アレクサンドロスの東方遠征 ~ ヘレニズム3国

紀元前4世紀、ギリシア世界の片隅に過ぎなかったマケドニア王国から、若き天才アレクサンドロス大王が歴史の舞台に登場しました。わずか20歳で王位を継ぎ、わずか10年足らずの間に、ヨーロッパからアジア、そしてインドに至る広大な領域を征服した彼は、軍事的天才として知られるだけでなく、文化交流の基盤を築いた偉大な指導者でもあります。

アレクサンドロスが行った東方遠征は、単なる領土の拡張ではなく、ギリシアとオリエントという異なる文化の融合を促進する歴史的な出来事でした。彼が征服した土地には新しい都市が建設され、多くが「アレクサンドリア」と名付けられました。これらの都市は、後にヘレニズム文化と呼ばれる独自の文化圏を形成し、学問、芸術、科学、哲学など、多岐にわたる分野で新たな発展を遂げる拠点となります。

アレクサンドロスの死後、彼が築いた巨大な帝国は分裂しましたが、その遺産はローマ帝国やイスラム世界に引き継がれました。彼の東方遠征が生み出した東西交流の流れは、現代にまでその影響を及ぼしています。この記事では、アレクサンドロス大王の東方遠征と、その後に続くヘレニズム時代の歴史を追っていきます。

マケドニア王国の台頭とアレクサンドロスの即位

紀元前4世紀、マケドニア王国はギリシアの北部に位置する小国でした。しかし、フィリッポス2世が王位に就くと、国の軍事力と政治力は飛躍的に向上しました。フィリッポス2世はギリシア諸都市国家を統一し、紀元前338年にはカイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍を打ち破ります。この勝利を受けてギリシア諸国を結束させたコリントス同盟が結成され、マケドニアはギリシア全土の覇権を確立しました。

フィリッポス2世はその後、アケメネス朝ペルシアへの遠征を計画しましたが、紀元前336年、暗殺によりその夢は断たれます。後を継いだのは息子のアレクサンドロスで、当時20歳の若さでした。幼少期から哲学者アリストテレスの教育を受けた彼は、ギリシア文化への深い理解と実践的な軍事技術を兼ね備えていました。

東方遠征の開始

紀元前334年、アレクサンドロスは父の計画を引き継ぎ、ペルシア帝国への遠征を開始します。この遠征には、マケドニア軍に加え、コリントス同盟の軍勢が参加していました。目的は、ペルシアの領土を征服することと、ギリシア文化をオリエントに広めることでした。

グラニコス川の戦い

最初の戦闘は小アジア北西部に位置するグラニコス川で行われました。ペルシアの地方総督たちとの戦いに勝利したアレクサンドロスは、小アジアの支配を固めます。この勝利により、現地の多くの都市がアレクサンドロスに従属しました。

イッソスの戦いとシリアの征服

紀元前333年、現在のトルコ南部にあたるイッソスでアレクサンドロス軍はペルシアのダレイオス3世率いる本軍と戦います。アレクサンドロスの優れた戦術により、ペルシア軍は敗走し、ダレイオス3世は戦場から逃亡しました。この戦いにより、シリア地方がアレクサンドロスの支配下に入りました。

エジプトの征服とアレクサンドリア建設

その後、アレクサンドロスはエジプトへ向かいます。ペルシアの支配下にあったエジプトは彼を歓迎し、無血での征服が実現しました。紀元前331年にはナイル川デルタ地帯に新しい都市「アレクサンドリア」を建設し、この都市は後にヘレニズム文化の中心地として発展します。

ガウガメラの戦いとペルシア帝国の滅亡

紀元前331年、アレクサンドロスはペルシア本土へ進軍し、ガウガメラでペルシア軍との決戦に臨みます。圧倒的な戦術で勝利した彼は、アケメネス朝ペルシアを滅亡させました。この後、アレクサンドロスは「アジアの王」として、広大な領土を支配することになります。

アレクサンドロス大王の東方遠征の経路

アレクサンドロス大王の東方遠征の経路

東方遠征の終焉とアレクサンドロスの死

アレクサンドロスはさらに東へ進軍し、インダス川流域まで到達しますが、長期間の遠征に疲れた部下たちの反対により、それ以上の進軍を断念しました。紀元前324年にバビロンへ帰還しましたが、翌年、熱病にかかり32歳で病死しました。彼はバビロンを新たな首都とする計画を持っていましたが、それが実現することはありませんでした。

ヘレニズム時代と後継者たちの争い

アレクサンドロスの東方遠征により、ギリシア文化はオリエント文化と融合し、ヘレニズム文化が誕生しました。この文化は、哲学や科学、建築、宗教の分野で新たな潮流を生み出した。ギリシア語が広く使われ、知識人の共通語としての役割を果たしました。
アレクサンドロスの死後、帝国は後継者問題に直面しました。彼の子は幼く、統治を引き継ぐ力がなかったため、配下の将軍たちが領土を分割し、争いを繰り広げました。この争いをディアドコイ戦争(後継者戦争)と呼びます。最終的に帝国は以下の3つの主要な王国に分裂しました。

アンティゴノス朝マケドニア

ギリシア本土を支配したアンティゴノス朝マケドニアは、首都をペラに置きました。紀元前168年、ローマ帝国との戦争に敗れて滅亡しました。

セレウコス朝シリア

セレウコス朝シリアは、広大なオリエント地域を支配しました。首都アンティオキアを中心にしたこの王国は、紀元前250年頃に東方のバクトリアやパルティアが独立することで勢力を縮小しました。紀元前64年にローマの支配下に入りました。

プトレマイオス朝エジプト

プトレマイオス朝エジプトは、アレクサンドリアを中心に統治されました。ここでは学問と文化が花開き、アレクサンドリア図書館やムセイオンが設立されました。最後の女王クレオパトラ7世の死をもって、紀元前30年にローマへ吸収されました。

ヘレニズム3国の支配領域

ヘレニズム3国の支配領域

東西交流の拠点としてのバクトリアとパルティア

バクトリア王国

バクトリアはギリシア人によって建国され、中央アジアにおけるギリシア文化の拠点となりました。紀元前130年代にはスキタイ系遊牧民のトハラにより滅亡しましたが、その後は大月氏やクシャーナ朝の支配下で繁栄しました。シルクロードを通じた東西交流の中継地としても重要な役割を果たしました。

パルティア王国

パルティアはイラン高原に成立し、首都ヘカトンピュロスを拠点にしました。交易を通じて大きな富を得ると同時に、ローマ帝国との戦争でも知られるようになりました。この王国はサーサーン朝ペルシアに引き継がれるまで、中東地域の重要な勢力として存続しました。

以下にバクトリア、パルティア分裂後の勢力図を時代を追って掲載しておきます。

パルティア・バクトリア独立後(紀元前3世紀半ば)

パルティア・バクトリア独立後(紀元前3世紀半ば)

ヘレニズム時代<紀元前2世紀後半の勢力図>

ヘレニズム時代<紀元前2世紀後半の勢力図>

ヘレニズム時代<2世紀半ばの勢力図>

ヘレニズム時代<2世紀半ばの勢力図>

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