ウル第3王朝
アッカド王国滅亡後の無政府状態の混乱の中、B.C.2112年にシュメールのウル第3王朝が勢力を拡大しメソポタミアを統一した。
ウル第3王朝を建国したのが、ウルの軍事司令官ウル=ナンムである。
ウル=ナンムは、世界最古の法典であるウル・ナンム法典(シュメール法典)を定め、後のハンムラビ法典に影響を与えたとされる。
ウル第3王朝の滅亡
エラム人(東方)とアムル人(西方)の侵入に悩まされていたが、紀元前2004年、エラムの侵攻により王がエラムに連行され、ウル第3王朝は滅亡した。
ここでシュメール人は歴史の舞台から姿を消すことになる。
また公用語もシュメール語から次第にアッカド語に置き換わり、シュメール語は教養として学校で習う程度となっていった。
アムル人について
セム語系の遊牧民で、元はメソポタミアから見て西方のシリア地方で生活していた。次第にメソポタミア地方へ移動するようになり、ウル第3王朝時代になるとさらに多数のアムル人が侵入してきていた。
ウル第3王朝は、アムル人とエラム人の侵入に対抗するため城壁の建造や遠征を行っていた。
古バビロニア王国
ウル第3王朝滅亡後、メソポタミア各地にいくつもの王朝が建てられ、メソポタミアの覇権争いへと発展した。その中で勢力を拡大したのが、アムル人がバビロンに建てたバビロン第1王朝(古バビロニア王国)である。
そして紀元前18世紀ごろ第6代目の王であるハンムラビ王がメソポタミアを統一した。
ハンムラビ王はハンムラビ法典を制定した。犯罪や農業、商業など生活面にわたる多様な分野に関する条文が含まれていた。「目には目を、歯には歯を」が文言として有名となっている。
古バビロニア王国の滅亡
ハンムラビ王の死後、各地で発生しだした反乱と異民族の侵入により次第に衰退していく。
B.C.1595年、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイトが首都バビロンに攻め込みバビロン第1王朝は滅亡した。
【ヒッタイトと古バビロニア王国】
古バビロニア王国の滅亡までは、オリエント世界の中心はメソポタミアやエジプトであったが、それ以降、周辺地域に列強国が登場し、勃興と滅亡を繰り返しながらオリエント全体に広がっていく。
オリエントとは
エジプト、地中海東側沿岸からインダス川までの地域
補足
いつまでがメソポタミア文明なのか明確な定義はない。
メソポタミア文明はシュメール人が作り上げてきたものだが、そのシュメール人はウル第3王朝の滅亡後にどこかに消えてしまった。だが、シュメール人が作り上げた文明は以降の時代に引き継がれていく。
シュメール人が消えるまでがメソポタミア文明なのかもしれないし、引き継がれていく先の時代までなのかもしれない。そういう意味で明確な定義はない。