【フランス王国の歴史】百年戦争の再開とフランス王国の危機

【フランス王国の歴史】百年戦争の再開とフランス王国の危機フランス
【フランス王国の歴史】百年戦争の再開とフランス王国の危機

中世ヨーロッパの歴史において、百年戦争は最も長期にわたる国際紛争として知られています。しかし、この戦争は単なるイングランドとフランスの対立だけではありませんでした。特に1369年以降の展開は、フランス国内の政治的混乱と深く結びついており、より複雑な様相を呈することになります。賢王と呼ばれたシャルル5世の戦略的な戦い方から、シャルル6世の精神疾患による統治の混乱、そしてブルゴーニュ派とアルマニャック派の激しい対立まで、フランス王国は存亡の危機に直面することになりました。

この記事では、1369年から1422年までの時代を詳しく見ていきたいと思います。

シャルル5世による戦争再開と初期の展開

1369年、シャルル5世によって再開された百年戦争は、フランス王国にとって新たな局面を迎えることとなります。この時期までに、フランスは1356年のポワティエの戦いでの敗北や1360年のブレティニー条約による領土の割譲など、大きな打撃を受けていましたが、賢王の異名を持つシャルル5世の統治下で、状況は大きく変化していくことになります。

シャルル5世は、軍事的才能に優れた将軍ベルトラン・デュ・ゲクランを重用し、イングランドとの戦いに新たな戦略を導入しました。デュ・ゲクランが採用した戦術は、大規模な野戦を避け、小規模な襲撃や包囲戦を繰り返す持久戦の形態でした。この戦術は後にシュバルシェ戦術として知られることになります。

フランスの態勢立て直しと戦況の好転

シャルル5世は行政改革にも着手し、租税制度を整備して戦費の確保に努めました。特に、エド税と呼ばれる間接税の徴収を恒常化させ、王権の財政基盤を強化することに成功します。また、彼はパリ高等法院を設置し、司法制度の整備も進めていきました。

この時期、イングランド側ではエドワード3世の健康状態が悪化し、その後継者である黒太子エドワードも病に倒れていました。この機に乗じて、フランス軍は着実に失地回復を進めていきます。1372年にはラ・ロシェル海戦でイングランド艦隊を撃破し、大西洋岸の制海権を確保することに成功しました。

シャルル6世の即位と新たな混乱

1380年にシャルル5世が死去すると、わずか12歳のシャルル6世が即位します。未成年の王の後見を巡って、王族間での権力闘争が始まり、特に王の叔父であるベリー公ジャンブルゴーニュ公フィリップ2世アンジュー公ルイ1世らが大きな影響力を持つようになりました。

シャルル6世が成人に達した後も、フランス王国の不安定な状況は続きました。1392年、シャルル6世は深刻な精神疾患を発症し、統治能力を著しく低下させてしまいます。この事態を受けて、王国の実権を巡る争いは更に激化することになります。

ブルゴーニュ公国の台頭

この混乱期に大きな影響力を持ったのがブルゴーニュ公国でした。ブルゴーニュ公フィリップ2世は、フランドル地方との婚姻同盟を通じて勢力を拡大し、その富と軍事力を背景に、フランス王国の政治に強い発言力を持つようになっていきました。

特に、フィリップ2世の息子であるジャン無畏公の時代には、パリの市民層やカボシャン党と呼ばれる過激派との結びつきを強め、王国の中枢での影響力を更に増大させていきます。この時期、パリでは度々暴動が発生し、その都度ブルゴーニュ派が介入する形で政治的影響力を行使していきました。

アルマニャック派の形成

ブルゴーニュ派の台頭に対抗して形成されたのがアルマニャック派でした。この派閥は、王弟オルレアン公ルイを中心として結集し、後にその娘婿であるアルマニャック伯ベルナール7世が指導者となります。アルマニャック派は南フランスの貴族たちの支持を得て、ブルゴーニュ派と激しく対立していくことになります。

両派の対立は単なる政治的な権力闘争を超えて、地域間の対立や社会階層間の対立という性格も帯びていきました。ブルゴーニュ派が北部の都市部や商工業者層の支持を得ていたのに対し、アルマニャック派は南部の旧来の貴族層を基盤としていました。

パリを巡る抗争の激化

1407年、パリでオルレアン公ルイが暗殺される事件が発生します。この暗殺の背後にはジャン無畏公の存在があったとされ、両派の対立は決定的なものとなっていきました。パリの街は度々騒乱の舞台となり、カボシャンの乱に代表されるような民衆蜂起も発生します。

この内乱状態は、フランス王国の防衛力を著しく低下させることとなり、後のイングランドによる新たな侵攻を招く遠因となっていきました。特に、両派の対立がフランス王国の統一的な対外政策の実施を困難にし、イングランドに付け入る隙を与えることになります。

アザンクールの戦いと新たな危機

1413年、フランスではブルゴーニュ派が一時的にパリから追放され、アルマニャック派が実権を掌握する事態となりました。この政治的混乱に乗じて、イングランド王ヘンリー5世は1415年、大軍を率いてフランスに再侵攻を開始します。

同年10月25日、北フランスのアザンクールにおいて、フランス軍とイングランド軍の決戦が行われることになります。フランス軍は数的優位を誇っていましたが、イングランドの長弓兵による精密な射撃と、泥濘化した戦場でのフランス重装騎士の機動力低下により、壊滅的な敗北を喫することになります。このアザンクールの戦いでは、フランスの貴族の多くが戦死または捕虜となり、軍事力は著しく低下することとなりました。

トロワの条約への道程

アザンクールでの敗北後、フランスの内政は更なる混迷を深めていきます。1417年、ブルゴーニュ公ジャン無畏公がパリに再入城し、アルマニャック派の指導者たちを追放あるいは処刑します。この過程で、アルマニャック伯も命を落とすこととなりました。

一方、イングランド軍は着実に北フランスへの侵攻を進め、ノルマンディー地方の大半を占領していきます。1419年には重要な港湾都市であるルーアンが陥落し、パリへの脅威は刻一刻と迫っていきました。

ジャン無畏公暗殺と新たな同盟

この危機的状況の中、1419年9月、モントローでの和平会談の場において、ジャン無畏公がシャルル(後のシャルル7世)派の家臣によって暗殺されるという衝撃的な事件が発生します。この暗殺を機に、新ブルゴーニュ公フィリップ善良公はイングランドとの同盟に踏み切ることを決意します。

トロワの条約と二重王国の成立

1420年5月、トロワの条約が締結されます。この条約により、イングランド王ヘンリー5世はフランス王シャルル6世の娘カトリーヌ・ド・ヴァロワと結婚し、シャルル6世の死後にフランス王位を継承する権利を得ることになりました。同時に、シャルル6世の嫡子であるシャルル(後のシャルル7世)は、王位継承権を剥奪されることとなります。

この条約によって、フランスとイングランドの二重王国が成立することになり、フランス北部はイングランド・ブルゴーニュ同盟の支配下に置かれることになります。一方、シャルルはロワール川以南に逃れ、ブールジュを拠点として抵抗を継続していきました。

新たな転機への胎動

1422年、相次いでヘンリー5世とシャルル6世が死去します。イングランド・フランス両国の王位は、わずか生後9ヶ月のヘンリー6世が継承することになりました。イングランド側の実権はベッドフォード公が握り、パリを拠点として北フランスの統治を進めていきます。

一方、シャルルは自らをシャルル7世と称し、南フランスでの支配体制の確立を目指します。この時期、シャルル7世は周囲から「ブールジュの王様」と揶揄されるほど、その勢力は限定的なものでした。しかし、イングランドの占領統治に対する民衆の不満は徐々に高まりつつあり、新たな展開の可能性が生まれつつありました。

この時期、フランスの民衆の間では、王国を救う「乙女」の出現を予言する民間預言が広く流布していました。やがて、この預言はジャンヌ・ダルクの出現という形で現実のものとなっていくことになります。

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