ヨーロッパ、中東、北アフリカ―これらの地域の関係は、現代でも世界政治の重要な軸の一つとなっています。実は、この三つの地域の関係性は、はるか7世紀まで遡ることができます。当時、東ローマ帝国(後のビザンツ帝国)、新興のイスラム帝国、そしてゲルマン人国家群という三つの勢力が、地中海世界の覇権を巡って激しい争いを繰り広げていました。今回はこの時代の動きを、詳しく見ていきます。
ユスティニアヌス1世の死後
ユスティニアヌス1世は、かつてのローマ帝国の栄光を取り戻すべく、大規模な領土回復政策を実施しました。地中海沿岸部の大半を征服し、「最後のローマ皇帝」として名を残しています。その死後、帝国は大きな転換期を迎えることになります。
ランゴバルド族の台頭とイタリア半島の新秩序
ランゴバルド王国の建国
ランゴバルド族は、もともとエルベ川流域に居住していたゲルマン系の部族でした。5世紀以降、徐々に南下を始め、6世紀前半にはパンノニア(現在のハンガリー周辺)に定住していました。彼らの名前の由来は「長い髭」を意味する古ゲルマン語に遡ります。
彼らは、東ローマ帝国の同盟者として東ゴート族との戦いに参加していました。この過程で、イタリアの豊かな土地と文化に魅了されたのです。
568年、ランゴバルド族はアルボイン王の指揮下でイタリア半島に侵入します。居住していたパンノニアは度重なる戦争で荒廃していました。そのため、より豊かな土地を求めてイタリアへの侵攻を決意したのです。
彼らは短期間でイタリア北部を制圧し、パヴィアを首都として建国を宣言します。その後、中部イタリアへも勢力を拡大していきました。ランゴバルド王国の成立により、イタリア半島は東ローマ帝国の支配から実質的に離れることになります。
イタリアでの発展
その後、王国は独自の統治体制を整備していきます。全土を36の公(ドゥカ)が分担して治める分権的な統治システムを確立し、これが王国の政治的特徴となりました。文化面では、征服者であるにもかかわらず、むしろローマ文化の影響を強く受け、次第に現地文化との融合を深めていきます。
宗教的には、当初はゲルマン諸族に多く見られたアリウス派キリスト教を信仰していましたが、7世紀末までには正統なカトリックへと改宗を果たしました。
社会構造の特徴
ランゴバルド王国の社会構造は、他のゲルマン人国家と同様、複雑な様相を呈していました。支配者層として君臨するゲルマン人と、被支配者層となったローマ系住民という二重構造が基本となっていました。
軍事面では、自由人に対する武装義務を基礎とした独自の制度を発展させ、これが王国の軍事力の源泉となりました。さらに、643年に編纂されたロタリ王法典に代表される成文法の整備を進め、ゲルマンの慣習法とローマ法を融合させた新たな法体系を築き上げていきました。
東ローマ帝国からビザンツ帝国へ
ギリシア化の進展
東ローマ帝国は、7世紀に入ると大きな文化的転換を遂げます。最も顕著な変化は言語面に表れました。建国以来、公用語であったラテン語に代わり、ギリシア語が正式な公用語となったのです。
この変化は突然に起きたわけではありません。東西分裂以降、帝国東部ではギリシア語を日常語とする住民が多数を占めていました。行政や軍事においてもギリシア語の使用が一般的になっていきます。
ビザンツ文化の形成
言語だけでなく、文化面でも大きな変容が進みました。伝統的なローマ文化とヘレニズム文化が融合し、独自の様式が生まれます。これが後に「ビザンツ様式」と呼ばれるものです。建築、美術、文学など、あらゆる分野でこの新しい文化的特徴が表れました。
「ビザンツ帝国」という呼称
このような変化を経た帝国は、「東ローマ帝国」から「ビザンツ帝国」と呼ばれるようになります。この呼称の使用開始時期については、歴史学界でも見解が分かれています。395年の東西分裂時とする説、476年の西ローマ帝国滅亡時とする説、7世紀の文化的転換期とする説などがあります。
一方で、西方のゲルマン諸国は、征服者でありながらローマ文化を継承する立場をとりました。特に行政制度や法体系においては、ローマの伝統を重視しました。
帝国の衰退:新興勢力との対峙
イスラム帝国の脅威
7世紀、新たな強国が中東に出現します。イスラム教を奉じるアラビア半島の統一国家、イスラム帝国です。彼らは急速に勢力を拡大し、ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの領土に進出しました。
ビザンツ帝国は、シリア、パレスチナ、エジプトなど、重要な東方属州を失います。これらの地域は、穀倉地帯として、また交易の要衝として帝国経済を支えていました。その喪失は、帝国の国力に大きな打撃を与えました。
ブルガリアの台頭
7世紀後半、バルカン半島では新たな危機が発生します。黒海北方から南下してきたブルガール人が、この地域に定住を始めたのです。彼らはビザンツ帝国の支配に挑戦し、バルカン半島の大部分を征服しました。
西ゴート王国の最期とイスラム勢力の西進
ウマイヤ朝による征服
661年、イスラム帝国はウマイヤ朝として新たな段階に入ります。彼らは北アフリカを征服した後、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に侵攻しました。711年、西ゴート王国は滅亡し、イベリア半島の大半がイスラム支配下に入ります。
トゥール・ポワティエ間の戦い
ウマイヤ朝の勢いは止まりません。イベリア半島を制圧した後、ピレネー山脈を越えてフランク王国へと侵攻を開始します。この危機に対し、フランク王国の実質的支配者であった宮宰カール=マルテルが立ち上がります。
732年、トゥールとポワティエの間で行われた決戦で、カール=マルテルはイスラム軍を撃退することに成功します。この勝利により、イスラム勢力のヨーロッパ深部への進出は阻止されました。