アケメネス朝ペルシアは、紀元前6世紀から4世紀にかけて古代オリエントを支配した大帝国です。その領土は東はインダス川、西はエーゲ海にまで及び、歴史上初めて「多文化共存」を実現した帝国とも言われます。キュロス2世による創設から、ダレイオス1世の改革、ギリシアとの激突を描いたペルシア戦争、そしてアレクサンドロス大王による滅亡まで、本記事では、アケメネス朝の栄光とその遺産を振り返りながら、どのように広大な領土を支配し、またその支配が崩れていったのかを見ていきます。
アケメネス朝の独立と成立(紀元前550年)
アケメネス朝ペルシアは、紀元前550年、キュロス2世(通称「大王」)によって創設されました。当時、ペルシアはメディア王国の支配下にありましたが、キュロス2世は巧みな政治力と軍事力を発揮してメディアを打倒しました。この際、メディア内部の将軍たちの協力を得たことが成功の鍵となりました。
スサと初期の領土拡大
キュロス2世は首都をスサに置き、地理的にも政治的にもオリエント世界の中心を抑えました。彼の治世は急速な領土拡大が特徴で、紀元前546年にはリディア王国を、紀元前538年には新バビロニア王国を征服しました。新バビロニアの征服は特に重要で、強制移住政策によって苦しんでいたユダヤ人を解放する寛容な統治が評価されています。この出来事は旧約聖書にも記録されており、キュロス2世の名は「救済者」として歴史に刻まれています。
キュロス2世からダレイオス1世へ
キュロス2世の後を継いだのは息子のカンビュセス2世で、彼は紀元前525年にエジプトを征服してオリエント世界を完全に統一しました。しかし、彼の短い治世の後、アケメネス朝は一時的な混乱に見舞われます。その混乱を収束させ、帝国の全盛期を築いたのがダレイオス1世でした。
ダレイオス1世の改革と中央集権体制
ダレイオス1世(在位:紀元前522年~486年)は、中央集権体制を整備し、帝国内の統治を強化しました。帝国を20の州に分け、それぞれにサトラップ(総督)を配置したほか、監視役として「王の目・王の耳」と呼ばれる特使を派遣しました。この仕組みによって、広大な領土を効率的に統治することが可能となりました。
また、「王の道」と呼ばれる主要な交通網を整備し、スサからサルデスまでの約2700kmにわたる道に駅伝制を導入しました。この道は軍事的な迅速性を確保するだけでなく、経済や文化の交流も促進しました。
イオニアの反乱とペルシア戦争
ダレイオス1世の治世には、西方でギリシア世界との対立が深まりました。紀元前499年、イオニア地方のギリシア植民市が反乱を起こします。これはペルシア支配に対する不満が背景にあり、アテナイを中心とするギリシア諸ポリスが反乱を支援しました。
イオニアの反乱
反乱の中心となったミレトスは、小アジア西岸の有力な都市でした。彼らはペルシアの貿易制限に反発し、自治の維持を求めました。しかし、ペルシア軍の圧倒的な軍事力により反乱は鎮圧され、ミレトスは陥落しました。
ペルシア戦争
この反乱に対する報復として始まったのが、いわゆるペルシア戦争です。紀元前499年から約50年続いたこの戦争では、マラトンの戦い(紀元前490年)やサラミスの海戦(紀元前480年)といった重要な戦闘が行われました。最終的に、ギリシア側の連合軍が勝利し、アケメネス朝はギリシアから撤退を余儀なくされました。
アケメネス朝の文化と内政
アケメネス朝は多様な文化の融合が見られる帝国でした。その寛容な宗教政策と行政改革は、後世に大きな影響を与えました。
ゾロアスター教と宗教寛容政策
帝国の公式宗教であったゾロアスター教は、善悪二元論を基盤とした宗教です。しかし、他宗教に対して寛容で、異なる文化や信仰を排除しない方針を取っていました。この寛容性が広大な領土を安定的に統治する要因となりました。
イオニア地方と学問の発展
イオニア地方は、オリエントとギリシアを結ぶ交易の要衝であったため、多くの知識や文化が交わる場所となりました。この環境の中で自然哲学が誕生し、タレスやアナクシマンドロスといった哲学者が活躍しました。彼らの思想は、後のギリシア哲学に影響を与えることになります。
アケメネス朝ペルシアの滅亡(紀元前330年)
アケメネス朝の滅亡は、ギリシア北部のマケドニア王国のアレクサンドロス大王による東方遠征によってもたらされました。紀元前334年に始まった東征で、ペルシア軍はグラニコス河の戦い、イッソスの戦い、そしてガウガメラの戦いで次々と敗北します。
最後の王ダレイオス3世は紀元前330年に討ち取られ、アケメネス朝は滅亡しました。アレクサンドロスは広大なペルシア帝国を継承し、新たなヘレニズム時代を築き上げます。