今回も引き続きゲルマン人国家と東ローマ帝国の動きを追っていきます。
東ローマ帝国のユスティニアヌス1世が、ローマ帝国復興をかけてゲルマン人から領土を奪い返しました。その後のお話をしていきたいと思います。
要点は以下の3点。
- 東ローマ帝国の領土縮小
- 西ゴート族の滅亡
- イスラム帝国の強大化
ランゴバルド王国の成立
- ランゴバルド族は、東ローマ帝国と同盟を結び東ゴート王国と戦争をする中で、イタリアの豊かさを知った。
- また、同盟の見返りに得たパンノニアは、戦争の影響で荒廃していた。
このような理由で、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の死後、ランゴバルド族はイタリアへ向けて侵攻を開始しました。
568年、イタリア北部を占領し、ランゴバルド王国を建国しました。その後も領土を広げ、イタリア中部まで拡大しました。
東ローマ帝国のギリシア化
ローマ帝国の公用語はラテン語でしたが、東西分裂以降、東ローマ帝国でラテン語を話す人が減少し、ギリシア語を話す人が次第に増えていきました。7世紀頃になると、東ローマ帝国の公用語はラテン語からギリシア語に正式に切り替えられました。
また、ローマ文化もギリシア文化とすこしづつ融合し、新たなビザンツ様式の文化へと移行しつつありました。
このように変貌した東ローマ帝国を「東ローマ帝国」と呼ばずに、「ビザンツ帝国」と呼ばれるようになります。
補足ですが、ローマ文化を受け継いだ西側のゲルマン人達は、ローマ文化を大事に守っていきます。
ビザンツ帝国の領土縮小
ユスティニアヌス1世により領土を拡大したビザンツ帝国でしたが、その後、縮小に転じます。
領土を奪ったのは、イスラム帝国とブルガリア帝国です。
イスラム帝国
アラビア半島全域を支配下に置き勢力を拡大していたイスラム帝国は、7世紀前半から半ばにかけてササン朝ペルシアとビザンツ帝国への攻撃を開始しました。
その結果、ビザンツ帝国はシリア地方、エジプトからカルタゴまでの領土をイスラム帝国に奪われてしまいました。
ササン朝ペルシアもメソポタミア地方とその西方の領土を奪われています。
ブルガリア帝国(ブルガール人)
黒海の北部沿岸に居たブルガール人が、7世紀後半、ビザンツ帝国領のバルカン半島に南下してきました。
戦争の末、ビザンツ帝国は敗北し、バルカン半島の大半の領土を失いました。
西ゴート王国の滅亡
ビザンツ帝国が縮小していくなか、ゲルマン諸国にも大きな動きがありました。
勢いを増していくイスラム帝国は、661年にウマイヤ朝が成立します。
ウマイヤ朝は、アフリカ大陸北部を手中に治めると、海を渡りイベリア半島の侵攻を開始しました。
711年、西ゴート王国は、ウマイヤ朝によって滅亡しました。
トゥール・ポワティエ間の戦い
ウマイヤ朝は、西ゴート王国を滅ぼすと、さらに進軍をすすめ、フランク王国領内に到達しました。
それに対し、フランク王国の宮宰カール=マルテルは、トゥールとポワティエの間で迎え撃ち、ウマイヤ朝を追い返しました。
この戦いをトゥール・ポワティエ間の戦いと言います。
宮宰とは、宮廷で仕事をしている人達をまとめあげるトップの職です。
以下、ここまでのヨーロッパの勢力図です。