14世紀後半のヨーロッパは百年戦争の渦中のなか、1364年に即位したフランス王シャルル5世は、「賢王」と呼ばれ、混乱の続くフランスの再建に尽力します。彼の時代は、ブレティニー条約によってイングランドに奪われた領土の回復、長年の課題であったブルターニュ継承戦争の解決、そして教会大分裂という新たな危機の始まりなど、重要な出来事が相次ぎました。
特筆すべきは、シャルル5世の外交手腕です。イングランドを外交的に孤立させることに成功し、失われた領土の多くを取り戻すことができました。また、国内の治安問題にも巧みに対処し、解雇された傭兵たちを国外に派遣することで平和の維持を図りました。
しかし、この時期は教会の権威にも大きな転換が訪れます。アヴィニョン捕囚から解放された教皇庁でしたが、新たな教皇選出を巡る混乱から教会大分裂が始まり、ヨーロッパは再び深刻な対立に直面することになります。
それでは、この時代の具体的な出来事を見ていきます。
ブレティニー条約(1360年)
パリの混乱と内政危機
パリの有力市民マルセルが暗殺された後、フランス王太子シャルル5世はパリに入城することができましたが、市民の生活状況は依然として厳しいものでした。特に食糧事情は深刻で、その理由は明確でした。イングランド軍とナヴァール軍が国内を荒らし回っていたため、農民たちは安全に農作業を行うことができなかったのです。
この状況下で、ナヴァール王シャルル2世は、イングランドの軍事力に対して強い警戒感を抱くようになりました。そのため、フランス王太子シャルル5世との和解を選択することになります。
一方、イングランドの捕虜となっていたフランス王ジャン2世は、莫大な身代金と引き換えに解放されることを望みました。しかし、王太子シャルル5世が三部会(聖職者、貴族、平民の代表者による会議)に相談したところ、この提案は却下されてしまいました。国庫が逼迫していたためです。
イングランドとの戦いと交渉
この事態を受けて、イングランド王エドワード3世は方針を変更します。身代金が得られないのであれば、フランスを完全に征服してしまおうと考えたのです。1359年、エドワード3世は大軍を率いてフランスに上陸しました。パリへの進軍を開始しましたが、予想外の困難に直面します。行軍途中の農村地帯は既に荒廃しており、軍の食料調達が極めて困難でした。さらに、悪天候も重なり、軍の士気は著しく低下していきました。
1360年になると、状況を見切ったエドワード3世は、王太子シャルル5世に和平交渉を持ちかけました。当初、エドワード3世はフランス全土の割譲を要求するという強硬な姿勢を示しましたが、さすがにシャルル5世はこれを即座に拒否しました。
条約の内容
両者の激しい交渉の末、最終的に「ブレティニー条約」が締結されることになります。この条約により、ギュイエンヌ、カレー、ガスコーニュ、ポワトゥーなどの重要な領土がイングランドに割譲されることになりました。
捕虜となっていたフランス王ジャン2世については、6年間の分割払いによる身代金支払いが取り決められ、ようやく解放されることになりました。興味深いことに、この支払いに関する領収書は現在も保存されており、当時の外交交渉の貴重な証拠となっています。
しかし、ジャン2世の自由の身は長くは続きませんでした。1364年に死去し、その後を息子のシャルル5世が継承することになったのです。シャルル5世は後に「賢王」と呼ばれ、フランスの再建に大きな功績を残すことになります。

引用元を日本語化Traité_de_Bretigny.svg: User:Cyberproutderivative work: Rowanwindwhistler, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
ブルターニュ継承戦争の終結
ブルターニュ公国の相続権を巡る争いは、1341年から20年以上にわたって続いていました。この戦いは、フランスのシャルル5世が王位に就いた翌年の1365年にようやく決着をつけることになります。
この長きにわたる継承戦争では、一方にジャンヌ・ド・パントィエーヴルとその夫シャルル・ド・ブロワが、もう一方にモンフォール家が相続権を主張していました。両者の対立は単なる家系間の争いにとどまらず、当時の国際情勢も大きく影響していました。
1365年、フランス王シャルル5世は、自身の立場を強化するため、シャルル・ド・ブロワ側に軍事支援を行うことを決意します。これに対して、イングランドの英雄として名高いエドワード黒太子は、モンフォール側への支援を決定しました。この対立は、フランスとイングランドの代理戦争としての性格も帯びることになります。
両軍の決戦は、ブルターニュ地方のオーレという地で行われました。激しい戦いの末、シャルル・ド・ブロワが戦死するという決定的な出来事が起こります。夫を失ったジャンヌ・ド・パントィエーヴルは、これを機に相続権の主張を取り下げることを決意しました。
その結果、モンフォール家の勝利が確定し、その息子であるジャン4世がブルターニュ公として認められることになりました。ジャン4世は、後にブルターニュの「勇敢公」として知られることになります。
百年戦争の小休止
フランスの復権とシャルル5世の外交戦略
シャルル5世は、1360年に締結されたブレティニー条約の条文を慎重に検討し、その中から法的な不備を見出すことに成功します。これを巧みに利用して、イングランドから奪われた領土の回復を目指していきました。
特にアキテーヌ地方の奪回は大きな成果となりました。この成功を足がかりに、シャルル5世は周辺地域からもイングランド軍を次々と追放することに成功し、フランスの支配地を着実に拡大していきました。その結果、イングランドの支配地は、カレー、ボルドー、バイヨンヌのわずか3都市にまで縮小することになります。
さらにシャルル5世は、外交面でも優れた手腕を発揮します。ナヴァール、スコットランド、フランドル、カスティーリャといった周辺諸国との同盟関係を築き上げ、イングランドを外交的に孤立させることに成功したのです。
国内問題の解決と戦争の小休止
一方、フランス国内では深刻な問題が発生していました。イングランド軍から解雇された兵士たちが、生活のために各地で略奪行為を繰り返すようになったのです。この問題に対し、シャルル5世は巧妙な解決策を考え出します。アヴィニョンの教皇から資金提供を受け、これらの兵士たちをカスティーリャ王国の内紛に派遣することで、国内の治安回復に成功したのです。
この頃、イングランドでは重大な転換期を迎えていました。名将として知られたエドワード黒太子が重病に侵され、ロンドンで療養生活を送っていました。彼は自身の王位継承を断念し、息子のリチャードを後継者として考えるようになります。
1376年にエドワード黒太子が病死し、翌1377年には老齢のエドワード3世も死去します。この時までに、イングランドは数々の戦争を仕掛けたものの、実質的な利益をほとんど得られていませんでした。
若きリチャード2世の即位により、両国間の大規模な戦闘は一時的に収束することになります。この時期は、後の戦争再開に向けた準備期間となっていくのです。
教会大分裂(1378年ー1417年)
教皇庁は1309年以来、フランスのアヴィニョンに置かれていました。この時期は「アヴィニョン捕囚」と呼ばれ、教皇庁がフランス王権の影響下に置かれていた時代です。しかし1377年、ついに教皇庁はローマへの帰還を果たすことになります。
二人の教皇の対立
1378年、新たな教皇としてウルバヌス6世が選出されました。フランスはこの選出に際して、自国に有利な判断を下してくれる人物として期待を寄せていました。しかし、ウルバヌス6世はフランスの期待に反する行動を取ります。
これに激怒したフランスは、教皇選出のやり直しを主張し、クレメンス7世を新たな教皇として擁立しました。クレメンス7世はアヴィニョンに移り、ここにローマのウルバヌス6世との対立構造が生まれることになります。
ヨーロッパの分裂
この二人の教皇の並立は、ヨーロッパ全体を二分する事態を引き起こしました。
ローマ教皇(ウルバヌス6世)支持派
- ドイツ
- イタリア
- ハンガリー
- イングランド
アヴィニョン教皇(クレメンス7世)支持派
- フランス
- ナポリ
- シチリア
- スコットランド
このような混乱の最中、1380年にフランス王シャルル5世が死去し、シャルル6世が新王として即位します。シャルル6世の治世において、この教会大分裂はさらに複雑な展開を見せることになります。
この教会大分裂は、単なる教会の内部対立ではありませんでした。ヨーロッパの政治的対立構造を如実に反映し、後の国際関係にも大きな影響を及ぼすことになります。また、この分裂は1417年まで続き、キリスト教会の権威に大きな打撃を与えることになるのです。