メソポタミア文明~古バビロニア王国滅亡

メソポタミア文明~古バビロニア王国滅亡 世界史
メソポタミア文明~古バビロニア王国滅亡

文明の興亡は、自然環境の変化、政治的な力関係の変化、そして人々の思想や価値観の変化など、様々な要因が複雑に絡み合って起こります。メソポタミア文明も例外ではなく、その歴史は栄光と衰退を繰り返すドラマに満ちています。

本稿では、メソポタミア文明におけるウル第3王朝から古バビロニア王国までの興亡を、一つの文明がどのようにして興り、そしてどのようにして衰退していくのかという視点から考察します。ウル第3王朝が築き上げた高度な文明、そしてその後の衰退の原因、そして新たな勢力であるバビロンの台頭とハンムラビ法典の誕生など、文明の興亡のメカニズムを探る上で重要な要素を詳しく解説していきます。

ウル第3王朝の成立(紀元前2112年頃)

アッカド王国滅亡後、メソポタミアはグティ人により支配されていましたが、
安定した中央集権的な国家を築くまでには至りませんでした。
メソポタミアは再び都市国家に分裂し、それぞれが独立して勢力を拡大しようとしました。
この混乱期に、シュメールの都市国家ウルの王ウル・ナンムが徐々に勢力を拡大していきます。
彼は軍事力だけでなく、政治的な手腕も優れており、周辺の都市国家を征服していきました。

ウル・ナンムは、最終的にメソポタミアの大部分を統一し、ウル第3王朝を成立させました。

ウル第3王朝の統治

ウル・ナンムは「ウル・ナンム法典」と呼ばれる法典を制定し、これは現存する最古の法典の一つとされています。
彼の治世下でウル第3王朝は政治的・経済的に繁栄し、公共事業も多く行われました。例えば、神殿やジッグラト(階段状ピラミッド)の建設が進められ、特にウルのジッグラトは有名です。ウル・ナンムの後継者シュルギ王の時代にはさらなる領土拡大が進み、ウル第3王朝は最盛期を迎えました。

ウル第3王朝の滅亡(紀元前2004年頃)

ウル第3王朝は、シュルギ王の治世下で最盛期を迎えましたが、その後徐々に衰退していきます。
周辺の都市国家が独立の動きを見せ始め、内紛も頻発するようになり、
最終的には、エラム人と呼ばれる民族によってウルが陥落、王がエラムに連行されウル第3王朝は滅亡しました。

衰退の要因
  • 気候変動
    メソポタミア地域では、ウル第3王朝時代に気候が乾燥化し、灌漑農業に支えられていた経済に大きな打撃を与えたと考えられています。
  • 周辺勢力の侵攻
    エラム人(東方)とアムル人(西方)の侵入に悩まされ、国家が不安定な状態になりました。
  • 経済の疲弊
    大規模な灌漑事業や宮殿建設など、国家規模のプロジェクトが長期にわたり行われた結果、経済が疲弊し、民衆の不満が高まったと考えられています。
  • 社会構造の変化
    中央集権的な体制が強まり、地方の有力者が不満を抱き、中央政府から離反する動きが起きた可能性も指摘されています。
エラム人とアムル人

滅亡の要因の一つとなった民族がエラム人とアムル人です。

 

  • アムル人
    メソポタミアの西方に居住していた民族で、紀元前3千年紀末から2千年紀初めにかけて、メソポタミアの都市国家に移住または侵入し、
    メソポタミアの文化に溶け込み、時には支配階級として台頭しました。

  • エラム人
    メソポタミアの東方に居住していた民族で、アムル人がメソポタミアに大規模に移住・定住したのに対し、エラム人は主に交易や軍事的な目的でメソポタミアを訪れることが多かったと考えられています。エラム人は、メソポタミアとの交流を深めながらメソポタミアの文化に溶け込むことなく、自らの文化を守り続けました。

古バビロニア王国の成立(紀元前1894年頃)

ウル第3王朝滅亡後、メソポタミア各地にいくつもの王朝が建てられ、メソポタミアの覇権争いへと発展しました。
その中で勢力を拡大したのが、アムル人がバビロンに建てたバビロン第1王朝(古バビロニア王国)です。
バビロンの第6代王ハンムラビは、優れた政治手腕と軍事力により、周辺の都市国家を次々と征服しメソポタミアを統一しました。

ハンムラビは、統一された国家を安定させるために、ハンムラビ法典と呼ばれる法典を制定しました。世界最古の法典の一つとして知られ、その内容の緻密さから、当時の社会の様子を詳しく知ることができます。「目には目を、歯には歯を」で有名な法典です。

古バビロニア王国の滅亡(紀元前1595年)

ハンムラビの死後も、バビロン王朝はしばらくの間安定を保ちますが、やがて周辺勢力の侵攻を受け衰退していきます。
紀元前1595年、ヒッタイトの王ムルシリ1世がメソポタミアへ遠征を行い、バビロンを急襲し、古バビロニア王国は滅亡しました。
ヒッタイト軍はバビロンを占領し、略奪を行った後、すぐに引き揚げています。

古バビロニア王国の滅亡
古バビロニア王国の滅亡

メソポタミア文明について

古バビロニア王国の滅亡までは、オリエント世界の中心は主にメソポタミアとエジプトにありました。しかし、その後、周辺地域に新たな列強国が次々と登場し、勃興と滅亡を繰り返しながらオリエント全体へと影響を広げていきます。

メソポタミア文明については明確な終焉の定義がありません。メソポタミア文明はシュメール人によって築かれましたが、ウル第3王朝の滅亡後、シュメール人そのものは歴史から姿を消しました。しかし、彼らが築いた文明はその後の時代に引き継がれました。そのため、「シュメール人が消えるまでがメソポタミア文明」とする見方もあれば、「その影響が続く時代までを含む」とする見解もあります。これにより、メソポタミア文明の範囲を明確に定義することは難しいとされています。

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