ユスティニアヌス1世によるローマ帝国の復興

世界史

375年に始まったゲルマン人の大移動は、ゲルマン人国家の成立と西ローマ帝国の滅亡へと繋がりました。
そしてゲルマン人国家は、ローマ帝国で異端とされたアリウス派を受け入れていきます。

今回は、ゲルマン人国家と東ローマ帝国のその後の動きを時系列を追って見ていきます。

その前に、500年代初頭の勢力図を確認しておきましょう。

ここで少し触れておきたいのがケルマン系民族のランゴバルド族です。
彼らは、ゲルマン人国家が次々と成立し西ローマ帝国が滅亡したころに、国境線の外側付近に北方から移住してきました。遅れてやってきたゲルマン人です。

メロヴィング朝とクローヴィスの改宗

481年にフランク王国を建国した王クローヴィスがメロヴィング家の出であることから、その王朝の名をメロヴィング朝と言います。

ゲルマン人国家は全てアリウス派でしたが、カトリック教徒の妻の影響を受けてクローヴィスはカトリックに改宗し、カトリックをフランク王国の国教としました。
これをクローヴィスの改宗といいます。
以降、他のゲルマン人国家もカトリックへ改宗していくことになります。

カトリックとは、ローマ=カトリック教会を頂点としたキリスト教派閥です。
ローマ=カトリック教会はアタナシウス派を正統とし、ローマに本拠地をおいています。そして、その最高位の聖職者をローマ教皇といいます。

ブルグンド王国の滅亡

フランク王国の王クローヴィスの死後、4人の息子に引き継がれました。
息子たちの統治時代にあたる534年に、フランク王国はブルグンド王国を攻め滅亡させました。

ユスティニアヌス1世によるローマ帝国の再建

527年に東ローマ皇帝に就いたユスティニアヌス1世は、ゲルマン人に奪われた領土を奪還すべく攻勢をかけます。

ヴァンダル王国の滅亡
533年、ヴァンダル王国に戦争をしかけ、534年にヴァンダル王国を滅ぼしました。

東ゴート王国の滅亡
535年、東ゴート王国への攻撃を開始ます。
戦いが長引くなか、ユスティニアヌス1世は東ゴート王国の北に定住していたゲルマン人一派ランゴバルド族と同盟を結び、共闘して東ゴート王国を攻めます。
ランゴバルド族への見返りとして、給金を付与し、パンノニアへの移住を許可しました。
553年、東ゴート王国を滅ぼしました。

西ゴート王国の一部を奪還
555年、西ゴート王国の内乱につけ込んで、イベリア半島の南部を占拠しました。

ここまでの勢力図は以下の通りです。
ランゴバルド族は南下して東ゴート王国の領土だったパンノニア地方に移住してきています。

ユスティニアヌス1世の功績

ユスティニアヌス1世の功績は、領土拡大だけではありません。その他の功績も見ていきます。

ローマ法大全
共和政時代から長きに渡り、ローマ帝国では多くの法律が作られてきました。
多数の法律が雑多に乱立し、全く整理されていませんでした。重複していたり、忘れ去られていたり、そういった状態です。
ユスティニアヌス1世は、忘れ去られた法律を掘り起こすなどして、全ての法律を整理し、一つにまとめあげました。
それがローマ法大全です。
ローマ法大全は、他の国にも大きな影響を与え、現代の法に繋がる基礎を作り上げました。

ハギア=ソフィア大聖堂(セント=ソフィア大聖堂)
コンスタンティノープルに建設した大聖堂で、ギリシア正教会の本部となりました。

ハギア=ソフィア大聖堂(セント=ソフィア大聖堂)
ハギア=ソフィア大聖堂(セント=ソフィア大聖堂)
タイトルとURLをコピーしました