古代ギリシアは、現在の世界に多大な影響を与えた文明の一つです。哲学、政治、文学、芸術、建築など、ギリシア人が築いた多くの成果は、数千年を経た現代においてもその輝きを失っていません。その中でも特に注目されるのは、「民主政」という政治体制です。今日、民主主義は多くの国で採用されていますが、その原型はアテナイという一つの都市国家から始まりました。
この記事では、ペリクレスの時代に完成したアテナイ民主政を中心に、ギリシアが辿った栄光と苦難の歴史を紐解きます。ペルシア戦争後、アテナイは文化的にも政治的にも最盛期を迎えましたが、その繁栄は周辺の都市国家との対立を生み、やがてペロポネソス戦争という長期の内戦を招くことになります。そして、この内戦の果てに訪れるマケドニアの台頭とギリシアの統一。そこには、激動の歴史の中で栄え、衰退し、そして新たな秩序を受け入れていくギリシアの姿が浮かび上がっていきます。
ペリクレスとアテナイ民主政の完成
ペルシア戦争後、アテナイは急速に発展を遂げ、紀元前443年から紀元前429年まで、毎年将軍職に選出され続けたペリクレスがその繁栄を主導しました。ペリクレスはアテナイの民主政を深化させた人物として知られ、アテナイを古代ギリシアの文化的・政治的中心地へと押し上げました。
彼の功績の一つとして、デロス同盟の同盟資金をデロス島からアテナイに移し、それをパルテノン神殿の建設を含む公共工事に利用したことが挙げられます。これにより、アテナイの市民は雇用機会を得ると同時に、都市は壮麗な建築物によって飾られました。
また、ペリクレスはアルコン(執政官)の就任資格を下級市民にまで拡大する法改正を行い、民主化をさらに推し進めました。これにより、従来の貴族支配体制が解体され、全市民が政治に参加する機会を得ました。ペリクレスの時代はアテナイの最盛期とされ、文化面でも劇作家ソフォクレスや哲学者ソクラテスなどが活躍しました。
ペロポネソス戦争の背景と発端
ペリクレスの改革によりアテナイは繁栄しましたが、その反面、他のポリスとの対立も激化していきます。特にデロス同盟の同盟資金を自国のために利用したことは、他の加盟ポリスからの反感を招きました。同盟を離反するポリスが現れたのはこのためです。
さらに、スパルタはアテナイの急速な台頭を警戒していました。スパルタはペロポネソス同盟を率い、アテナイに対抗する勢力を形成していました。この緊張関係が頂点に達し、紀元前431年にペロポネソス戦争が勃発しました。この戦争はデロス同盟とペロポネソス同盟の衝突であり、ギリシア全域を巻き込む大規模な内戦となりました。
ペロポネソス戦争の影響
戦争の長期化はギリシア全体に深刻な影響を及ぼしました。戦争によって農地が荒廃し、多くの市民が財産を失いました。これにより、従来は市民によって構成されていた重装歩兵の数が減少し、各ポリスは傭兵を利用するようになります。この変化はギリシア社会の軍事面における転換点といえます。
戦争中、アテナイでは疫病が大流行し、紀元前429年にはペリクレス自身もこの疫病により命を落としました。彼の死後、際立った指導者が現れず、民衆の不満を煽るデマゴーグと呼ばれる人物が台頭するようになります。彼らの煽動によってアテナイでは衆愚政治が広がり、政治の混乱が続きました。
最終的に、27年にも及ぶ戦争はアケメネス朝ペルシアの支援を受けたスパルタの勝利で終結しました。アテナイは敗北し、デロス同盟は解体されました。この戦争においてアケメネス朝がスパルタを支援した背景には、アテナイの強大化を阻止する意図がありました。アテナイは自治を許されたものの、ギリシアにおける覇権を回復することは二度とありませんでした。
マケドニアの台頭
ペロポネソス戦争後のギリシアは、ポリス間の対立が続き、外部からの侵略に対する備えが十分ではありませんでした。この混乱の中で台頭したのが、北方のマケドニア王国です。特に、フィリッポス2世の治世において、マケドニアは強力な軍事力を備え、ギリシアの諸ポリスに対する影響力を急速に拡大していきました。
フィリッポス2世はカイロネイアの戦い(紀元前338年)において、アテナイとテーバイの連合軍を撃破しました。この戦いはギリシアの歴史における重要な転換点であり、これによりマケドニアがギリシア全土を支配する基盤を築きました。
コリントス同盟の成立
フィリッポス2世は勝利後、スパルタを除く全ポリスをコリントス同盟(またはヘラス同盟)に加盟させました。この同盟はギリシア諸ポリスを統一し、ペルシア帝国への遠征を目指すものでした。ギリシアの自主性は著しく制限されましたが、統一体制のもとで一定の平和が保たれました。