フランス革命によってもたらされた自由と平等の理念は、ナポレオン戦争を経てなおフランス社会に深く根付き続けました。しかし、1815年のナポレオンの失脚後、フランスは再び王政へと回帰し、ウィーン体制のもとでヨーロッパの安定が模索されることになります。
本記事では、王政復古から七月革命、そして二月革命へと至るフランスの政治的変遷を詳しく辿りながら、立憲君主制と共和政の狭間で揺れ動いた19世紀フランスの姿を浮き彫りにします。絶え間ない革命の波の中で、人々はどのように自由を求め、いかなる社会変革を目指したのでしょうか。
本稿を通じて、19世紀フランスの歩みをじっくりとご紹介します。
ウィーン体制の成立とフランスの王政復古
1815年のナポレオン・ボナパルトの百日天下の終焉とともに、ヨーロッパ諸国はフランス革命とナポレオン戦争による動乱を終結させ、ウィーン会議において新たな国際秩序を確立しようとしました。この会議ではオーストリアの外相メッテルニヒを中心に、「正統主義」「勢力均衡」「会議外交」といった原則が掲げられ、旧体制の復活と安定が図られました。
フランスでは、王党派の支持を受けてルイ18世が即位し、ブルボン朝の復活が成し遂げられましたが、すでにフランス革命とナポレオン時代を経験したフランス国民にとって、旧制度の完全復活は受け入れがたいものでした。そのため、ルイ18世はフランス革命の成果を一部受け継ぐ形で憲章(シャルター)を制定し、立憲君主制を採用しました。しかし、王党派と自由主義者の間で政治的対立が続き、王政復古の政権は不安定なものとなっていきます。
シャルル10世の反動政治と七月革命
ルイ18世の死後、王位を継いだシャルル10世は、王権の強化を目指し、より保守的な政策を推し進めました。特に、貴族の旧特権を回復しようとする政策は国民の不満を招き、1827年には自由主義者の勢力が拡大する中で議会との対立が深まりました。
シャルル10世は議会を無視し、1830年7月に七月勅令を発布し、言論の自由の制限、議会の解散、選挙資格の厳格化といった強権的な政策を打ち出しました。しかし、これに対する国民の反発は激しく、パリでは市民がバリケードを築き、七月革命が勃発しました。労働者や学生、自由主義者が中心となったこの革命は、わずか3日間でシャルル10世を退位に追い込み、彼はイギリスへ亡命しました。
ルイ・フィリップの即位と七月王政の成立
七月革命の結果、オルレアン家のルイ・フィリップが「フランス国民の王」として迎えられ、七月王政が成立しました。ルイ・フィリップはブルボン家とは異なり、自由主義的な立場を取ることを表明し、王権を制限した1830年憲法を制定しました。
この新体制のもとで、産業資本家や富裕な市民層が政治の中心となり、議会政治が確立されました。しかし、選挙権は依然として制限選挙のままであり、労働者や農民の政治参加は認められず、貧困層の不満は徐々に蓄積されていきました。
また、ルイ・フィリップは経済発展を推進し、鉄道の建設や産業の振興を図りましたが、都市労働者の労働環境は改善されず、労働運動が活発化しました。さらに、社会主義思想が広まり、サン=シモン主義やフーリエ主義などの理論が注目を集めるようになりました。
二月革命への道
1840年代に入ると、七月王政に対する批判が高まりました。特にギゾー内閣の保守的な政策により、政治改革を求める声が強まりました。さらに、1846年の不作による食糧価格の高騰、経済不況による失業者の増加が社会不安を引き起こしました。
1848年2月、政府の弾圧に対して民衆が蜂起し、パリで二月革命が発生しました。労働者や学生がバリケードを築き、街頭戦を展開した結果、ルイ・フィリップは退位を余儀なくされ、イギリスへ亡命しました。こうして七月王政は崩壊し、新たに第二共和政が樹立されることとなりました。
第二共和政の成立と政治的混乱
二月革命によって七月王政が崩壊した後、フランスでは新たな政治体制として第二共和政が成立しました。1848年2月24日、臨時政府が樹立され、その中心にはラマルティーヌをはじめとする共和主義者や社会主義者が名を連ねました。
臨時政府は直ちに普通選挙の実施、言論の自由の確立、労働権の保障といった民主的な改革を進め、特に社会主義者のルイ・ブランは労働者の待遇改善を図るために国立作業場を設立しました。しかし、これらの改革は産業資本家や地主層の反発を招き、共和派内部での対立が激化していきました。
4月の選挙では保守派が多数を占め、労働者の期待とは裏腹に社会主義的な政策は後退しました。国立作業場は6月に閉鎖され、これに抗議した労働者たちが蜂起し、六月蜂起が勃発しました。しかし、この蜂起は政府軍によって鎮圧され、労働者階級と共和政政府の間に深い溝を生む結果となりました。
ルイ・ナポレオンの台頭
六月蜂起の鎮圧後、共和政政府はより保守的な方向へと傾きました。そして1848年12月、フランス初の大統領選挙が行われ、圧倒的な支持を得てルイ・ナポレオン・ボナパルトが当選しました。彼はナポレオン・ボナパルトの甥であり、その名声を利用して広範な支持を獲得しました。
ルイ・ナポレオンは当初、共和政の維持を公約に掲げていましたが、徐々に独裁色を強めていきます。彼は議会と対立しながらも、保守派やカトリック勢力の支持を得て、権力の強化を図りました。そして1851年12月2日、彼はクーデタを決行し、議会を解散して独裁体制を確立しました。
第二帝政の成立と共和政の終焉
クーデタの翌年、1852年12月2日、ルイ・ナポレオンは国民投票を実施し、圧倒的な支持を背景に皇帝に即位し、ナポレオン3世を名乗りました。こうして第二帝政が成立し、フランスは再び帝政の時代へと突入しました。