アッシリア帝国~4国分立

アッシリアのミタンニからの独立~アッシリア帝国の形成まで

アッシリアはミタンニからの独立後、ヒッタイトやエジプトと肩を並べる強国となったが、海の民の襲来により国内は混乱し低迷期に入った。
しかし、ヒッタイトから鉄器の製法を学んだアッシリアは、鉄製の戦車と騎兵隊を採用し次第に力を付けていく。

カッシート滅亡後のバビロニア地域には紀元前8世紀後半までバビロン第4王朝~バビロン第8王朝の短命王朝が繰り返し成立していた。
その間、アッシリアとバビロン王朝は国境争いをしてきたが、紀元前8世紀後半、バビロン王朝が敗北しアッシリアの支配下に入った。

さらにアッシリアはサルゴン2世のときにシリア方面へ遠征をして領土を拡大した。このときにイスラエル王国を滅亡させている(紀元前722年)。
紀元前671年にはエジプトも支配下に置き、オリエントを統一した初めての帝国となった。

【アッシリアの最大領域】

アッシリア帝国の内政と文化

首都はニネヴェ
全盛期の王はアッシュールバニパルで、ニネヴェに図書館を作らせた王として知られている。25,000点に及ぶメソポタミア各地の史料が収集されておりオリエントの歴史や文化を知る上で重要な建造物となっている。

アッシリアは巨大な帝国を維持するために征服した土地に住んでいる大量の民衆を強制移住させた。
これは反乱防止が目的とされ頻繁に行われていた。シリアに住むアラム人をオリエント全域に強制移住させたことは、後にアラム語が商業の共通言語となるきっかけとなった。

広大な領土をいくつかの州に分けて総督を置き、駅伝制を整備して交通網を強化し、中央集権体制を維持しようとした。

補足

アラム人はシリアを拠点にラクダを用いた交易を行っており、大規模な交易網を持っていた。
当時、アラム人は陸上交易を中心に行っていたのに対し、フェニキア人は海洋交易が中心だった。

アッシリア帝国の滅亡

広大な領土と多数の民族を抱えていたアッシリアは、軍事力や統治システムの構築で圧政を持って維持してきたが、アッシュールバニパルの死後(紀元前627年ごろ没)、紀元前625年には新バビロニアが独立し、紀元前612年に新バビロニアとメディアの連合軍によりアッシリア帝国は滅亡した。

4国分立

アッシリアの滅亡後、オリエントはメディアリディアエジプト新バビロニアの4つ強国に分裂する。

【4国分立時代の勢力図】

メディア王国

史料が乏しいため詳細は分かっていない。
イラン高原に住んでいたインド=ヨーロッパ語族のイラン系民族であるメディア人が建国した。(紀元前8世紀後半)
首都はエクバタナ。建国後、イラン系民族であるペルシア人を従属させている。

西方のアッシリアとはたびたび交戦していたが、紀元前612年に新バビロニアと組んでアッシリアの首都ニネヴェに攻め込み滅亡させた。
メディアはメソポタミア北部を支配下に入れながらさらに西方へと進出していき、リディア国境付近まで領土を拡大していった。

紀元前550年、従属していたペルシア人であるアケメネス家キュロス2世が反乱を起こしメディア王国は滅亡した。

リディア王国

小アジア(アナトリア地方)でヒッタイトが滅亡した後、小国家がいくつも建てられたが、紀元前7世紀に入り勢力を拡大し小アジア一帯を支配したのがリディアだった。
首都はサルデス
リディアはギリシアとオリエントを結ぶ交易路となり商業が大きく発展し、世界で初めて金属貨幣を使用したとされている。

紀元前546年、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世により滅亡した。

新バビロニア王国

紀元前625年、アッシリア帝国から独立し、セム系遊牧民であるカルデア人が建てた王朝。カルデア王国またはバビロン第11王朝とも呼ばれる。初代王はナボポラッサル。
ナボポラッサルは、当時エジプトの勢力下に入っていたシリア・パレスティナ地方へ侵攻し(カルケミシュの戦い)、エジプトに勝利している。

紀元前612年、メディアと組んでアッシリアの首都ニネヴェに攻め込み陥落させた。

2代目の王ネブカドネザル2世(在位:紀元前604年~紀元前562年)は、先代からのシリア・パレスチナへの遠征を引き継いで積極的に行っていた。紀元前586年にはユダ王国を滅亡させユダの民衆をバビロンに連行した。(バビロン捕囚
ネブカドネザル2世のときが新バビロニアの最盛期で、イシュタル門やジッグラトに代表される建造物を数多く建てた。存在は証明されていないが、空中庭園もこの時代に建造されたとされている。

紀元前538年、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世は、王の神殿改革に反感を持った神官や住民を利用し、戦わずしてバビロンを占拠することに成功し新バビロニア王国を滅亡させた。

エジプト王国

アッシリアに従属していた第26王朝であったが、紀元前655年に独立を果たす。これ以降エジプト末期王朝時代と呼ばれる。この当時の首都はサイス

紀元前609年、シリア地方への領土拡大を狙い、ユダ王国との戦いで勝利をおさめ支配下に置いた。(メギドの戦い)
紀元前605年、さらにシリアを北上しカルケミシュ(小アジアとシリアの境界付近)で新バビロニアとの戦いで敗れシリア進出がとん挫した。

紀元前525年、勢力を拡大してきたアケメネス朝ペルシアのカンビュセス2世に敗れ、アケメネス朝ペルシアの支配下に入った。

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