イタリア半島の統一
ローマが共和政に移行して平民の発言力が強くなりました。平民は重装歩兵として軍の主力となる存在だったからです。
ギリシャ世界の平民もポリスが発展していくにつれ、発言力が強くなりました。それと全く同じことがローマでも起きたのです。
重装歩兵であった平民の発言力が増したということは、ローマも戦争を沢山やっていたということが推測できます。
事実、共和政への過渡期でローマも周辺諸国に対し積極的に征服活動をしていたのです。
この征服活動の過程で、ローマを起点として軍の移動をスムーズに行えるように道路の整備をイタリア半島全域に行いました。「すべての道はローマに通ず」というフレーズはここから生まれました。
その中で有名なのが、イタリア半島南部に設けたアッピア街道です。このアッピア街道、当初はローマからカプアまでしか繋がっていませんでしたが、南方へ征服活動を強化するため、後にタレントゥムまで延長されました。
そして、紀元前272年、ギリシア人植民市タレントゥムを陥落させたことでローマはイタリア半島全域を支配領域としたのです。
【紀元前264年のローマの支配領域(第一次ポエニ戦争前)】
ポエニ戦争
ローマはイタリア半島を征服した後、その征服欲はさら大きくなっていきます。
次のターゲットとなったのは、地中海全域で交易の覇権を握っていたフェニキア人でした。
フェニキア人は地中海沿岸に多くの植民市を建てていましたが、そのなかで中心となっていたのがカルタゴです。
補足ですが、ポエニという言葉はローマがフェニキア人をポエニと呼んでいたことから来ています。
第一次ポエニ戦争(紀元前264年~紀元前241年)
ポエニ戦争の発端となったのは、シチリア島でのローマとカルタゴの軍事衝突でした。
一時は大きな優勢を保っていたカルタゴでしたが、油断だったのでしょうか、ローマ軍が撤退していくのを見て勝利を確信したカルタゴは軍を縮小してしまいます。
ローマはその隙を見て攻撃を仕掛けます。結果、カルタゴは降伏しローマの勝利に終わりました。
そしてさらに、勝利したローマはカルタゴに対し、戦争の賠償としてサルディニア島とコルシカ島の支配権を要求します。
カルタゴはこの要求を受け入れ、シチリア島を含めたサルディニア島とコルシカ島の支配権を失うことになりました。
【第一次ポエニ戦争後のローマ支配領域】
第二次ポエニ戦争(紀元前219年~紀元前201年)
カルタゴにとってシチリア島を失ったことは大きな痛手となりました。
そこでカルタゴは、この大きな損失をどこかで補おうと考えた結果、イベリア半島へ領土を拡大することになりました。
イベリア半島の征服活動は順調で、そんな中、ローマへのリベンジの機会をうかがっていました。
そしてついに、将軍ハンニバル率いるカルタゴ軍はローマへ向けて進軍します。この進軍には30~40頭ほどの象を引き連れていたそうです。
進軍経路は以下の図を参照してください。ハンニバルは厳しいアルプス山脈超えを選択しました。このアルプス山脈越えで3割以上の兵士を失い、象にいたっては数頭しか生き残れなかったそうです。
【ハンニバルの進軍経路】
ローマからすると、まさかアルプス山脈を越えて敵が襲ってくるとは考えていませんでした。ハンニバルの作戦は、ローマにとって奇襲だったのです。
カルタゴ軍はイタリア半島に入って進軍を続け、次々と都市を陥落させていきます。
陥落させた都市の住民を捕虜にしていくのですが、その捕虜に対して寛容な態度をとっていました。それは、ローマに対して離反してもらうことが狙いだったそうです。
快進撃を続けるカルタゴ軍でしたが、次第に敵地での補給が困難となり、ローマに攻め込む余力が残っていなかったため、泣く泣くローマを素通りして南部へ攻め込むとこに。
紀元前216年、カンネーでローマ軍とカルタゴ軍が激突します。ハンニバルの見事な采配によりカルタゴ軍が勝利しました。(カンネーの戦い)
カルタゴ軍が進軍するにつれ、カルタゴの快進撃を聞きつけて離反する都市がぽつぽつと出始めましたが、ローマの結束は固く、それ以上離反する都市は出てきませんでした。
余談ですが、離反した都市の中にシラクサが含まれていました。当然、ローマは鎮圧に向かいます。そして陥落に成功するのですが、この際、著名な数学者アルキメデスがローマ兵により殺されています。ここでアルキメデスが殺されていなかったら、私たちが生きている今の時代はもっと発展していたかもしれませんね。
一方、ローマはカルタゴ軍との戦いを無理せず持久戦に持ち込みました。その間にハンニバルの本拠地であるカルタゴ=ノヴァを攻め落とします。
さらにローマは敵の本拠地であるカルタゴへ乗り込みます。ハンニバルは急遽、カルタゴへ向かいザマでローマ軍と戦いになりますが(ザマの戦い)、ローマ軍が勝利し、これをもって第二次ポエニ戦争は終結しました。
この戦争により、カルタゴの領土は縮小し、ローマの領土は拡大しました。
カルタゴは北アフリカ沿岸のほぼすべての領土を放棄させられ、また、ローマの承認なしに他国と戦争できないよう条約が交わされました。
【第二次ポエニ戦争後の勢力図】
第三次ポエニ戦争(紀元前149年~紀元前146年)
カルタゴは第二次ポエニ戦争の敗北で力が大幅に小さくなりました。ただ、カルタゴにはこれまで培ってきた交易という術(すべ)がありました。この後、少しずつ復興していくのです。
そして、ローマは徐々に力を付けてきたカルタゴに対し危機感を覚え始めます。
そんな折、元々カルタゴ領だった北アフリカ沿岸のヌミディア王国がカルタゴに侵入したのをきっかけとして、軍事衝突が発生しました。
ローマは、条約を破って勝手に戦争をしたカルタゴを許しませんでした。これをきっかけに第三次ポエニ戦争が始まったのです。
結果はローマの圧勝に終わり、町は破壊され、カルタゴは滅亡しました。