内乱の1世紀 ~ 共和政の終焉

同盟市戦争の終結後も、平民派マリウスと閥族派スラの流血を伴う激しい抗争が続きましたが、紀元前86年、70を超える年齢になっていたマリウスは病死します。(当時のスラは52歳)

マリウスの死後、スラは平民派の有力者を次々に処刑していきました。
スラに反抗するものがほとんど居なくなり、紀元前82年にスラはディクタトル (独裁官)に就任しましたが、紀元前78年に病死してしまいました。

内乱の1世紀に起こったマリウスとスラによる権力の独占は、共和政ローマから帝政ローマへ変わるきっかけになったと言えます。

スパルタクスの反乱(紀元前73年~紀元前71年)

征服した属州から大量の奴隷を獲得したローマは、奴隷に農業をさせていました。
ただし、一部の奴隷は剣闘士にされ、ローマ市民の娯楽として提供されていました。
剣闘士同士で戦わされ、命を落とすものが多く、基本的に長生きできません。剣闘士は奴隷の中でも最下層に位置する存在でした。

過酷な状況を脱するため、紀元前73年、剣闘士スパルタクスが主導し反乱を起こしました。
イタリア半島で暴れまわり、略奪を繰り返しましたが、紀元前71年、将軍クラッススにより剣闘士スパルタクスが討ち取られ、反乱は鎮圧されました。
スパルタクスの反乱を鎮めたのはクラッススでしたが、功績を認められませんでした。
残党狩りをしていた将軍ポンペイウスがクラッススよりも先に元老院のもとへ行き、「私が反乱をすべて鎮めました」と報告していたからです。
クラッススの功績が横取りされてしまったのです。当然ですが、二人の仲は険悪になりました。

ここで補足ですが、クラッススとポンペイウスはスラの元部下で閥族派です。
また、ポンペイウスは紀元前64年にセレウコス朝シリアを滅ぼしたことでも有名な人物です。

第1回三頭政治(紀元前60年~紀元前53年)

紀元前60年、コンスル当選を目指す平民派のカエサルは、ポンペイウスおよびクラッススと手を組み、見事当選を果たします。
この三人が主導して行われた政治を第1回三頭政治と呼びます。

三人はお互いの権力や利益を奪い合わないよう密約を交わし、結束していきました。
さらに、カエサルは自分の娘をポンペイウスに嫁がせています。

カエサルはガリア遠征でローマの支配領域を拡大させ、軍人としての名声も大きく高まりました。

一方で、クラッススはカエサルやポンペイウスの軍人としての名声に見劣りを感じていました。
クラッススは、オリエントで勢力を拡大していたパルティアへの遠征を決行しましたが、その遠征で戦死してしまいます。

クラッススが戦死すると、これまで保ってきた三人の微妙な関係が崩れていきました。
また、ポンペイウスに嫁いだカエサルの娘が病死したことで、カエサルとポンペイウスの関係が薄くなっていきます。

ローマはやがて、平民に支持されたカエサル VS 元老院に支持されたポンペイウス という構図となり両者殺し合いの内戦に発展します。この内戦をローマ内戦(紀元前49年~紀元前45年)と言います。
この内戦でローマを制圧したのがカエサルでした。ポンペイウスは国外に逃亡しましたが、逃亡先のエジプトで暗殺されてしまいました。

内戦の勝利により、カエサルは元老院を弱体化させ、紀元前44年に終身独裁官(ディクタトル)に就任し、事実上の独裁政権が誕生しました。
ところが、終身独裁官に就任した直後、元老院の議会場で暗殺されてしまうのです。
暗殺首謀者は、権力の集中により共和政の崩壊に危機感を抱いていた複数の人物たちでした。
暗殺実行者の中に、カエサルが非常にかわいがっていた部下ブルータスが居ました。暗殺される際、言い放った「ブルータス、お前もか」は、有名な言葉として残っています。

第2回三頭政治(紀元前43年~紀元前32年)

カエサル暗殺後、再び有力者3人が主導する政治が行われました。これを第2回三頭政治と言います。
3人の有力者は以下の通りです。

オクタウィアヌス カエサルの遺言状で後継者として指名された人物
アントニウス   カエサルの元部下
レピドゥス    カエサルの元部下

ただ、この3人は仲良しではなく、権力争いのライバル同士でした。お互いに妥協しあって結成されたのが第2回三頭政治です。

第1回三頭政治は3人の間で密約を交わすことで成立していたため、3人が協力していることは誰も知りませんでした。「三頭政治」と呼ばれるようになったのは後年のことになります。
第2回三頭政治は3人の間で公式に取り決めを行っていたため、このころから「三頭政治」と呼ばれるようになります。

第1回、第2回ともに目的は、元老院の権力を弱体化して、権力を握ることにありました。

元老院の議員たちは権力の集中を嫌います。第2回三頭政治が始まって真っ先に行われたことは、元老院派の有力者の殺害でした。カエサルを暗殺した首謀者も暗殺されています。(このときにブルータスが暗殺されています)

この後、3人の協力体制は突然崩壊することになります。

紀元前36年、レピドゥスはオクタウィアヌスの打倒を図って失敗したため、全ての役職をはく奪されローマ郊外に追放されてしまいます。

アントニウスはパルティア遠征のため、プトレマイオス朝エジプトに長期滞在していました。あろうことかアントニウスは女王クレオパトラに魅了され、ローマの属州の一部を分け与えてしまいます。
それを聞きつけたオクタウィアヌスは激怒し、エジプトに対し宣戦布告しました。
紀元前31年、オクタウィアヌス率いるローマ軍とアントニウス・クレオパトラ率いるエジプト軍がアクティウム沖で激突します(アクティウムの海戦)。結果はローマ軍の勝利となり、アントニウスとクレオパトラはエジプトへ逃げ帰り自殺してしまいました。(プトレマイオス朝エジプトの滅亡)

共和政の終焉と帝政の始まり

紀元前29年、元老院は、オクタウィアヌスにプリンケプス市民の第一人者)の称号を与えました。オクタウィアヌスは独裁者は暗殺のターゲットにされやすいということを知っていました。そのため、自らを「市民の第一人者」とし独裁者ではないことをアピールしたかったようです。

紀元前27年、元老院は、オクタウィアヌスにアウグストゥス尊厳者)の称号を与えました。アウグストゥスは多くの職位を兼任できる人物に対し与えられる称号です。

これにより、オクタウィアヌスは初代ローマ皇帝となり、共和政から帝政へと移行することになります。

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