【フランス王国の歴史】百年戦争とジャックリーの乱

モン・サン・ミッシェル修道院(フランスのブリュターニュ) 世界史
モン・サン・ミッシェル修道院(フランスのブリュターニュ)

カペー朝が断絶して、王位に選出されたのがヴァロワ家のフィリップ6世であった。
イギリスは経済発展を遂げ、急速に台頭するなか、フィリップ6世の治世でフランスを舞台とした百年戦争が起きる。相次ぐ戦争の中、ペストが流行し、ブルジョワは貴族と対立、農民は搾取され農民によるジャックリーの乱が起こるのだ。

ヴァロワ朝の歴代王
フィリップ6世(1328年-1350年)幸運王
ジャン2世(1350年-1364年)善良王
シャルル5世(1364年-1380年)賢明王
シャルル6世(1380年-1422年)狂気王
シャルル7世(1422年-1461年)勝利王
ルイ11世(1461年-1483年)慎重王
シャルル8世(1483年-1498年)温厚王

プランタジネット朝の歴代王
ヘンリー2世(1154年-1189年)
若ヘンリー(1170年-1183年) ヘンリー2世と共同国王
リチャード1世(1189年-1199年)獅子心王
ジョン(1199年-1216年)欠地王
ヘンリー3世(1216年-1272年)
エドワード1世(1272年-1307年)
エドワード2世(1307年-1327年)
エドワード3世(1327年-1377年)
リチャード2世(1377年-1399年)

太字になっている王が本記事で登場する王です。

イングランド経済の国際化

イングランドは外国との商業活動の活発化に成功する。一方のフランスは乗り遅れるのだ。

聖地エルサレムは完全に失われ、マルコポーロが「黄金の国ジパング」を発刊してから、世界は広く他にも文明が広がり、エルサレムが中心ではないことを知る。彼らは世界を知るのである。彼らの情熱はエルサレム奪還から、海洋交易による世界への開拓に向き始めるのだ。

ヴェネチア人は、かつてラテン帝国が建てられると、コンスタンティノープルという交易路を獲得したが、ビザンツ帝国が復活したことで、その交易路を失ってしまう。彼らは、代わる商売相手を世界に模索していた。お金を得るためなら危険をものともせず、獲得に向かうのだった。それはかつての十字軍が身の危険を顧みずにエルサレムへ向かったのと同じである。エルサレム奪還こそが正義であったが、この時代になると、いかにお金を得るかが正義であり、英雄的な存在となる。

フランスではヴェネチア商人に高額な税を化したことで、ヴェネチア商人はフランスを敬遠するようになった。彼らは北のハンザ同盟との交易や、大西洋の海洋航路を使ってイングランドとの交易を活発化させた。フランスはこれではまずいと感じ、税を引き下げたが、手遅れだった。財力がさらに重要となっていく時代においてフランスは、後れを取るのである。フランスは、ヨーロッパの経済活動から取り残された国となった。

イングランドでは、外国人専用の裁判官が存在し、外国人商人に不利になるような判決を出さないように公平な判決かどうかを厳しく監視し、外国人商人は公平に扱われ保護されていた。フランスは、領主が勝手に銀貨を発行するなど、各貨幣の銀の純度もまちまちだったのも商人に敬遠される理由の一つだった。

イングランドには世界中から商人がやって来るようになったのだ。

イングランドの経済発展

教皇は、依然としてフランス王の操り人形で、様々な要求が教皇に出された。このような強引なやり方が原因で、フランス王に対する反発心が国内で増し、結果的に弱体していくのである。その中でイングランドが台頭してくる。

イングランドは依然としてフランスの臣下という立場であったが、イングランド王エドワード3世はフランス王に対し何かと文句を付けるようになった。その中で、フランスはフランドルでイングランド人を拘束したのだ。これを受け、イングランドは国内にいたフランドル人を拘束し、フランドルへの羊の輸出を停止したのだ。

フランドルは毛織物産業で発展した地域で、羊毛をイングランドからの輸入に頼っていた。羊を輸入できなくなったため毛織物産業がどん詰まりとなってしまった。そこでフランドル人はイングランドへの移住を開始した。イングランドは彼らを手厚い待遇で迎え、毛織物産業で瞬く間に発展していくのであった。

フランスは、イングランドとフランドルを引き離そうとした結果、毛織物産業が奪われ、イングランドの産業発展を手助けしてしまうのであった。

百年戦争(1339年-1453年)

イングランドは、着々と戦争の準備を始めていた。
1338年、イングランド軍は、フランスのフランドルに上陸すると歓迎され迎えられた。

フランドル人は神聖ローマ帝国を味方に付けるよう進言したため、イングランド王エドワード3世と新ローマ皇帝ルートヴィヒ4世は会談を持った。ルートヴィヒ4世は、アヴィニョンのフランス人教皇から迫害を受けていたため、フランスに攻め入る個人的な動機があった。ところが、ルートヴィヒ4世は危険な戦争に参加する気はなく、エドワード3世に皇帝代理の委任状を渡すだけに留まったのであった。

イングランド軍は、フランスに攻め入ったが、資金が枯渇して撤退した。これが後に百年戦争と言われる始まりの戦いであった。

1340年、フランスは船団を編成してイングランドに攻め入ったが(スロイスの海戦)、指揮をとった人物は、カネカンジョウしかできない財務長官であった。海を怖がる指揮官が率いたフランス軍は海戦で返り討ちに会い敗北したのだ。イギリスはそのままフランスに上陸するのだが、そこで敗れ撤退するのであった。

ブルターニュ継承戦争(1341年ー1365年)

ブリュターニュで相続問題が発生する。

ブリュターニュ公ジャン3世が死去すると、子供が居なかったため、ジャン3世の弟モンフォールかジャン3世の兄の娘であるジャンヌとの間で相続権を争った。イングランド王はモンフォールを支持し、フランス王はジャンヌを支持し反対の立場をとった。この対立を背景に1341年、ブルターニュ継承戦争が始まったのだ。

クレシーの戦い(1346年)

ブルターニュ継承戦争が起きている中、それとは別の戦争が始まった。(クレシーの戦い

1346年、エドワード3世は再び侵攻を開始するため守備の手薄なノルマンディーに上陸し、フランドルと合流するため東へ進軍した。それに対し、フランス王フィリップ6世はフランドルの手前のクレシーで待ち受けた。両者は激突し、結果イングランドが勝利を収めた。(この戦争でエドワード3世の息子である王太子エドワード(非常に残虐的な性格であったためエドワード黒太子と呼ばれている)も参加している。この後、彼はフランスじゅうを荒らしまわる)

イングランド軍は港町カレーまで進軍、そこを占領して新しい都市を建設した。以降、カレーはイングランド軍がフランスへ入る入口として使われるようになったのだ。

クレシーの戦い
クレシーの戦い (引用元を日本語化Goran tek-en, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

ペストの大流行

ちょうどこの頃、ヨーロッパ大陸でペストが大流行し人口が急激に減少した。年配者より若者が多く犠牲となった。ドイツではペストをユダヤ人のせいだと言って大虐殺が行われた。

人口が10分の1にまで減った町も数知れず、多くの人が路上で息絶え、家で孤独に死ぬ人は数えきれないほどだった。家族全員が家で死んでいることもあった。

ペストの大流行が去ると、人々は大量の死を目の当たりにしたことで、生きる喜びを知り互いを好きになった。そして彼らは、集団で結婚し沢山の子を生むのだった。これは病気の蔓延や厄災が去ると共通して起こる現象であった。

ペスト(黒死病)の大流行(1346年~)
ペスト(黒死病)の大流行(1346年~) (引用元を日本語化Flappiefh, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

ポワティエの戦い(1356年)

相次ぐ戦争で、フランス王国の財政は厳しくなっていく。戦いがあるたびに封建領主にお金を払って兵を出してもらっていたからだ。フィリップ6世はブルジョワの商業活動に対し高額の税を課したり、三部会を開き貴族やブルジョワにお金の工面を頼んだりして、何とかしのいでいた。その代わり様々な要求が王に出されたのだった。

その中で、1350年にフランス王フィリップ6世が死去して息子ジャン2世が跡を継いだ。ジャン2世が王に就いた時も財政は依然として厳しく、相変わらず三部会に頼っていた

そのころ、イギリス王太子エドワード(エドワード黒太子)が南フランスで荒らしまわっていた。ジャン2世は討伐に向かうが、1356年、ポワティエの戦いで敗れ、捕虜となってしまうのであった。

この戦いに参加していたフランス王太子シャルル5世(ジャン2世の息子で後にフランス王となる)は、パリに逃げ帰りフランス王ジャン2世の代理を務めることになった。彼は、パリの街に城壁を作らせ、パリは巨大な要塞と化した。

ポワティエの戦いで捕虜となったのは、フランス王以外に沢山の貴族も居た。貴族は、多額の身代金を支払うことで解放されたのだが、その身代金を捻出するために農民に対し多額の税を課し、多くの農民は財産を失ったのである。そして、貴族は出費を抑えるため雇っていた兵士を大量解雇した。解雇された兵士は田園に帰ると盗みや殺人を働き、無一文となった農民から財産を引き出そうと拷問にかけた。このような光景があちこちで見られるのであった。

ブルジョワと貴族の対立

1357年、パリでは三部会が開かれ、フランス国内から数百人の聖職者、貴族、ブルジョワが集まった。その三部会では、王太子シャルル5世に対するお説教的な意志を表明した。全国の代表者で構成される三部会こそが、王国全体の考えを反映しているものであるから、三部会の意志を尊重するよう求めたのだ。その他の要求を幾つか挙げておく。

三部会の要求
  • 三部会が王に上納している戦費の用途が不明瞭であるため、三部会がその収支管理を行なうこと。
  • 通貨の発行は三部会が決定すること。
  • 領主の私的戦争を禁じること。

王太子シャルル5世は、この要求をしぶしぶ合意して署名した。

ところが、シャルル5世は勝手に貨幣を発行してしまうのである。
三部会ブルジョワの代表であり、パリの実質的な市長でもあったエティエンヌ・マルセルは、武装させた部下を引き連れ、シャルル5世の自宅に押し入った。シャルル5世の側近二人を目の前で部下に殺させ、国王代理の座を降りるように迫ったのだ。

シャルル5世はそれを承諾、パリがフランス統治の任を引き受けることが決まったように見えた。ところが、三部会はマルセルと距離を置くようになる。三部会はそれを望んでいなかったのだ。
パリを中心としたブルジョワ市民と、貴族との間で戦争が起ころうとしている最中、農民の蜂起が起きるのである。

ジャックリーの乱(1358年)

農民たちの苦しみは既に限界を超えていた。
かつて、貴族たちが農民に武器を持たせて訓練させようとした試みがあったが、貴族たちは笑って「お人好しのジャック(フランス語でジャック・ボノムJacques bonhomme)」と農民を愚弄した。新米の兵士を「ジャンジャン」と呼ぶのも同じような理由である。そこから農民を侮蔑してジャックと呼ぶようになった。そのため、この反乱をジャックリーの乱と呼ぶのだ。

農民たちの標的は貴族であった。これは、貴族と対立しているマルセルにとって有利に働いた。マルセルは、食料の確保を目的に一旦は農民側に付いた。フランス王位を狙っていたイベリア半島のナヴァール王はフランスを荒らしまわり、パリ周辺の田園の農民を制圧したため、マルセルは次にナヴァール王と組むことにした。ナヴァール王は、過去にフランス王により幽閉され、その後マルセルによって助けられた経緯がある。

パリに運ばれてくるはずの食料は全てフランス王太子シャルル5世に没収されたため、シャルル5世と交渉するようナヴァール王に依頼した。ところが、ナヴァール王はシャルル5世と交渉して戻って来るが、交渉の内容や結果を教えてくれなかったのだ。それに不信感を抱いたマルセルは、ナヴァール王とも対立するようになった。食料はシャルル5世とナヴァール王に抑えられ、マルセルはますます苦しくなっていくのだ。

窮地に陥ったマルセルは、ナヴァール王にパリを委(ゆだ)ねるしか道はないと考えたが、実行に移す直前、1358年側近により暗殺されてしまうのだ。この側近は、シャルル5世側の人間と繋がっていたのだ。

これまでの農民は外敵に対し、命乞いをするだけであった。ジャックリーの乱をきっかけに、武器を手にして自分たちは戦えることを知り、農民の地位は向上していくのである。

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