1096年より開始された十字軍は、回を重ねるたびにその情熱は薄れていきます。今回も、その続きから終わりまでを見ていきます。
フランス王国カペー朝の歴代王
ユーグ・カペー(987年ー996年)
ロベール2世(996年ー1031年)敬虔王
アンリ1世(1031年ー1060年)
フィリップ1世(1060年–1108年)
ルイ6世(1108年ー1137年)肥満王
ルイ7世(1137年ー1180年)若王
フィリップ2世(1180年ー1223年)尊厳王
ルイ8世(1223年ー1226年)獅子王
ルイ9世(1226年ー1270年)聖王
フィリップ3世(Hardi 1270年ー1285年)豪胆王
フィリップ4世(1285年–1314年)端麗王
ルイ10世(1314年–1316年)喧嘩王
ジャン1世(1316年)遺腹王
フィリップ5世(1316年–1322年)長躯王
シャルル4世(1322年–1328年)端麗王
太字になっている王が本記事で登場する王です。
アルビジョワ十字軍(1209年ー1229年)
主な登場人物
レーモン6世・・・トゥールーズ伯 南フランスで異端教徒に肩入れしていた
シモン・ド・モンフォール・・・アルビジョワ十字軍の指揮を採った
インノケンティウス3世・・・当時のローマ教皇
11世紀から12世紀にかけ、ヨーロッパ大陸で特にアルビ周辺のアルビジョワで反カトリック勢力が拡大していた。(詳細は反カトリック勢力の伝播を参照)
ベネディクト会士の説教師たちは、「異教徒を対象とした十字軍」から「異端者に向けての十字軍」を説いたのだ。イングランド王ジョン欠地王は、南フランスに広がっていた反カトリック勢力に目を向け、ローマ教皇を敵に回す覚悟で彼らを支援していた。反カトリック勢力は拡大し、独自の司教をたてるなど、ローマ教皇を頂点としたカトリック教会とは異なるヒエラルキーを作り上げていった。
この異端勢力を配下に置いていたのがトゥールーズ伯レーモン6世だった。1208年、教皇インノケンティウス3世は修道士ピエール・ド・カステルノーをレーモンのもとに派遣した。修道士ピエールはレーモンに非難の言葉を浴びせて帰国するが、その道中でレーモンの部下により暗殺されてしまうのだ。
1209年、教皇はフランス北部で十字軍を興して異端教徒の殲滅を呼びかけた。南フランスは異文化が交流しあい北とは異なる独特な文化を形成して豊かな都市であったため、南の領土を欲しがる貴族は沢山居た。海を渡る遠征ではなく近場であることも、より魅かれるものがあった。そのため、多数の貴族が教皇の呼びかけに応じて十字軍を結成したのたった。フランス王フィリップ2世は、イングランド王ジョンおよびその甥である神聖ローマ皇帝オットー4世との対立で忙しく、十字軍を断っている。
十字軍の指揮をとったのがシモン・ド・モンフォールである。レーモンは、十字軍の招集を聞くと勝てないと判断し、暗殺された修道士ピエール・ド・カステルノーが埋葬されている教会に赴(おもむ)き許しを乞うのであった。ローマ教皇はレーモンを許したふりをして、十字軍に参加するよう要請した。レーモンは自身の配下の民衆を攻撃することを仕方なく承諾したのだ。十字軍は、攻撃の対象とする民衆が正統なのか異端なのかの区別が付かなかったため、手当たり次第に殺戮していく。そして、モンフォールはあらかた制圧が終わると、攻撃の対象をレーモンに切り替えたのだ。
レーモンは、イングランド、ドイツ、フランス、アラゴンに救援を要請した。支援に応じたのはアラゴン王国だった。アラゴン王は南フランスに軍を率いて侵入しレーモンと合流後、十字軍と激突した。1213年、十字軍はアラゴン王を討ち取り勝利を収め、南フランスの制圧は完了したのだ。レイモンはアラゴンへ逃亡し、南フランス(トゥールーズ伯領)はモンフォールに委(ゆだ)ねられた。
イギリス王ジョンは、援軍を出さずに最良の同盟者であるアルビジョワが制圧されたことを後悔した。1214年、ジョンは奪われたフランス国内の領土の回復を目指し、ドイツ、フランドルと組んで、フランスを攻めることにした(ブーヴィーヌの戦い)。フランドル地方(現在のベルギー)は羊毛織物の名産地で、羊毛をイングランドから入手していたため両者は深い関係にあった。ジョンは南から、フランドルとドイツは北から攻めたが、フランス王フィリップ2世の前に敗北しイングランドへ逃げ帰った。ジョンは1216年に死去したのであった。
1216年、レーモンの息子である若レーモンがモンフォールを攻撃し、南フランスを奪い返し凱旋帰国した。フランス王と若レーモンは小競り合いを続けるが、1229年に若レーモンが降伏。南フランス(トゥールーズ)はフランス王が所有することとなった。
第5回(1217年ー1221年)、第6回十字軍(1228年ー1229年)
フランス国内でアルビジョワ十字軍が異端教徒を討伐している間、エルサレムを奪還するため、第5回、第6回の十字軍が行われていた。第5回はハンガリー王国、第6回は神聖ローマ帝国が中心となりエルサレムへ向かった。第5回では奪還失敗したが、第6回で奪還に成功している。
第7回十字軍(1248年ー1254年)
北方のアジアで興ったモンゴル人が南下してオリエント世界を脅かし始めた。ラテン帝国のボードワンもルイ9世のもとに危機的な状況を説明しにやってきたほどであった。この中で、エルサレムは1244年イスラム勢力により陥落してしまうのだ。
フランス王ルイ9世は、ローマ教皇に十字軍の招集を要請したが、教皇は神聖ローマ帝国との確執のため、その勢力をどうしてもドイツに向けたかった。教皇はルイ9世に対して、ローマ皇帝の冠とイングランドの王位を授けるからドイツに軍を向けてくれるよう頼み込んだのだ。ルイ9世は聖王と呼ばれるほどキリスト教への信仰が深く、エルサレムへの情熱から教皇の要請を聞き入れず、十字軍を結成してエルサレムへ向かうのであった。
ルイ9世はエルサレムの奪還にあたり、エジプトを拠点としたかったため、エジプトの攻略に向かった。ところが、ルイ9世は捉えられ捕虜になってしまう。エジプトの攻略に失敗してしまうのだ。十字軍は、身代金を払うことでルイ9世を解放してもらい、エルサレムに向かうも、ルイ9世の母親が死去したとの知らせが届き、エルサレムの奪還は諦め帰国するのだった。失敗したルイ9世は罪の意識から、ジョン欠地王から取り上げたアンジューとガスコーニュの領地を一部返還し、その他の領土をフランスが所有するパリ条約を締結した。
第8回十字軍(1270年)
ルイ9世は全ての罪を一身に背負い、フランス国内に閉じこもった。その間、ルイ9世の弟シャルル・ダンジューが両シチリア王国を征服、アルビジョワ十字軍の指導者モンフォールの息子はイングランドで議会制度を作り上げていた。そして、オリエントでイスラム教徒によって数万人のキリスト教徒が虐殺される事件が発生した。それを聞いたルイ9世は、十字軍の準備を開始したのだ。
ローマ教皇はこれをなんとか思いとどまらせとしたが無駄であった。このようにして、第8回十字軍がはじまったのだ。十字軍は、海路でアフリカ大陸のチュニスに上陸した。ところが、そこは木一本生えていない不毛の地で、植物も生えていなければ、水も臭気を発する沼や、無数の虫がたかっている水たまりしかない土地であった。次第にペストが蔓延し死者が多数出る中、ルイ9世も病死してしまい、十字軍はここで帰路につくのであった。
シチリアの晩祷(ばんとう)(1282年)
ルイ9世の死後、フランス王に就いたのが、息子のフィリップ3世(豪胆王)である。しかし、この時代の主役はルイ9世の弟シャルル・ダンジューだった。シャルル・ダンジューは1266年に両シチリア王国を征服し、カルロ1世として王位に就いていた。
シャルルはこのシチリアで大いに権力を行使した。当時のローマ教皇クレメンス4世が死去すると、次の教皇の選出を許さず、約3年の間、自らが教皇の権力を行使したのだ。この間、教皇は不在であった。シャルルがビザンツ帝国の征服を目指し準備に夢中になっている間、次の教皇が選出された。
教皇は、シャルルの脅威に対抗するため不仲であった神聖ローマ帝国とビザンツ帝国の両者に対して和解を申し出た(このころ、ラテン帝国は滅びビザンツ帝国が復活していた。)。ビザンツ帝国との和平協定は無事に成立したが、まもなく教皇が死去すると、シャルルはフランス人のマルティヌス4世を教皇に選出させた。操り人形となる教皇を立てたのだ。
シャルルの民衆に対する圧政で不満は膨れ上がっていた。シャルルが新しい銀貨を発行すると1ドニエ(貨幣の単位)に対し30ドニエで買い取らせたり、庭に出来たハチの巣にまで課税し始めた。
1282年、復活祭の翌日、シチリアのパレルモで行われていた晩祷中に暴動が発生し、多数のフランス人が殺された。これをきっかけにしてシチリア島全土に暴動が広がった。その中で、シチリアの前王の娘の結婚相手であるアラゴン王の元に、シチリアへの支援要請の書簡が届くのだ。アラゴン王はシチリア島に上陸し、シャルルを追い出した。これによって、両シチリア王国は、アラゴン王のシチリア王国とシャルルのナポリ王国に分裂したのだった。