今回のテーマはディオクレティアヌスとドミナートゥス(専制君主政)です。
本題に入る前に、帝政ローマのこれまでの流れを簡単に確認していきましょう。
- 紀元前27年、オクタウィアヌスが元老院からアウグストゥスの称号を受け、初代ローマ皇帝となる。プリンキパトゥス(元首政)の開始。
- 五賢帝時代にローマの最盛期を迎える。初代ローマ皇帝から五賢帝までの期間をパクス=ロマーナ(ローマの平和)と呼びます。
- 多数の軍人皇帝が乱立し混乱期を迎える。(3世紀の危機)
それでは本題に入ります。
「我こそがローマ皇帝だ!」と名乗りを上げる軍人が続々と登場し、ローマ帝国内は3世紀の危機と呼ばれる混乱期となっていました。
284年、ようやく混乱をしずめる人物が出てきました。ディオクレティアヌスです。
ディオクレティアヌスは、支配体制を強固にすべく幾つかの改革を行いました。
以下、重要ポイントです。
- 官僚制
軍事と政治の担当者を分離し、官僚制を採用した。 - ドミナートゥス(専制君主政)
ローマ皇帝の権威を高めるため自身を神格化し、官僚制を通して強力な支配体制を築いた。 - 四帝分治制(テトラルキア)
広大な領土を分割し、4人で統治した。 - キリスト教の弾圧
流行していたキリスト教を禁止した。
官僚制とドミナートゥス(専制君主政)
当時の軍人は、軍事と政治の両方を担当していました。
それに対し、ディオクレティアヌスは、軍事と政治の担当を以下の通りに分離しました。
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- 武官(軍人) ・・・ 軍事活動に専念。
- 文官(行政官) ・・・ 政治に専念。
専門知識を持って国家運営をする人を官僚、その制度を官僚制と言います。
ディオクレティアヌスは自身を神格化し、官僚制を通して独裁色を前面に出した政治体制を構築しました。
帝政ローマ後半に登場した独裁色の強い政治体制をドミナートゥス(専制君主政)と言います。
四帝分治制(テトラルキア)
ディオクレティアヌスは、広大になりすぎた領土を一人で統治・防衛するのは困難だと感じていました。
そこで、領土を分割して4人の皇帝で統治することにしました。(293年)
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- 東方正帝(ディオクレティアヌス)
- 東方副帝(ガレリウス)
- 西方正帝(マクシミアヌス)
- 西方副帝(コンスタンティウス・クロルス)
ディオクレティアヌスが統治したのは、東の地域です。
それはなぜなのか?理由があります。
一つ目の理由としては、東側が圧倒的に繫栄していたからです。
そしてもう一つ。当時、ローマ帝国にとって最も警戒すべき敵国はササン朝ペルシアでした。
その国境線の防衛が優先課題であったため、東側は重要地域だったのです。
仮にディオクレティアヌスが選択を誤り、西の地域を統治していたとしたら、国境線を破られ大半の領土を奪われていたかもしれません。
キリスト教の弾圧
キリスト教の弾圧に至った背景や理由を簡単にまとめます。
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- ローマ帝国内でキリスト教が流行していた。
- キリスト教の影響は一般市民から軍人、政治家にまで及んでいた。
- ディオクレティアヌスは、ローマ皇帝の権威が低下するのを警戒した。
ディオクレティアヌス 「キリスト教を崇拝するな。俺を崇拝しろ!」
というわけで、キリスト教徒や聖職者を拘束・処刑したり、教会を破壊するなどの弾圧を行いました。
今後、キリスト教は歴史に深く関わる重要ポイントになっていきます。
コロナートゥス
これまでの農業経営は、ラティフンディアと呼ばれる形態が採用されていました。
ところが、1世紀頃から農業経営に変化が現れます。
これまでの農業経営(ラティフンディア)
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- ローマ帝国は領土拡大の過程で、多数の奴隷を獲得。
- 農業経営者は、奴隷を安く購入し、農作業をさせる。
- 奴隷が働けなくなったら使い捨て、新たな奴隷を購入する。
1世紀頃に現れた変化
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- ローマ帝国の領土の拡大が止まる。むしろ縮小しだす。
- 新たな奴隷が獲得出来なくなる。
- 農業経営者は、奴隷の購入が困難になる。
- 土地を失った没落農民(下層市民)に土地を貸して農作業をしてもらうようになる。
このように、土地を借りて農作業をする人をコロヌス、その農業形態をコロナートゥスと言います。
農業経営は、コロヌスから地代を受け取って利益を得るという形態に変化しました。