【帝政ローマ】五賢帝時代の終焉から軍人皇帝時代まで

【帝政ローマ】五賢帝時代の終焉から軍人皇帝時代まで 世界史
【帝政ローマ】五賢帝時代の終焉から軍人皇帝時代まで

繁栄を誇ったローマ帝国は、2世紀末から3世紀にかけて大きな転換期を迎えます。五賢帝時代には、養子継承による皇帝選定と元老院との協調体制により、「ローマの平和」と呼ばれる安定期を築き上げてきました。本記事では、その黄金期が終わりを迎え、軍人皇帝時代という混乱期に至るまでの激動の時代を詳しく解説します。

五賢帝時代の終焉とコンモドゥス帝の暴政

西暦180年、五賢帝の最後を飾るマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝が崩御します。その後を継いだのは、わずか18歳の息子コンモドゥスでした。五賢帝時代の特徴であった養子継承制から実子継承への転換点となったこの世代交代は、ローマ帝国にとって大きな転換点となります。マルクス・アウレリウスは存命中から息子コンモドゥスを後継者として育成していましたが、結果として、この決断が帝国の安定を揺るがすことになります。

コンモドゥスの統治初期には大きな混乱はありませんでした。父の側近たちが実質的な政務を担当し、帝国の統治体制は維持されていたのです。ところが、姉ルキッラによる暗殺未遂事件が発生します。ルキッラは前共同皇帝ウェルスの妻であり、強い政治的野心を持っていました。彼女は複数の元老院議員と共謀して暗殺計画を練りましたが、この計画は失敗に終わり、ルキッラは流刑に処せられます。

この事件を境に、コンモドゥスの性格は一変します。周囲への不信感が極度に強まり、重臣たちを次々と処刑していきました。政務を放棄し、毎日のように剣術の訓練に没頭する日々を送るようになります。さらには、自らを剣闘士として演出し、実際に闘技場で試合を行うなど、皇帝としての品位を著しく損なう行動も目立つようになりました。

より深刻だったのは、コンモドゥスが元老院全体を敵視するようになったことです。元老院議員のほぼ全員を対象とした大規模な粛清計画を立案したのです。これほどの規模の計画は、当然のように情報が漏洩します。コンモドゥスはその事実に気付かないまま、西暦192年、暗殺対象となっていた元老院により暗殺されるに至ります。暗殺の実行犯となったのは、彼の側近たちでした。

セウェルス朝の成立と内紛

コンモドゥスの死により、アントニヌス朝の血統は途絶えます。後継者不在の中で勃発した内乱を制したのが、セプティミウス・セウェルスでした。アフリカ出身の軍人であったセウェルスは、軍事力を背景に権力を掌握し、新たな王朝を開きます。

セウェルス自身は有能な統治者でした。軍事面では、ブリタニア遠征を成功させ、帝国の北方防衛を強化します。また、行政改革も実施し、法整備や都市建設にも力を入れました。特に、法学者パピニアヌスを登用し、ローマ法の発展に大きく貢献しています。

ところが、セウェルスの死後、王朝は急速に混乱へと向かいます。特に問題となったのが、息子たちの対立でした。長男カラカラと次男ゲタの確執は、帝国の政治を大きく混乱させることになります。セウェルスは死の直前、息子たちに「互いに協力し合い、軍を大切にせよ」という言葉を残したとされていますが、この遺言は守られることはありませんでした。

カラカラ帝の治世と改革

西暦209年、セウェルスは息子たちを共同皇帝に任命します。兄弟での共同統治体制を築こうとしたのです。ところが、セウェルスの死後、この体制は崩壊します。カラカラは西暦211年、母ユリア・ドムナの目の前で弟ゲタを殺害。さらにゲタと親しかった貴族や元老院議員も次々と粛清していきました。二万人もの人々が犠牲になったとされています。

カラカラの治世で特筆すべきは、アントニヌス勅令の発布です。この勅令により、属州に住む自由民全てにローマ市民権が付与されることになりました。表向きは帝国の一体性を高める改革でしたが、実際の目的は兵力の増強と税収の拡大にありました。市民権を得た属州民には兵役の義務が生じ、また、ローマ市民特有の税金も課されることになったのです。この改革は、帝国の性格を大きく変えることになります。旧来のローマ市民の特権は相対的に低下し、属州とローマ本土の区別は次第に薄れていきました。

また、カラカラは「カラカラ浴場」として知られる大規模な公共浴場をローマ市内に建設しています。この建造物は、現代にも遺跡として残る壮大な建築物です。浴場内には図書館や運動場も併設され、市民の社交場としても重要な役割を果たしました。

カラカラは軍事面での功績も残しています。軍人への待遇を大幅に改善し、軍の近代化を進めました。具体的には、兵士の給与を1.5倍に引き上げ、装備の改良も行いました。その一方で、民衆や貴族への弾圧は激化の一途をたどります。その犠牲者は数万人にも上ったとされています。また、軍事費の増大は帝国財政を圧迫し、通貨の価値下落も進行しました。

結果として、カラカラへの反感は極限に達します。西暦217年、親族を粛清された近衛兵の手により暗殺されました。暗殺の首謀者は近衛長官マクリヌスでしたが、彼もまた、短期間の治世の後に命を落とすことになります。

軍人皇帝時代の混乱

カラカラの死後、セウェルス朝からは数名の皇帝が即位しますが、帝国は深刻な危機に直面します。東方ではササン朝ペルシアが台頭し、北方ではゲルマン諸族の侵入が激化。これに対し、当時の皇帝は平和的な外交路線を重視しました。特に、アレクサンデル・セウェルス帝の時代には、ササン朝ペルシアとの講和が模索されます。

この方針に不満を持った軍部が、ローマ史上初めて組織的な皇帝暗殺を実行します。これによりセウェルス朝は断絶し、軍人皇帝時代が幕を開けることになります。以降、皇帝の選出は事実上、軍の意向に左右されるようになっていきます。

ローマ皇帝には本来、内政と軍事の二つの重要な職務がありました。平時の政治運営と戦時の軍事指揮という、時として相反する役割を一身に担わなければならなかったのです。五賢帝のような有能な統治者はこの両立に成功しましたが、それは例外的な存在でした。多くの皇帝は、どちらかの役割に偏重せざるを得ませんでした。

軍人皇帝時代(235年~284年)には、各地の軍団が独自の皇帝を擁立し、内戦が連鎖的に発生します。この約50年間で、皇帝を名乗った者は数十人に上りました。中には在位期間がわずか数か月という皇帝も少なくありません。外敵の脅威と内紛が重なり、ローマ帝国は存亡の危機に瀕します。後世の歴史家たちは、この時期を「3世紀の危機」と呼んでいます。

この混乱期を通じて、ローマ帝国の性格は大きく変容していきます。軍事的な要素が前面に出るようになり、かつての五賢帝時代のような文民的な統治は影を潜めていきました。また、属州の重要性が増し、イタリア本土の特権的地位も相対的に低下していきます。行政面では、官僚制が発達し、皇帝の専制化も進みました。経済的には、インフレーションの進行や都市の衰退が目立つようになります。

3世紀の危機は、古代ローマの転換点となった重要な時代でした。この時期の変動を経て、ローマ帝国は古典古代的な性格を失い、より中世的な様相を帯びていくことになります。デイオクレティアヌス帝による帝国再建まで、この混乱は続くことになるのです。

タイトルとURLをコピーしました