アケメネス朝ペルシア

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アケメネス朝の独立

紀元前550年、メディアに従属していたペルシアのアケメネス家キュロス2世が、メディアの将軍の協力を受けメディアを滅ぼし独立を果たした。
首都をスサに置いた。

キュロス2世は、紀元前546年にリディア、紀元前538年に新バビロニア王国を滅ぼし、続くキュロス2世の息子であるカンビュセス2世は、紀元前525年にエジプトを支配しオリエントを統一した。新バビロニアを滅ぼした際、強制移住させられたユダヤ人を解放している。

ダレイオス1世の時代(在位:紀元前522年~紀元前486年)になると、西方はギリシア北部、東方はインダス川まで領土を拡大し、アケメネス朝ペルシアの全盛期となった。また、ダレイオス1世は首都をペルセポリスに移している。

【アケメネス朝ペルシアの最大領域(ダレイオス1世)】

イオニアの反乱(紀元前499年~紀元前493年)

小アジアの西岸(イオニア地方)に、ギリシア人一派のイオニア人はこの地域にいくつもの植民市を建てていた。その中で有力な植民市はミトレスである。

アケメネス朝はイオニア人植民市に対し自治は認めていたが貿易に制限をかけていた。それに反抗してミトレスの植民市を中心に反乱が発生した。

イオニア人はアテナイの支援のもとアケメネス朝と交戦したが、ミレトスが陥落して鎮圧された。

【イオニア地方】

ペルシア戦争(紀元前499年~紀元前449年)

イオニアの反乱の報復として、アケメネス朝はギリシアに遠征を行った。アテナイを中心にしたポリス連合軍との戦争は紀元前499年~紀元前449年の間に4回にわたって行われ、最終的にはアケメネス朝がギリシアから撤退する形で戦争が終結した。

この戦争で活躍したのがフェニキア人である。フェニキア人も地中海沿岸に多数の植民市を立て海洋交易を活発に行っていたが、交易権をめぐってギリシア人と対立していたため、アケメネス朝に協力して戦争に参加していた。

アケメネス朝ペルシアの内政と文化

ダレイオス1世は帝国内を20の州に分け、各州にサトラップ総督)を置き、またサトラップの監視役である「王の目・王の耳」を中央から派遣し中央集権体制を維持した。
スササルデスの間に王の道を設け、駅伝制を整備した。

アケメネス朝はゾロアスター教を保護していたが、他宗教に対して寛容な姿勢を採っていた。

イオニア地方はオリエントとギリシアを結ぶ交易路として発展し、学問の情報も様々な地域から集まる場所であることから学問も発展した。このような環境のもとイオニアで自然哲学が生まれた。自然哲学とは自然の事象を統一的に解釈し、理論的に説明しようとする哲学をいう。

自然哲学の代表的な人物を以下に挙げておく。

タレス(紀元前624年頃~紀元前546年頃)

万物の根源(アルケー)は水であると説いた。

ピタゴラス(紀元前582年 – 紀元前496年)

万物の根源は数であると説いた。

ヘラクレイトス( 紀元前540年頃 – 紀元前480年頃)

「万物は流転している」と言って、万物の根源は火であると説いた。

デモクリトス(紀元前460年頃-紀元前370年頃)

万物の根源は無数の原子の結合や分離と言って、原子論を説いた。

アケメネス朝ペルシアの滅亡

ギリシャ北部のマケドニア王国アレクサンドロスが紀元前334年にペルシア遠征を開始し、グラニコス河の戦いイッソスの戦いガウガメラの戦いアルベラの戦い)、いづれもアケメネス朝は敗北し、紀元前330年に滅亡した。(ダレイオス3世が最後の王)

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