ピピンの寄進後、フランク王国の領土はさらに拡大します。
そして、ピピンの子カールは、カールの戴冠により西ローマ皇帝となり、東のビザンツ帝国と対をなす西ヨーロッパ世界の基礎を作り上げていきます。
今回は、フランク王国にフォーカスしてピピンの寄進後からフランク王国の分裂までの流れを追っていきます。
フランク王国の領土拡大
ピピンの寄進後の759年、ピピンはガリア南部の領土を後ウマイヤ朝から奪うことに成功しました。その後、768年に亡くなると、二人の息子カールとカールマンが跡を継ぎ、分割統治が始まりました。二人の息子は仲が悪く、母親が仲を取り持って何とか内戦とならないようにしていましたが、771年、カールマンの突然の死去によりフランク王国は再び単独の国王による統治に戻りました。なお、カールマンの死因は不明とされています。
国王となったカールは、領土拡大に意欲的でした。
カールマンの妻とその子供は、ランゴバルド王国へ亡命していたため、カールは手始めにランゴバルド王国の討伐に着手しました。
そして、774年、ランゴバルド王国を滅ぼしました。
さらにカールは、東のアヴァール人、北のザクセン人に攻撃をしかけ、領土を広げました。このようにして、カールはフランク王国の最盛期を築き上げました。
スペイン辺境領
領土を拡大したフランク王国ですが、後ウマイヤ朝の侵入に悩まされていました。そこでカールは、後ウマイヤ朝と接している国境付近に国内の人を移住させ、防衛の任に就かせました。このような国境防衛のための地域を辺境領といい、管轄するトップの人に辺境伯と呼ばれる地位が与えられました。
カールの戴冠
800年、サン=ピエトロ大聖堂にて、カールはローマ教皇レオ3世から西ローマ皇帝としての戴冠を受けました。西ローマ皇帝の復活です。ローマ=カトリック教会は、東のコンスタンティノープル教会およびビザンツ帝国に対抗するため、西ローマ皇帝を作り上げたのです。
これをきっかけにして、カールはカール大帝と呼ばれるようになりました。
このようにカールの戴冠によって、ゲルマン人とカトリックによる西ヨーロッパ世界が確立しました。
カロリング=ルネサンス
戦争に明け暮れていたカール大帝ですが、文化面でも大きな功績を残しています。
ビザンツ帝国がギリシア化していく中、カール大帝はローマ文化の保護に力を入れていました。
各地に学校が開かれ、古典やラテン語の教育が盛んに行われました。また、イギリスから招かれた神学者アルクインは、文化活動の中心人物となりました。
このように、カロリング朝における古典文化の復興活動をカロリング=ルネサンスといいます。
ヴェルダン条約によるフランク王国の分裂
814年、カール大帝が死去すると、ルートヴィヒ1世が跡を継ぎました。ルートヴィヒ1世には3人の息子が居ましたが、早い段階から領土をめぐって争っていました。
840年にルートヴィヒ1世が死去すると、息子たちの間で戦争となり、フランク王国は内戦状態となりました。
843年、戦争が終結し和平が結ばれるとともに、ヴェルダン条約で領土の分割が取り決められました。そして、フランク王国は東フランク王国、西フランク王国、中フランク王国の3王国に分裂しました。
メルセン条約
中フランク王国では、国王の死没後、三人の息子で領土をさらに分割することになり、ロタリンギア王国、プロヴァンス王国、イタリア王国の3国が成立しました。
ところが、ロタリンギア王国、プロヴァンス王国の国王が跡継ぎを残さず死去していました。国王の居ない空白の領土が出来あがりました。
870年、東フランク王国、西フランク王国、イタリア王国の間でメルセン条約を締結し、空いた領土を3国で分け合いました。メルセン条約で定めた国境線が、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型となります。