西のローマ=カトリック教会と東のコンスタンティノープル教会の対立が深まり、ローマ=カトリック教会は孤立化していきます。
その中で、ローマ=カトリック教会は、フランク王国との協力関係を作り、東に対抗します。
このように、キリスト教会の東西対立は鮮明化し、後に分裂へと繋がっていきます。
ここまでの背景
-
- ローマ=カトリック教会とコンスタンティノープル教会は、以前から首位権をめぐって争っていた。
- ローマ=カトリック教会は、西ローマ帝国が滅亡したことで保護者を失っていた。
東西対立の深化
-
- ビザンツ帝国が発布した聖像禁止令により、ローマ=カトリック教会はビザンツ帝国とも対立する。
- ローマ=カトリック教会は、保護者を求めてフランク王国に接近する。
ここから詳細を追っていきます。
五本山
ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、イェルサレムをキリスト教会の五本山と言います。
5つの教会は首位権をめぐって争っていましたが、アレクサンドリア、アンティオキア、イェルサレムはイスラム帝国の支配下に落ちたことで首位権争いから脱落しました。以降、ローマ=カトリック教会とコンスタンティノープル教会で首位権を争うことになりました。
ローマ=カトリック教会の孤立化
- コンスタンティノープル教会はビザンツ帝国に保護されていた。
- ローマ=カトリック教会は西ローマ帝国に保護されていたが、滅亡を機に長い間保護者を失っていた。
- ローマはかろうじてビザンツ帝国領であったが、周囲はランゴバルド王国に包囲されていた。
このような理由でローマ=カトリック教会は保護者の必要性を強く感じていました。
聖像禁止令
強大化するイスラム帝国との戦争の中、イスラム教は偶像崇拝を否定していることがビザンツ帝国で広く知れ渡りました。そして、偶像崇拝は果たして良いのか?悪いのか?といった論争が帝国内で出てきました。(偶像崇拝論争)
その中でビザンツ皇帝のレオン3世が、726年に聖像禁止令を出しました。その内容は、聖像を崇拝することを禁じ、聖像を破壊することを命じるもので、各地で聖像破壊運動(イコノクラスム)が起こり、イエス像が破壊されていきました。
深まる東西対立
聖像禁止令は、東西の対立をさらに深くする原因となりました。ローマ=カトリック教会は、ゲルマン人へのカトリックの布教活動に聖像を使用していました。聖像を使用出来なくなれば、布教活動に支障が出るため、この法令に大反発しました。
ビザンツ帝国は、反発的な態度を示したローマ=カトリック教会に対して、ランゴバルド王国に協力してもらい教会に圧力をかけました。このようにして、ローマ=カトリック教会は、存続の危機に直面しました。
ピピンの寄進
カロリング家出身のカール=マルテルはトゥール・ポワティエ間の戦いの活躍で、その名声は高まりました。そして、751年にカール=マルテルの子ピピンがメロヴィング家から王位を奪いカロリング朝を開きました。
ローマ=カトリック教会は、ピピンの王位就任の儀式をとり行い、これによりピピンの国内からの支持はさらに強いものになりました。そのお礼として、756年、ピピンはランゴバルド王国からラヴェンナを奪い、ローマ教皇に献上しました。これをピピンの寄進と言います。そして、ローマ=カトリック教会はビザンツ帝国の配下から抜け、ローマからラヴェンナ一帯をローマ教皇領としました。
このように、ローマ=カトリック教会はフランク王国との協力関係を築き上げていきました。
ピピンの寄進後、勢力図は以下の通り。