【フランス王国の歴史】アルビジョワ十字軍・第5回十字軍・第6回十字軍

フランスのアルビフランス
フランスのアルビ

十字軍と聞くと、聖地エルサレムを巡るキリスト教徒とイスラム教徒の争いを思い浮かべる方も多いでしょう。しかし、その背後では、異端勢力との闘いやヨーロッパ内部の権力争いが繰り広げられていました。

本記事では、異端とされたカタリ派への弾圧や、エルサレム奪還を目指した遠征まで、中世の動乱の全貌をご紹介します。

アルビジョワ十字軍(1209年ー1229年)

アルビジョワ十字軍は、カトリック教会が南フランスで拡大する異端勢力を制圧するために行われた一連の軍事行動です。この十字軍は、宗教的な対立だけでなく、地域の政治的、文化的な要素も複雑に絡み合った重要な出来事でした。

主な登場人物

まず、この歴史的出来事を理解するために重要な人物をご紹介します。

  • レーモン6世
    トゥールーズ伯。南フランスにおいて異端勢力を支持していた領主です。
  • シモン・ド・モンフォール
    アルビジョワ十字軍の指揮官。教皇の名のもとに異端勢力と戦いました。
  • インノケンティウス3世
    当時のローマ教皇。十字軍を提唱し、異端殲滅を目指しました。

背景:異端勢力の拡大

11世紀から12世紀にかけて、ヨーロッパ大陸ではカトリック教会に対する異端勢力が拡大していました。特に南フランスのアルビ地方では、教会の教義を否定し独自の信仰体系を持つカタリ派が台頭していました。彼らは独自の司教を立て、ローマ教皇の権威に挑戦しました。(詳細は反カトリック勢力の伝播を参照)

教会は当初、異端勢力を説得によって改宗させようと試みましたが、失敗に終わります。特にトゥールーズ伯レーモン6世はカタリ派を庇護し、その勢力拡大を後押ししていたため、事態はさらに深刻化しました。

修道士の暗殺と十字軍の発足

1208年、教皇インノケンティウス3世は修道士ピエール・ド・カステルノーをトゥールーズに派遣し、レーモン6世に異端勢力への支援をやめるよう説得しました。しかし、修道士は交渉を終えた帰路でレーモンの部下によって暗殺されてしまいます。この事件が引き金となり、教皇は異端殲滅を目的とした十字軍の結成を呼びかけました。

十字軍はフランス北部の貴族たちを中心に結成されました。当時、南フランスは文化的に豊かであり、北部の貴族たちにとって魅力的な領地でした。また、遠方の地への遠征とは異なり、近場での戦争であったことも彼らを惹きつける要因でした。

一方、フランス王フィリップ2世はイングランド王ジョンとの対立(ブーヴィーヌの戦い)やジョン王の同盟者である神聖ローマ皇帝オットー4世との対立にも対応する必要があり、手が離せずアルビジョワ十字軍には参加しませんでした。

十字軍と南フランスの戦い

十字軍の指揮を執ったのはシモン・ド・モンフォールでした。レーモン6世は当初、修道士の暗殺事件を謝罪し教皇の許しを得ようとしましたが、実際には十字軍への参加を強制され、自らの領地を攻撃する事態に追い込まれます。

十字軍は、異端か正統派かを問わず、南フランスの住民を無差別に攻撃しました。次第にレーモン6世自身も十字軍の標的となり、彼はアラゴン王国など周辺諸国に支援を求めました。アラゴン王が援軍を率いて参戦しましたが、1213年の戦闘で敗北。アラゴン王が討ち取られたことで、南フランスは十字軍の支配下に置かれました。

レーモン家の反撃と終結

その後、レーモン6世の息子である若レーモンが勢力を立て直し、1220年代に入るとモンフォール軍を攻撃し始めました。一時は南フランスを奪還しましたが、1229年に若レーモンはフランス王に降伏します。この結果、トゥールーズ伯領はフランス王の直轄領となり、南フランスの独自性は徐々に失われていきました。

アルビジョワ十字軍の影響

アルビジョワ十字軍は、単なる宗教戦争に留まらず、フランス南部の政治的・文化的独立性が崩壊するきっかけとなりました。また、教会が異端への対処を軍事的手段に頼ったことは、後の宗教裁判や中央集権化への道を開く結果ともなりました。

フランス王国の勢力図(1223年)

フランス王国の勢力図(1223年)
引用元の画像を日本語化Rowanwindwhistler, GFDL, via Wikimedia Commons

第5回十字軍(1217年~1221年)

第5回十字軍は、1187年にサラディンによって奪われたエルサレムを再びキリスト教徒の手に取り戻すことを目的として行われました。この時期、ヨーロッパではカトリック教会の影響力が非常に強く、エルサレム奪還は宗教的義務とみなされていました。十字軍の呼びかけは、教皇ホノリウス3世によって行われ、ヨーロッパ各地の諸侯や騎士たちが参加しました。

第5回十字軍の中心となったのはハンガリー王国のアンドラーシュ2世やオーストリア公レオポルト6世などの諸侯です。彼らはエジプトを攻略の起点と考え、ナイル川デルタ地帯の要塞都市ダミエッタを攻撃する戦略を採りました。当時、エジプトのアイユーブ朝が中東のイスラム勢力の中心となっており、ここを制圧することでエルサレム奪還を有利に進められると考えられていました。

1219年、十字軍は一時的にダミエッタを占領することに成功しましたが、その後の進軍は難航します。1221年、アイユーブ朝の強力な反撃に遭い、十字軍は撤退を余儀なくされました。結果として、エルサレム奪還は果たされず、第5回十字軍は失敗に終わります。この遠征では、戦術の未熟さやヨーロッパ勢力間の連携不足が課題として浮き彫りになりました。

第6回十字軍(1228年~1229年)

第6回十字軍は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の主導で行われました。フリードリヒ2世は知性豊かで政治手腕にも優れた人物でしたが、教皇グレゴリウス9世との対立により当初は破門されていました。しかし、破門の状態にもかかわらず十字軍を敢行し、これが独自の成果を上げることになります。

第6回十字軍の最大の特徴は、戦闘ではなく外交交渉によってエルサレムを奪還した点です。フリードリヒ2世はイスラム世界と直接交渉し、アイユーブ朝のスルタン、アル=カーミルとの間で和平協定を結びました。この交渉により、エルサレム、ナザレ、ベツレヘムといった聖地がキリスト教徒に返還されました。

1229年、フリードリヒ2世はエルサレムに入城し、自らをエルサレム王と宣言しました。この成果は十字軍史上でも異例のものであり、血を流さずに聖地奪還を実現した数少ない事例です。ただし、この和平は一時的なものであり、その後の宗教的・政治的対立を完全に解消することはできませんでした。

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