十字軍の終焉と新たな時代の幕開けを象徴する13世紀後半、この時期、ヨーロッパはモンゴル帝国の脅威に直面し、中東ではイスラム勢力が台頭、そして地中海地域では新たな勢力図が形成されていました。本稿では、信仰に生きたフランス王ルイ9世による最後の十字軍遠征から、その弟シャルル・ダンジューの独裁的支配、そして民衆の反乱へと続く30年間を追っていきます。
第7回十字軍(1248年~1254年)
第7回十字軍は、フランス王ルイ9世(サン・ルイ)が中心となって結成されました。この遠征は、エルサレム奪還を目指しながらも、幾多の困難と失敗によって幕を閉じました。また、この十字軍の背景には、モンゴル帝国の台頭やヨーロッパ諸勢力間の複雑な関係が絡み合っています。
背景:エルサレム陥落とモンゴルの脅威
13世紀中頃、北方のアジアで興隆したモンゴル帝国が南下し、中東地域のイスラム世界に大きな圧力をかけていました。その一方で、ヨーロッパ勢力も中東における影響力を保とうと懸命でした。そんな中、エルサレムは1244年にイスラム勢力の手に落ち、キリスト教徒たちにとって一層の危機感が広がります。この状況を受けて、当時ラテン帝国の皇帝であったボードワン2世がフランス王ルイ9世を訪れ、オリエント世界が抱える危機的状況を訴えました。
一方で、ローマ教皇と神聖ローマ帝国の間には確執が続いており、教皇はルイ9世に対して十字軍の標的を中東ではなくドイツに向けるよう要請します。しかし、ルイ9世はキリスト教信仰が非常に厚く、「聖王(サン・ルイ)」と称されるほどでした。その信仰とエルサレムへの情熱から、教皇の要請を退け、自ら十字軍を率いて中東へ向かう決意を固めました。
エジプト攻略の失敗
ルイ9世はエルサレムを奪還するためには、まずエジプトを拠点とする必要があると判断し、ナイル川デルタ地帯にある要塞都市ダミエッタを攻撃しました。十字軍は1249年にダミエッタを一時的に占領することに成功しますが、その後の戦いは困難を極めました。エジプトのアイユーブ朝は徹底抗戦し、補給路の確保にも失敗した十字軍は次第に追い詰められていきます。
最終的に、ルイ9世自身が捕虜となり、十字軍は敗北を余儀なくされました。身代金を支払うことでルイ9世は解放されましたが、これにより十字軍の戦力や士気は大きく削がれてしまいました。
エルサレム奪還断念と帰国
ルイ9世は解放後、エルサレム奪還を目指して中東での活動を続けましたが、さらなる進展を見られませんでした。その最中、母親であるブランシュ・ド・カスティーユの死去の報が届きます。この知らせを受け、ルイ9世はエルサレム奪還を断念し、フランスへ帰国することを決意しました。
帰国後の影響とその後
フランスに戻ったルイ9世は、十字軍の失敗に対する罪悪感を抱え続けました。その償いの一環として、イングランド王ジョン欠地王から取り上げていたアンジューとガスコーニュの一部領地を返還し、その他の領土についてはフランスが保持することを認めたパリ条約(1259年)を締結しました。この条約により、イングランドとの関係は一時的に安定を見せましたが、十字軍運動の失敗はヨーロッパにおけるキリスト教勢力の衰退を象徴する出来事の一つとして記憶されています。
第8回十字軍(1270年)
第8回十字軍は、フランス王ルイ9世(サン・ルイ)が再び十字軍を率いて挑んだ最後の遠征です。この遠征は、信仰と使命感に駆られたルイ9世の意志の強さを象徴していますが、過酷な自然環境や病気によって悲劇的な結末を迎えました。
背景:再び立ち上がるルイ9世
第7回十字軍の失敗後、ルイ9世は罪悪感に苛まれ、しばらくの間フランス国内で信仰生活に専念していました。その間、彼の弟であるシャルル・ダンジューは軍事的成功を収め、両シチリア王国を征服するなど、フランスの影響力を広げていました。一方で、アルビジョワ十字軍で活躍したモンフォールの息子はイングランドで議会制度の確立に寄与し、ヨーロッパの政治構造にも変化が見られる時代となっていました。
しかし、そんな中、中東のオリエント地域では、イスラム勢力によるキリスト教徒数万人の虐殺事件が発生します。この悲報を聞いたルイ9世は再び十字軍を起こす決意を固めます。彼にとって十字軍は、信仰と正義を体現する使命であり、自らの罪を贖う行為でもありました。
チュニスへの上陸
ルイ9世は、エルサレムを目指す前に北アフリカのチュニスを攻略することを計画しました。この地を拠点にすれば、オリエントにおけるキリスト教勢力の補給路を確保できると考えたためです。しかし、1270年に十字軍がチュニスへ上陸した際、そこは彼らの想像をはるかに超える過酷な環境でした。
土地は乾燥しきっており、木や植物がほとんど生えていない不毛の地でした。また、水は臭気を放つ沼や虫が群がる水たまりしかなく、飲料水の確保も困難でした。このような環境下で十字軍は厳しい状況に追い込まれます。
ペストの蔓延とルイ9世の死
不衛生な環境と過酷な気候条件の中、次第にペストが蔓延し、十字軍は多数の死者を出しました。ルイ9世自身も病に倒れ、1270年8月25日にチュニスで亡くなります。その死により、十字軍の士気は大きく低下し、遠征は断念されることとなりました。残された十字軍は帰国を余儀なくされ、第8回十字軍はここで終焉を迎えます。
結果と影響
第8回十字軍は、エルサレム奪還どころか、拠点として予定していたチュニスの攻略にも失敗しました。この遠征は、キリスト教勢力の軍事的な衰退と十字軍運動そのものの限界を象徴するものとなりました。
一方で、ルイ9世の信仰と行動は多くの人々に感銘を与え、彼は死後1297年にカトリック教会によって聖人(サン・ルイ)に列せられました。その名は、彼の信仰と献身を象徴するものとして後世に語り継がれています。
シチリアの晩祷(ばんとう)(1282年)
1282年に起こった「シチリアの晩祷」は、フランスによる圧政に対する民衆の反発が引き起こした暴動です。この事件により、両シチリア王国が分裂し、ヨーロッパの政治地図に大きな影響を与えました。以下では、背景から事件の経過、そしてその結果までを詳しく解説します。
背景:シャルル・ダンジューの登場
フランス王ルイ9世が亡くなった後、その息子フィリップ3世(豪胆王)が王位を継ぎました。しかし、この時代に最も注目されたのはルイ9世の弟であるシャルル・ダンジューでした。シャルルは1266年に両シチリア王国を征服し、カルロ1世として王位に就きました。
シャルルは強大な権力を手中に収め、シチリアで独裁的な支配を行いました。彼はローマ教皇クレメンス4世の死後、次の教皇選出を約3年間も妨げ、その間、自ら教皇の権力を行使しました。この期間、教皇の座は空席となり、宗教的・政治的に不安定な状況が続きました。
その後、シャルルがビザンツ帝国の征服を目指している間に新たな教皇が選ばれました。この教皇は、シャルルの脅威に対抗するため、神聖ローマ帝国とビザンツ帝国に和解を呼びかけました。この時期、ラテン帝国はすでに滅び、ビザンツ帝国が復活していました。和解交渉は成功しましたが、教皇が間もなく死去すると、シャルルは自分の影響下にあるフランス人マルティヌス4世を教皇に選出させました。こうして、シャルルは教皇を自らの操り人形とし、さらなる権力を得たのです。
圧政による民衆の反発
シャルルの支配は過酷で、民衆の生活を圧迫しました。新しい銀貨を発行して1ドニエ(貨幣の単位)を30ドニエで買い取らせるなど、不公平な経済政策を実施しました。また、庭にできたハチの巣にまで課税するなど、あらゆる手段で税を徴収しようとしました。このような圧政により、民衆の不満は次第に高まっていきました。
シチリアの晩祷:暴動の勃発
1282年の復活祭の翌日、シチリア島のパレルモで行われていた晩祷(夕べの祈り)の最中に暴動が発生しました。この暴動は、多数のフランス人が殺害される大規模な事件へと発展しました。この「シチリアの晩祷」は瞬く間にシチリア全土に広がり、反フランスの気運が一気に高まりました。
この暴動の中、シチリア島の前王の娘の結婚相手であるアラゴン王に、シチリアへの支援を求める書簡が届けられました。これを受けたアラゴン王は軍を率いてシチリア島に上陸し、シャルル・ダンジューを島から追い出すことに成功しました。
両シチリア王国の分裂
この暴動の結果、両シチリア王国は分裂しました。シチリア島はアラゴン王国の支配下に入り、「シチリア王国」となりました。一方、シャルルはナポリを中心に「ナポリ王国」を統治することとなりました。以後、南イタリアとシチリア島は異なる運命を歩むことになります。