【フランス王国の歴史】ルイ14世と絶対王政

【フランス王国の歴史】ルイ14世と絶対王政フランス
【フランス王国の歴史】ルイ14世と絶対王政

フランス王国の歴史において、17世紀後半は絶対王政の頂点を迎えた時期でした。三十年戦争の終結とともにフランスはヨーロッパの覇権国家への道を歩み始め、国内ではフロンドの乱を乗り越えながらルイ14世の親政が確立されました。彼の統治はフランスをかつてない繁栄へと導いた一方で、ナントの勅令廃止や度重なる戦争が国を疲弊させる要因ともなりました。

本記事では、ルイ14世統治下での戦争と外交、そしてナントの勅令廃止がフランス社会に与えた影響について詳しく見ていきます。

三十年戦争終結後のフランスと新たな動乱の胎動

ウェストファリア条約が1648年に締結され、フランスは長きにわたる三十年戦争を終結させることとなりました。この条約によってフランスはアルザス地方の一部を獲得し、神聖ローマ帝国の影響を大きく削ぐことに成功しました。これによりフランス王国は西ヨーロッパにおける覇権国家としての地位を確立しつつありましたが、国内においては政治的不安定が続いていました。

戦争中、フランス国内ではマザラン枢機卿が宰相として権力を握り、幼少のルイ14世を補佐していました。しかし戦争による財政的負担が増大する中で、フランス政府は重税を課し続け、それが地方貴族や庶民の不満を高める要因となりました。特にパリ高等法院(パルルマン)は政府の課す新たな課税に強く反発し、ここにフロンドの乱の萌芽が見られるようになります。

フロンドの乱の勃発と王権の危機

1648年、パリ高等法院が国王政府に対して新たな税制改革の撤回を要求し、王権に対抗する姿勢を見せたことで、ついにフロンドの乱が勃発しました。最初に起こったのは高等法院のフロンド(フロンド parlementaire)と呼ばれるもので、法服貴族たちが王権に挑戦し、パリ市民もこれを支持しました。

当時のフランス宮廷はパリの情勢が極めて不安定になることを恐れ、ルイ14世とマザランは一時的にパリを脱出するという屈辱を味わいました。王権の威信が失墜し、各地で反乱の動きが活発化する中、1649年には政府軍と反乱勢力の間で一時的な和解が成立しましたが、これは一時しのぎに過ぎませんでした。

続く1650年からは貴族のフロンド(フロンド des princes)が勃発しました。ここでは、コンデ公ルイ2世やロレーヌ公シャルル4世などの大貴族たちが王権に対抗し、フランス国内はさらに混乱しました。彼らはかつてのユグノー戦争の際に見られたような分裂状態を生み出し、一時的に王権を弱体化させることに成功しましたが、最終的には1653年にマザランが反乱を鎮圧し、ルイ14世は王権の強化を進める契機を得ることになりました。

ピレネー条約と対スペイン戦争の終結

フロンドの乱が終息すると、フランスは再びスペインとの戦争に集中することが可能になりました。ハプスブルク家との対立は依然として続いており、フランスは三十年戦争後もスペインとの戦闘を継続していました。

1659年、ついにピレネー条約が締結され、フランスは領土的拡大を実現しました。この条約によってフランスはルシヨン地方を獲得し、さらにスペイン王家との婚姻政策が進められることとなりました。特にルイ14世とスペイン王女マリア・テレサの結婚が合意され、後のスペイン継承戦争の布石となる重要な出来事でした。

ピレネー条約の締結によってフランスはヨーロッパにおける覇権国家としての地位をより一層強化し、ルイ14世の絶対王政確立の基盤が整えられることになったのです。

ルイ14世の親政と絶対王政の確立

1661年、マザランが死去すると、22歳になったルイ14世は正式に親政を開始しました。彼は「朕は国家なり(L’État, c’est moi)」という言葉で知られるように、フランス国内のすべての権力を自らの手に集約する絶対王政を確立しました。

ルイ14世はまず、王権に対抗しうる貴族勢力を抑えるためにヴェルサイユ宮殿の建設を開始し、多くの大貴族を宮廷に集めて監視下に置きました。また、行政の中心となる官僚制を発展させ、財務総監コルベールの指導のもとで重商主義政策を推進しました。

さらに、軍事面ではヴォーバンの要塞設計により国境防衛を強化し、対外的な戦争に備えました。こうした施策によって、フランスはヨーロッパ随一の強国となり、ルイ14世の権威は絶対的なものとなっていきました。

ルイ14世の拡張政策と対外戦争

ルイ14世は自身の治世を通じて、フランスをヨーロッパの覇権国家へと押し上げるために積極的な対外戦争を展開しました。彼の拡張政策の根底には、フランスの国境を自然の障壁まで拡大し、ハプスブルク家をヨーロッパから排除するという戦略がありました。

彼が最初に着手したのは南ネーデルラント継承戦争(1667-1668年)でした。ルイ14世は、スペイン王フェリペ4世の死後、王妃であるマリア・テレサの権利を主張し、フランドル地方への侵攻を開始しました。しかし、イングランド、スウェーデン、オランダが反フランス同盟を結成し、フランスはアーヘンの和約で妥協せざるを得ませんでした。

この戦争の経験を踏まえ、ルイ14世はさらなる軍事力増強を図り、次にオランダ戦争(1672-1678年)を開始しました。フランスは強大な軍隊を動員してオランダに侵攻しましたが、オランダは堤防を決壊させてフランス軍の進撃を阻止し、イングランドや神聖ローマ帝国の介入を招きました。この戦争はナイメーヘンの和約によって終結し、フランスはフランシュ=コンテなどを獲得しました。

さらに、ファルツ継承戦争(1688-1697年)では、ルイ14世の積極的な侵略政策が欧州諸国の強い反発を招き、フランスは神聖ローマ帝国、イングランド、スペイン、オランダなどと対峙することになりました。この戦争はレイスウェイク条約によって終結し、フランスは一部の領土を放棄しました。

ナントの勅令廃止と宗教政策

ルイ14世は国内統治においても強硬な政策を推進しました。その中でも最も影響の大きかったのは、1685年のナントの勅令廃止です。ナントの勅令(1598年)は、かつてアンリ4世がユグノー戦争を終結させるために発布したもので、フランス国内のプロテスタント(ユグノー)に一定の信仰の自由を認めるものでした。

しかし、ルイ14世は「一王、一法、一信仰」の理念を掲げ、国内のカトリック化を推し進めるためにこの勅令を廃止しました。これによりユグノーはフランス国内での信仰の自由を奪われ、多くの者がオランダやプロイセン、イングランドへと亡命することになりました。これにより、フランスは経済的にも人的資源的にも大きな損失を被りました。

スペイン継承戦争とルイ14世の晩年

ルイ14世の治世の晩年において最大の国際問題となったのがスペイン継承戦争(1701-1713年)でした。この戦争の原因は、スペイン王カルロス2世の死後、ルイ14世の孫であるフィリップ・アンジュー(後のフェリペ5世)がスペイン王位を継承したことにありました。

これにより、フランスとスペインが同じ王朝の支配下に置かれる可能性が生じたため、イングランド、オランダ、神聖ローマ帝国が結束してフランスと対峙しました。戦争は激化し、フランス軍は幾度かの敗北を喫しましたが、最終的に1713年のユトレヒト条約によって講和が成立しました。

この条約の結果、フィリップ・アンジューはスペイン王として即位することが認められましたが、フランスとスペインの王位統合は禁止され、フランスはカナダの一部をイギリスに譲渡することになりました。これにより、フランスの国際的な影響力は低下し、ルイ14世の覇権政策は限界を迎えました。

ルイ14世の遺産とその影響

1715年、ルイ14世は76歳で崩御しました。彼の治世はフランス史上最も長く、72年間にわたる統治の中でフランスはヨーロッパの中心的存在となりました。しかし、彼の絶対王政は国庫の疲弊を招き、次代のルイ15世の時代にはフランス革命へとつながる社会的矛盾が顕在化していくことになります。

また、ルイ14世の宮廷文化はヴェルサイユ宮殿の建設を通じてヨーロッパ中の宮廷に影響を与え、フランス語とフランス文化がヨーロッパ各国の外交や文学において重要な役割を果たすことになりました。

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