスの財政問題はさらに深刻化することになりました。
ルイ15世の親政と外交政策
1723年、ルイ15世が正式に親政を開始しました。彼は幼少期から体が弱く、政治への関心も薄かったため、実際の統治は側近の影響を強く受けることになりました。その中でも特に重要な役割を果たしたのが、宰相のアンドレ=エルキュール・ド・フルーリーでした。
フルーリーは慎重な財政政策を取り、支出の抑制と財政の健全化を推進しました。彼の政策の成果により、一時的にフランス経済は回復し、平和な時代を迎えました。しかし、この平和は長くは続きませんでした。外交政策の面では、ルイ14世の時代に対立していたハプスブルク家との関係改善を試みましたが、ヨーロッパの勢力均衡を巡る競争は激化していました。
ポーランド継承戦争の勃発
1733年、フランスの外交政策は再び動乱の渦に巻き込まれました。ポーランド継承戦争の勃発です。この戦争は、ポーランド王アウグスト2世の死後、その後継者を巡る争いが発端となりました。フランスは、ルイ15世の義父であるスタニスワフ・レシチニスキを支持しましたが、オーストリアとロシアはアウグスト3世(ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世)を支持しました。
フランスは、ポーランドでの軍事行動を積極的に展開することは難しく、主戦場はイタリアとドイツ南部に移りました。フランス軍はロレーヌ公国を占領し、イタリア戦線ではスペインと連携してオーストリア領のナポリ王国を攻略することに成功しました。こうして戦争は数年続きましたが、最終的にはフランスが外交的に優位に立ち、1738年のウィーン条約によって戦争は終結することになりました。
この条約により、フランスはロレーヌ公国をスタニスワフ・レシチニスキに与え、彼の死後にフランス王国へ統合されることが決定されました。これにより、フランスはロレーヌ地方の影響力を強化し、ヨーロッパにおける地位をさらに確立することになりました。
オーストリア継承戦争の勃発
1738年のウィーン条約締結によってポーランド継承戦争が終結したものの、フランスとオーストリアの間には依然として緊張が続いていました。フランスは引き続きヨーロッパの勢力均衡を維持しようとし、オーストリアに対抗するための同盟網を模索しました。そのような中で、1740年に神聖ローマ皇帝カール6世が死去し、彼の娘であるマリア・テレジアがオーストリア領を継承することが決定されました。
カール6世はプラグマティック・サンクションを発布して、諸国にマリア・テレジアの継承を認めさせていましたが、彼の死後、これに異を唱える勢力が次々と現れました。特にプロイセン王フリードリヒ2世はオーストリア領のシュレージエンに野心を抱き、1740年に軍を派遣して侵攻を開始しました。この出来事が発端となり、ヨーロッパ全土を巻き込むオーストリア継承戦争が勃発しました。
フランスの介入と戦局の推移
フランスは、この戦争においてオーストリアの弱体化を図るため、プロイセンやバイエルン選帝侯と結びつきました。特に、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトを神聖ローマ皇帝に擁立し、ハプスブルク家の勢力を削ごうとしました。このため、フランス軍はライン地方やオーストリア領に侵攻し、戦局を有利に進めることを試みました。
一方、オーストリアはイギリスやオランダの支援を受けながら、フランスとプロイセンに対抗しました。特に、マリア・テレジアはハンガリー貴族の支持を得て軍備を増強し、次第に戦局を立て直していきました。1742年にはフリードリヒ2世がオーストリアとベルリン条約を結び、一時的に戦線を離脱しましたが、フランスは依然として戦争を継続しました。
アーヘンの和約と戦争の終結
この戦争はヨーロッパ各国を巻き込み、長期化する中で、各国は次第に戦争の継続が困難であると認識するようになりました。特に、フランス国内では財政負担が増大し、戦争継続の意義が疑問視されるようになりました。そのため、フランスは外交交渉を進め、最終的に1748年のアーヘンの和約によって戦争が終結しました。
この条約によって、プロイセンはシュレージエンの領有を正式に認められ、オーストリアはハプスブルク家の支配を維持しました。フランスは一部の領土を失ったものの、戦争によって得られた影響力を活用し、次の外交戦略へと進んでいきました。