オクタウィアヌス(アウグストゥス) ~ 五賢帝

帝政ローマ(紀元前27年~西暦476年)

オクタウィアヌスが元老院からアウグストゥス尊厳者)の称号を与えられてからが帝政ローマの始まりとされています。
帝政ローマになったからといって、元老院は廃止されず、形式上は共和政を尊重し、皇帝はプリンケプス市民の第一人者)として振舞いました。
とは言っても、全ての権限は皇帝が持つことに変わりはありません。
このような政治体制を元首政プリンキパトゥス)といいます。
共和政時代には個人が権力を握ろうとすることは悪でした。そういった個人が現れると、それに対抗する勢力(元老院など)が出てきましたが、帝政ローマ時代になると、個人による独裁が事実上容認されるようになりました。

皇帝は世襲で引き継がれることもあれば、世襲されずに別の家系となることもありました。日本の天皇のように同じ血筋が皇帝の座に居続けたわけではありません。
例えば、初代から5代皇帝まではオクタウィアヌスの家系出身の皇帝でしたが、5代皇帝ネロが自殺すると、別の家系から皇帝が選出されています。

五賢帝(西暦96年~西暦180年)

帝政開始から全盛期を迎えた五賢帝時代までの時代を、パクス=ロマーナ平和なローマ)と呼びます。この時期のローマでは大きな戦争が起きませんでした。

ここで五賢帝と呼ばれる皇帝を詳しく見ていくことにしましょう。

ネルファ(在位:96年~98年)

先代皇帝ドミティアヌスが暗殺され、ドミティアヌスに跡継ぎが居なかったため、元老院により選出されたのがネルファでした。
ネルファ以前までは、元老院は新皇帝に対し承認するのみでしたが、ネルファは元老院が選出した初の皇帝となりました。

ネルファは代々のローマ皇帝に長年仕えてきた重臣で、皇帝に就いたのは65歳のときでした。高齢であることを理由に元老院内で反対する議員も居ましたが、結局選出されています。ネルファは一時的なつなぎとして皇帝に選出された面もあったようです。それと性格が非常に温厚であったため元老院としては自分たちの言うことを聞いてくれそうで都合が良かったとも言われています。

ネルファは高齢であるため、皇帝就任後ほどなくして後継者選びに着手しましたが苦労したようです。ネルファの身内に男子が乏しく、政治経験のないものばかりだったからです。
そこで、軍の支持を全く得られていなかったネルファは、有力な軍人トラヤヌスを養子に迎え、軍の支持を得ることと引き換えにトラヤヌスを次期皇帝候補として指名したのです。

その矢先、ネルファは病気で倒れそのまま死んでしまいました。

トラヤヌス(在位:98年~117年)

ネルファの死後、絶大な軍の支持があったこともあり、何事もなくトラヤヌスが皇帝に即位しました。
トラヤヌスは初の属州出身の皇帝です。属州出身といっても属州の血を受け継いでいるわけではなく、両親はローマ人です。

トラヤヌスは、軍人としても政治家としても非常に優秀な人物でした。
内政に関しては、市民からも元老院からも支持を得ていました。
教科書で必ずと言っていいほど記載されていることですが、トラヤヌス在位中に領土はローマ史上最大になりました。

ローマ史上最大となった領土を獲得したローマでしたが、メソポタミア地方で発生した相次ぐ反乱に悩まされていました。
トラヤヌスは反乱を鎮圧するため遠征し、なんとか鎮圧に成功するのですが、老齢で体調を崩し帰路で病死してしまいました。

ハドリアヌス(在位:117年~138年)

トラヤヌスの死後、皇帝に即位したのは予め次期皇帝に指名されていたハドリアヌスでした。ハドリアヌスはトラヤヌスのいとこの息子です。

ハドリアヌスは、相次ぐ反乱を鎮圧するために多大なコストを要しているメソポタミア地方の支配権を放棄しました。そして、東方の国境防衛を強化し、大国パルティの脅威を抑え込みました。その他、脅威となりそうな国境に関しても防衛の強化を進めています。
ハドリアヌスの政策は、領土拡大路線ではなく、帝国内の安定を重要視した平和路線でした。

内政に関してめざましい成果を上げたハドリアヌスでしたが、元老院との仲は相当に悪かったようです。
理由はメソポタミア地方の支配権を放棄しことにありました。
メソポタミア地方の征服に貢献したものが元老院に居たからです。当人にとっては、命を懸けて獲得した領土を放棄するなんてありえない話でした。

元老院との険悪な仲は在位中ずっと続きましたが、138年、ハドリアヌスは別荘にて死去します。

アントニヌス・ピウス(在位:138年~161年)

次期皇帝に指名されていたのは、ハドリアヌスの養子であるアントニヌスでした。

通常は皇帝の死後に皇帝を神格化する儀式が行われるのですが、ハドリアヌスと元老院の仲は非常に悪かったので、元老院はこれを行いませんでした。

この元老院の仕打ちに対し、アントニヌスは涙を流して元老院にハドリアヌスの神格化を懇願しました。それを見た元老院は心を打たれたのでしょうか、ハドリアヌスの神格化を行うこととなりました。
このエピソードから、アントニヌスに称号「ピウス」が与えられ、アントニヌス・ピウスと呼ばれるようになりました。ピウスとは「慈悲深い」という意味です。

アントニヌス・ピウスの政策は内外ともにハドリアヌスのそれと同じ路線でした。対外遠征を行わず、帝国内の強化に努めました。

161年、約23年という皇帝史上3番目の在位期間を経て病死。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位:161年~180年)

アントニヌス・ピウスは次期皇帝に二人指名していました。
その二人とは、アントニヌス・ピウスの甥であるアウレリウスとアウレリウスの娘の結婚相手であるウェルスでした。

二人のうちどちらが皇帝になったのでしょうか?実は二人とも皇帝に即位したのです。
西暦161年~169年までは共同皇帝という位置づけでアウレリウスとウェルスが同時に皇帝を務めていました。

アウレリウスの方が圧倒的に有名なので、アウレリウスの人となりについて少し書きたいと思います。

アウレリウスは若ころからストア派哲学に没頭していて、ストア派哲学に基づく質素な生活を善としていました。
ただ、生前のアントニヌス・ピウスからは皇族らしく華やかな生活を送るべきだと指摘され、贅沢は悪だと認識しつつも次第に華やかな生活のとりこになることもあったようです。
アウレリウスの著書である「自省録」で、自分のとった行動を罪と認め、反省を記しています。
このように、マルクス・アウレリウス・アントニヌスは哲学を重んずる哲人君主として有名な皇帝でした。

では、そんなアウレリウスの政治はどうだったのでしょうか?
基本的に質素な生活を重んじていたため、民衆からの支持を得られ、内政に関してはうまくいっていました。
ところが、若いころから哲学に没頭していたアウレリウスは軍事に関しては全くのド素人でした。

そのころ、ローマ国境の周辺諸国からの攻撃が頻繁に発生していましたが、アウレリウスは有効な手を打つことが出来ませんでした。
特に、東方のパルティアによる侵攻が厳しく、連敗を余儀なくされローマ領土を次々に奪われていきました。
結局のところ、皇帝は戦争では役立たずで、奪われた領土を奪い返したのは元老院によるものでした。

戦争に関してはダメな点が多かったけど、とても尊敬されていた皇帝だったと付け加えておきたい。

西暦180年、病死。

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