今回は、メルセン条約でフランク王国が分裂した後の動きを追っていきます。
まずは、流れを簡単にまとめておきます。
東フランク王国
-
- 919年、カロリング朝が断絶しザクセン朝が開かれる。(ドイツ王国の成立)
- 951年、ドイツ国王が、イタリア国王を兼任する。
- 962年、オットー1世がローマ教皇から戴冠を受ける。(神聖ローマ帝国の誕生)
- 1004年、ベーメン王国を併合する。
- 1032年、ブルグンド王国を併合する。
西フランク王国
-
- 987年、カロリング朝が断絶しカペー朝が開かれる。(フランス王国の成立)
周辺諸国
-
- ベーメン王国、ハンガリー王国、ポーランド王国の建国。
ここから流れを細かく追っていきます。
メルセン条約締結後の西フランク王国・東フランク王国・イタリア王国
870年のメルセン条約で、西フランク、東フランク、イタリアの国境線が定められた後、カロリング朝は次々と断絶していきます。
このころになると、ノルマン人、マジャール人などの侵入が相次ぎ、カロリンク家の王はうまく対応出来ず、代わりに国境防衛を担った貴族が活躍し、その影響力は次第に大きくなっていきました。
フランク王国の単独統治とブルグンド王国独立
西フランク、東フランクで跡継ぎ無く国王が死去したことで、イタリア王カール3世がすべての国の国王を兼任することになり一時的に単独統治に戻りました。888年、カール3世が死去すると、ブルグンド王国がその機に復活し、独立を果たします。その後、西フランク、東フランク、イタリアの各国で国王が選出され、以降単独統治に戻ることはありません。
ドイツ王国の成立と神聖ローマ帝国の誕生
911年、東フランク王国のカロリング朝が断絶すると、919年にザクセン人のハインリヒ1世が王に選出され、ザクセン朝が開かれました。これをもって、東フランク王国はドイツ王国となります。「ドイツ」の語源はゲルマン語の「大衆」や「民衆」に由来しています。
936年、ハインリヒ1世が死去し、息子オットー1世が王位を継ぎました。
イタリア王国では当時、王位をめぐって激しい争いが発生していました。その中で、950年、毒殺された前イタリア王の妻アデライーデが監禁されオットー1世に助けを求めてきました。オットー1世はイタリアへ出兵し、前イタリア王を毒殺した現イタリア王を打倒しアデライーデを救出しました。951年、オットー1世はイタリア王を兼任することになりました。
955年には、ヨーロッパ中を略奪して回っていたマジャール人に対し大勝利を収め、その名声はさらに高まり、962年、オットー1世は、西ローマ皇帝として戴冠を受け、神聖ローマ帝国が誕生しました。
1004年、ベーメン王国が神聖ローマ帝国に併合されました。
1032年、ブルグンド王国の国王が跡継ぎ無しで死去すると、西ローマ皇帝が次の国王に就き、ブルグンド王国は神聖ローマ帝国に併合され、皇帝は、ドイツ、イタリア、ブルグンドの3国の国王を兼任することになりました。(ベーメン王国は、神聖ローマ帝国に従属する形で組み込まれ、ベーメン国王による自治が認められています。)
フランス王国の成立
987年、西フランク王国でカロリング朝が断絶すると、ノルマン人を撃退して名を上げたユーグ大公の息子ユーグ=カペーが王に選出されました。これをもって、カペー朝が開かれ、西フランク王国はフランス王国となります。
カロリング朝までのフランク王国は分割相続が頻繁に行われていましたが、国家統一の維持を優先し、以降は単独相続が原則となりました。
モラヴィア王国とベーメン王国(ボヘミア王国)
9世紀ごろ、東フランク王国の東の国境線に接する形で存在していたのがモラヴィア王国です。モラヴィア王国はスラブ系民族のチェコ人とモラビア人が東から移動してきて建てた王国で、支配下にスロバキア人が居ました。
900年代初頭にマジャール人により滅ぼされましたが、チェコ人がベーメン王国(ボヘミア王国)を建国し、モラビア人はその配下に入りました。スロバキア人は後にハンガリー王国の支配下に入り、現在のスロバキア共和国につながります。そして、ベーメン王国は現在のチェコとなる王国です。
マジャール人によるハンガリー王国の建国
マジャール人は、900年ごろにパンノニアに侵入し、そこを拠点としてヨーロッパ大陸中を略奪していった民族です。
東フランク王国はマジャール人の討伐を試みたが何度も失敗しています。
955年、東フランクの王オットー1世に大敗北したことをきっかけにパンノニアに落ち着き、1000年にハンガリー王国を建国しました。
ポーランド王国
10世紀後半、神聖ローマ帝国の北東国境付近にポーランド王国が建国され、ピャスト朝が開かれました。(創始者はピャスト家出身)ポーランドの語源は、創始者がポラニェ族であったことから来ています。