ヒッタイト/ミタンニ/カッシート/エジプト新王国

紀元前15世紀頃のオリエント世界

ヒッタイトの侵攻により古バビロニア王国は滅んだが、ヒッタイトはメソポタミア地域を支配することなく撤収していった。理由は自国内の紛争により撤収せざるを得なかったとされている。
その後、メソポタミア地域にはミタンニとカッシートの2つの王国が成立した。

【紀元前15世紀頃の勢力図-ヒッタイト/ミタンニ/カッシート/エジプト新王国】

次に、紀元前15世紀以降のヒッタイト、ミタンニ、カッシート、エジプト新王国の詳細を見ていこう。

ヒッタイト

紀元前1900年頃、中央アジア付近に住んでいたインド・ヨーロッパ語族のヒッタイト人は、小アジア(アナトリア地方=現在のトルコにあたる地域)へ移動してきたとされている。
ヒッタイト人は、先住民であるハッティ人や行商にやって来ていたアッシリア人から文化を取り入れつつ、次第に小アジアを支配していく。
そして、紀元前17世紀頃、ヒッタイト王国を建国するに至った。首都はハットゥシャまたはハットゥシャシュとも呼称される(現在のボアズキョイまたはボガズキョイ)。

鉄器の製法を発明したのがヒッタイトであり、その製法は国家機密とされ、ヒッタイトが独占していた。そのため、鉄器の製法を唯一知るヒッタイトはオリエント世界で大国となった。

紀元前1595年にバビロンを攻め落としたが、国内の紛争により軍は撤収している。紀元前1531年にはバビロンを再び陥落させたが、カッシートに引き渡している。
この後、しばらくの間傑出した王が出てこず衰退していくが、紀元前1430年頃から隣国と条約や同盟関係を活発に結ぶことで再び強さを取り戻す。
世界史上、ヒッタイトは国際政治、外交における先駆者とされている。

紀元前14世紀頃、ミタンニに攻め込み首都を陥落させた。

紀元前1286年頃、領土拡大を狙うエジプトとの間でシリアをめぐって領土争いが起こる。(カデシュの戦い
この戦争の勝敗は引き分けに終わり、その際に結ばれた条約は世界最古の国際条約とされている。(当時のエジプトの王はラムセス2世
この戦争は公式の軍事記録として残されている世界最古の戦争とされる。

アッシリアの台頭により東側の防衛に力を割くことになったヒッタイトは次第に衰退していき、紀元前1190年頃、地中海やエーゲ海から攻めてきた海の民に滅ぼされた。
ヒッタイトの滅亡により鉄器の製法が周辺諸国に知れ渡るようになり、青銅器時代から鉄器時代に移行するきっかけとなった。

海の民について

紀元前1200年前後にエジプト、シリア、小アジアを攻撃して荒らしまわり、混乱を引き起こした諸種族の総称。
正確な正体は不明とされているが、ローマやギリシア方面からやってきたとされている。

ミタンニ

紀元前16世紀頃、フルリ人がメソポタミア北部に建国した王国。アッシリアを支配下に置いていた。

当初はエジプトと抗争をしていたが、政略結婚を繰り返すことでエジプトとの友好関係を維持していた。

建国当時はオリエント世界で最強の国であったが、紀元前14世紀頃、ヒッタイトに攻め込まれ首都が陥落した。

アッシリアは独立を果たし、ミタンニが支配していた領域の東部を支配した。

紀元前13世紀頃、アッシリアがミタンニの残党を滅ぼしたことでミタンニは滅亡した。

カッシート

カッシート人はメソポタミア東方のザグロス山岳地帯に住んでいた民族で紀元前2000年ごろからメソポタミアに侵入し、シュメール文明を受け入れて生活をしていた。
古バビロニア王国滅亡後、しばらく混乱状態にあったが、紀元前1500年頃、カッシート人が勢力を拡大しバビロニア地域(メソポタミア南部の地域のこと)を支配した。また、この王朝はバビロン第3王朝と呼称されることもある。

紀元前1400年頃から東方のエラムや北方のアッシリアとの国境紛争が激化していき、紀元前1225年、アッシリアとの闘いで王がアッシリアに連行されアッシリアの支配下に入った。

その後すぐにアッシリアから独立するが、エラムとの闘いで敗れ紀元前1155年に滅亡した
この敗北でハンムラビ法典等多くの財宝がエラムの首都スサに持ち去られている。

エジプト新王国

紀元前1660年頃からヒクソスの支配を受けていたエジプトだったが、紀元前1540年頃、第17王朝のイアフメス1世がヒクソスを追放したことでエジプト新王国が始まった。
イアフメス1世はさらにヒクソスを追ってシリア地方に侵攻した。これがきっかけとなり、エジプトは積極的にシリア地方への領土拡大を行っていく。

シリアへの領土拡大の過程でヒッタイトと抗争するようになり、紀元前1286年頃にカデシュの戦いが起こる。

紀元前1208年ごろに海の民から侵攻を受けるが撃退している。

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