【フランス王国の歴史】ブレティニー条約と教会大分裂

ヴェルサイユ庭園 世界史
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フランス王ジャン2世は、ポワティエの戦いでイングランド軍に捉えられ捕虜となり、息子の王太子シャルル5世が国王代理を務めた。
三部会ブルジョワ代表のマルセルによりパリは乗っ取られ、王太子シャルル5世はパリから脱出した。
同時期に農民によるジャックリーの乱が起こり、パリは混乱を極めた。

パリの混乱の中、イングランドとナヴァールがフランスじゅうを荒らしまわり、パリへの食料補給が途絶え、追い込まれたマルセルはパリをナヴァールに明け渡そうとするが、その直前で暗殺された。

今回は、この続きから流れを追っていきます。

ブレティニー条約

マルセル暗殺後、フランス王太子シャルル5世はパリに入城するが、食糧事情はあまり変わらなかった。パリ周辺を含むフランス国内では、依然としてイングランドやナヴァールが荒らしまわっていて、農作業をできる状況では無かった。ナヴァールはイングランドを脅威と感じて、王太子と和解した。

イングランドに捉えられ捕虜となっていたジャン2世は、多額の身代金を払うと約束して解放してもらおうとするが、王太子シャルル5世は三部会に拒絶され身代金を用意することが出来なかった。

イングランド王エドワード3世は、身代金を受け取れないのであれば、フランスを滅ぼして征服してしまおうと考えた。

1359年、エドワード3世はフランスに上陸した。パリに向かったが、道中の田園は荒廃していたため食料を得られず、さらに悪天候もあって、彼らの忍耐は限界に達した。
1360年、エドワード3世は、王太子シャルル5世に和議を申し入れた。エドワード3世の要求は、フランス全部であったが、さすがに王太子はこれを拒否した。

協議の結果、ギュイエンヌ、カレー、ガスコーニュ、ポワトゥー等がイングランドへ譲渡された。(ブレティニー条約

フランス王ジャン2世は、身代金を6年間の分割払いで支払うことを約束して解放された。(この支払いの領収書は現在でも残っている)

ジャン2世は、1364年に死去し、その跡をシャルル5世が継いだ。

ブレティニー条約(1360年)
ブレティニー条約(1360年) 薄いピンクの領土がイングランドに譲渡された
引用元を日本語化Traité_de_Bretigny.svg: User:Cyberproutderivative work: Rowanwindwhistler, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

ブルターニュ継承戦争の終結

ブルターニュの相続権をめぐる戦いは続いていたが、シャルル5世が王位に就いた翌年に決着が就いた。
ブルターニュ継承戦争の背景は「ブルターニュ継承戦争」を参照。

1365年、フランス王シャルル5世はジャンヌの夫シャルル・ド・ブロワを支援するため兵士を送り、一方のイングランドのエドワード黒太子はモンフォールに兵士を送った。ブリュターニュのオーレで両軍が激突し、シャルル・ド・ブロワが戦死したため、モンフォールが勝利した。夫が戦死したためジャンヌは相続権を放棄し、モンフォールの息子ジャン4世がブリュターニュを相続した。

百年戦争の小休止

フランス王シャルル5世は、1360年に締結したブレティニー条約の条文から誤りを見つけてイングランドに奪われた領土を取り戻せないか画策していた。

シャルル5世はアキテーヌを取り戻すことに成功すると、周辺の領土もイングランド人を追放して次々とフランス王のもとに下(くだ)った。フランス国内にイングランドが保有する領土はカレー、ボルドー、バイヨンヌだけとなった。
そして、ナヴァール、スコットランド、フランドル、カスティーリャを味方に付け、イングランドの孤立化に成功した。

フランス国内では、イングランド軍を解雇された兵士が食い物を得るため略奪行為を繰り広げていた。これらの兵士を追い出すため、彼らを雇い、当時発生していたカスティーリャ王国の内紛を収めるため出兵させた(費用はアヴィニョンの教皇が出した)。

一方、イングランドのエドワード黒太子は、病気にかかりロンドンに居た。彼はもはや自分が次の王位に就くことは考えていなかった。自分の息子リチャード2世を王位に就かせるつもりでいた。

イングランドは、数々の戦争を仕掛けたにも関わらず、得たものはほとんどなかったのだ。老いたイングランド王エドワード3世はイングランド国内から攻撃の的となり、1376年エドワード黒太子が病気で死去すると、翌年1377年エドワード3世も死去した。

イングランド王位にリチャード2世が就き、以降、しばらくの間、イングランドとフランスとの間で大きな戦争は発生しない。

教会大分裂(1378年ー1417年)

1309年からアヴィニョンに移動した教皇であったが(アヴィニョン捕囚)、1377年にはローマに戻ることを許された。

1378年、フランスにとって有利となるように与(くみ)してくれると期待されるウルバヌス6世が教皇に選出された。

ところが、ウルバヌス6世はフランスを裏切った。フランスは、再度選出をやり直させクレメンス7世を選出したのだ。

クレメンス7世はアヴィニョンに移動し、ローマのウルバヌス6世と対立した。
このようにして、二人の教皇がアヴィニョンとローマに並び立つのである。

ドイツ、イタリア、ハンガリー、イングランドはローマのウルバヌス6世を支持、フランス、ナポリ、シチリア、スコットランドはアヴィニョンのクレメンス7世を支持した。

その中、1380年シャルル5世は死去しシャルル6世が跡を継いだ。

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