【フランス王国の歴史】第1回十字軍

【フランス王国の歴史】第1回十字軍 世界史
【フランス王国の歴史】第1回十字軍

十字軍は、中世ヨーロッパにおける宗教的熱意と政治的思惑が交錯した壮大な歴史的出来事です。当時、イスラム勢力が支配する聖地エルサレムの奪還は、キリスト教世界の結束を高める象徴的な目標とされました。特にフランスはこの運動の中心的な役割を果たし、多くの民衆や貴族が十字軍に参加しました。本記事では、十字軍の発端からエルサレム奪還に至るまでの流れと、そこに秘められたフランスの影響力について詳しく解説します。

フランスとローマ教皇の関係

フランス王国は、ローマ教皇との協力関係を築くことを理想としていました。この関係は「助け、助けられる」互恵的なものを目指していましたが、当時のフランス王権はあまりに弱く、教皇を支えることはできませんでした。そのような中で、ローマ教皇が提唱した一大事業である十字軍は、フランスが王権を回復するきっかけとなったのです。

十字軍の発端とフランス人教皇たち

フランス人教皇シルウェステル2世(999年~1003年)は、キリスト教諸国に対し、イスラム勢力からエルサレムを取り戻すべきだと訴えました。彼が最初に十字軍を提唱した人物でしたが、その構想は実現に至りませんでした。その後、グレゴリウス7世も同様の訴えを行いましたが、これも具体化しませんでした。
十字軍の実現を果たしたのは、同じくフランス人の教皇ウルバヌス2世(1088年~1099年)でした。当時のヨーロッパは多様性ゆえに一つにまとまることが困難でしたが、アジアへの意識が高まることでヨーロッパ全体が一体感を持ち、行動に移ることができたのです。11世紀のローマ教皇たちは、このような形でヨーロッパの統一を目指していたと言えます。

イスラム勢力とエルサレムの状況

当時、エルサレムはイスラム勢力の支配下にあり、キリスト教徒による巡礼は非常に危険を伴いました。巡礼者の多くが命を落とし、無事に帰還できる者はわずかでした。1055年には、イスラム王朝であるブワイフ朝がセルジューク朝に滅ぼされ、エルサレムはセルジューク朝の支配下に入りました。その勢いはさらにビザンツ帝国にも及び、アナトリア半島(現在のトルコ)を制圧するまでに至っていました。

民衆十字軍の誕生

隠者ピエールは、教皇ウルバヌス2世にエルサレム奪還を訴え、1095年にフランスで熱烈な演説を行いました。この演説に触発された民衆は武器を手に取り、一大勢力である「民衆十字軍」を結成しました。彼らはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを経由してエルサレムを目指しました。

しかし、民衆十字軍は食料を確保するために行く先々で略奪を行い、その行為は次第にエスカレートしました。コンスタンティノープルに到着する頃には、彼らは恐れられる存在となり、ビザンツ皇帝も早急に彼らをアジアへ送り出そうとしました。しかし、小アジアに上陸したものの、セルジューク朝の反撃により敗北を喫し、コンスタンティノープルへ引き返すことを余儀なくされました。

正規十字軍の結成とエルサレム奪還

民衆十字軍が挫折する中、フランス国内ではさらに多くのカトリック教徒や諸国の貴族が集結し、正規の十字軍が編成されました。指導者の一人である下ロレーヌ公ゴドフロワ・ド・ブイヨンは、南イタリアのノルマン人と合流し、まずコンスタンティノープルを目指しました。この地で古代の芸術や文化に触れた貴族たちの中には、コンスタンティノープルを支配下に置こうと考える者もいましたが、最終的にはエルサレム奪還が優先されました。

道中でアンティオキアを陥落させると、ノルマン人指導者ボエモンが巧みに働きかけ、この地を自身の支配下に置きました。彼はその後十字軍を離脱しましたが、残る勢力は1099年にエルサレムを陥落させることに成功しました。ゴドフロワ・ド・ブイヨンがエルサレムの統治者に任命され、この勝利はキリスト教世界全体に大きな衝撃と喜びを与えました。

十字軍はフランスをはじめとするキリスト教世界の結束を強化する一方で、民衆の苦難や犠牲、略奪行為といった暗い側面も伴いました。ビザンツ帝国はフランス王を「キリスト教徒の王の中の王」と称えましたが、フランス王自身はこの戦いに直接関与していなかったのも皮肉な事実です。十字軍はその後も続けられ、ヨーロッパ史に大きな影響を与えることになりました。

十字軍の影響

十字軍の時代を通じて、女性や民衆の権利、哲学、そして自由な思考が徐々に解放されていくこととなりました。

十字軍には多数の農民が参加し、命がけで君主や貴族を守りました。農民たちはその経験を通じて、次第に自由への意識を高めていきます。そして、農民たちが集まり、自らの自治を行う「コミューン」と呼ばれる小さな自治区や自由都市が各地で誕生するようになりました。これらの自治都市では農民たちが商人や職人として生計を立て、次第に「ブルジョワジー」と呼ばれる新しい社会階層が形成されます。このブルジョワジーの中には、交易や商業で巨万の富を築く者も現れ、中世の封建的な社会構造に新たな変化をもたらしました。

また、キリスト教世界において、これまで奴隷のように扱われてきた女性たちにも、徐々に権利が認められるようになります。特に、土地や領土の相続権は長らく男性に限定されていましたが、この時期から一部の女性もその権利を主張できるようになりました。これにより、女性の社会的地位の向上が見られ、封建社会の中で新たな役割を果たすことが可能になったのです。

一方で、十字軍をきっかけに東方との接触が増え、ギリシアやオリエントの学問がキリスト教哲学に取り入れられていきました。特にフランス北部のフランドル地方や南部のアルビ地方を中心に、学問や思想の広がりが見られます。この時代には、キリスト教の教義を深く理解し、真理を追求するために古代ギリシアの学問が積極的に活用されました。その中でもアリストテレスの哲学は特に注目され、キリスト教の思想体系と並び称されるほどの重要性を持つようになりました。

フランス南部のアルビ地方は、イベリア半島、フランス、イタリアを結ぶ交通の要衝で、多様な民族が交わり、多彩な文化や思想が混ざり合う地域でした。この地では、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教が共存していたため、独自の宗教的・思想的な潮流が生まれました。その中で、カタリ派ワルドー派といった反カトリック派の勢力が台頭し、後にアルビジョワ十字軍の引き金となる宗教的対立を生む要因となりました。

反カトリック勢力の伝播

反カトリック勢力の伝播
引用元の画像を日本語化
Razvoj_bogumilstva.jpg: PLEASE COMPLETE AUTHOR INFORMATIONderivative work: Hoodinski, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

さらに、1077年の「カノッサの屈辱」では、神聖ローマ皇帝とローマ教皇の対立が表面化し、叙任権をめぐる争いへと発展していきます。その一方で、フランスとローマ教皇の関係は十字軍を通じて深まり、フランスはローマ教皇を支える主要な国としての役割を果たしていきました。

また、十字軍の影響によりフランス語は広く普及し、イングランド、シチリア、エルサレムにまで広がりました。こうしてフランスはヨーロッパ封建世界の中心的な地位を築き上げ、文化や政治、宗教の面で重要な役割を担う国となったのです。

タイトルとURLをコピーしました