五賢帝以降の混乱 ~ 軍人皇帝

コンモドゥス(在位:180年~192年)

五賢帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後、皇帝に就いたのは彼の息子である18歳のコンモドゥスでした。

コンモドゥスはやがて暴君と化します。その経緯を少し詳しく書いていきます。

コンモドゥスの姉ルキッラは、父マルクス・アウレリウス・アントニヌスと共同皇帝をしていたウェルスの妻でした。
ルキッラは非常に野心が強く、あろうことか弟である現皇帝コンモドゥスを暗殺しようとします。結果は失敗に終わり流刑に処せられました。
この事件をきっかけにコンモドゥスは周囲に対する不信感を強めました。
周囲の重臣たちを次々に処刑していき孤立していき、自らは毎日のように剣術の訓練に没頭していきました。

コンモドゥスはさらに処刑の計画を練っていきます。次の処刑のターゲットはほぼ全員の元老院議員でした。
ところが、大きな計画ゆえ、外部に漏れてしまいます。コンモドゥスはその計画が漏れたことに気づきませんでした。
コンモドゥスは暗殺対象だった元老院により暗殺されてしまいました。

セウェルス(在位:193年~211年)

コンモドゥスが暗殺されると、五賢帝から続いてきた血筋が断絶してしまいました。皇帝を継ぐものが居なかったため、皇帝争いに発展しました。
コンモドゥス以降に即位した皇帝は、皇帝の座を狙っているものに次々と暗殺されてしまいます。
繰り返される暗殺の連鎖を止めたのがセウェルスでした。

以降、セウェルス家から皇帝を輩出していくのですが、セウェルス家の内紛が相次ぎ、安定しません。
このセウェルス家から輩出された皇帝で有名なのが、セウェルスの長男カラカラ帝です。

カラカラ(在位:209年~217年)

セウェルスと共に西暦209年から共同皇帝をしていたのが、二人の息子カラカラとゲタでした。

セウェルスの死後、二人の兄弟が共同皇帝として統治することになるのですが、二人の仲は非常に悪いものでした。
西暦211年、兄カラカラは弟ゲタの殺害を決行し、ゲタと親しかった貴族・元老院も全て処刑していきました。
カラカラはローマ史に残る暴君でした。

カラカラの行った統治政策として有名なのが、アントニヌス勅令を発布し属州に住む奴隷以外の人にローマ市民権を与えたことです。これにより、属州民も兵役の義務を負うことになりました。
また、ロマ市内に大浴場を建設させたことでも有名です。

カラカラは軍人への報酬などを優遇し軍へ傾倒する一方、民衆や貴族へは弾圧していきました。カラカラによって殺された民衆や貴族は万単位にも及びました。

当然、カラカラに恨みを持つものが現れ、西暦217年、カラカラに親族を殺された近衛兵に刺殺されてしまいました。

軍人皇帝(235年~284年)

カラカラの暗殺以降、セウェルス家から何人か皇帝を出していくなか、次第に東方で興ったササン朝ペルシアや北方のゲルマン人の侵入が激しくなってきました。
皇帝はこのような状況でも平和路線を取ったため、業を煮やした軍により暗殺されてしまいした。これによりセウェルス家は断絶します。
軍が主導した皇帝暗殺はこれがローマ史上で初めてだったことを補足として追記しておきます。

皇帝は広大な領土の内政を担い、かつ対外戦争の軍事司令官でもありました。
この2つの職務を一人で遂行するのは難しく、うまくやっていた皇帝も存在しましたが、そうではない皇帝も当然いました。
皇帝が無能であった場合、皇帝の座を降りてもらうことはできません。暗殺という手段しかなかったのです。

セウェルス家が断絶すると、沢山の軍人がローマ皇帝を名乗り内紛に発展しました。この期間50年を軍人皇帝時代と呼び、ローマ皇帝を名乗ったものは数十人に及びました。
ローマ存亡の危機であったため、「3世紀の危機」とも呼ばれています。

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