フランス革命後の混乱の中から登場し、ヨーロッパの覇者となったナポレオン・ボナパルト。彼は優れた軍事戦略と政治手腕を駆使してフランス第一帝政を築き、ヨーロッパ全土を席巻しました。しかし、その野望はやがて諸国の反発を招き、幾多の戦いの末に敗北し、ついにはセントヘレナ島へと流されることとなります。
本記事では、ナポレオンの皇帝即位からワーテルローの敗北までの軌跡を詳細にたどっていきます。
ナポレオンの皇帝即位とフランス帝国の成立
1804年12月2日、パリのノートルダム大聖堂において、ナポレオン・ボナパルトはローマ教皇ピウス7世の臨席のもと、自らの手で皇帝の冠を戴き、フランス第一帝政を成立させました。この儀式は、教皇による戴冠という中世以来の伝統を覆し、自らの権力を示す画期的なものでした。彼はフランス革命の理念を継承しつつも、新たな中央集権的な統治体制を築くことで、国内の安定を確保しようとしました。
帝政成立後、ナポレオンは国内の行政改革を推し進め、ナポレオン法典(フランス民法典)を制定し、法の下の平等を保証するとともに、官僚制度を整備し、国家の統治を強化しました。経済面では、フランス銀行を設立し、通貨の安定を図る一方で、農民層やブルジョワジーの支持を得る政策を推し進めました。
第三次対仏大同盟とアウステルリッツの戦い
ナポレオンの即位は、ヨーロッパ諸国に衝撃を与え、イギリス、オーストリア、ロシア、スウェーデンなどが第三次対仏大同盟を結成しました。1805年、ナポレオンはこれに対抗し、精鋭のフランス軍(グランダルメ)を率いてウルム戦役を展開し、オーストリア軍を撃破しました。
同年12月2日、ナポレオンはオーストリア皇帝フランツ2世とロシア皇帝アレクサンドル1世の連合軍と対峙し、アウステルリッツの戦い(三帝会戦)で決定的勝利を収めました。この戦いはナポレオンの軍事的天才を示すものであり、彼の戦術の巧みさと指揮能力が際立ちました。この勝利によって、オーストリアはプレスブルクの和約を締結し、フランスの覇権を認めざるを得なくなりました。
神聖ローマ帝国の解体とヨーロッパの再編
ナポレオンはアウステルリッツの勝利を機に、ライン同盟を結成し、ドイツ諸邦をフランスの影響下に置きました。1806年、神聖ローマ帝国は正式に解体され、フランツ2世はオーストリア皇帝としての地位に専念せざるを得なくなりました。
一方で、ナポレオンはイギリスの封じ込めを図り、1806年に大陸封鎖令を発布しました。この政策により、ヨーロッパ諸国とイギリスの貿易を断絶し、イギリス経済に打撃を与えることを目的としました。しかし、この封鎖政策は一部の国々の経済に悪影響を及ぼし、特にロシアとの関係悪化を招くこととなりました。
ティルジット条約とフランス帝国の最盛期
1807年、ナポレオンはプロイセンとロシアを相手に戦い、イエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を壊滅させた後、ロシアともフリートラントの戦いで決定的勝利を収めました。この結果、フランスとロシアはティルジット条約を締結し、ナポレオンはヨーロッパ大陸の覇者としての地位を確立しました。
この条約により、プロイセンは領土を大幅に削減され、フランスの影響下に置かれることとなりました。また、ナポレオンはポーランドにワルシャワ大公国を建設し、中央ヨーロッパにおける支配を強化しました。
スペイン戦争とゲリラ戦の泥沼化
1808年、ナポレオンはスペインに干渉し、国王フェルナンド7世を退位させ、代わりに自身の兄であるジョゼフ・ボナパルトをスペイン王に据えました。しかし、スペインではフランスの支配に対する抵抗が激化し、スペイン独立戦争が勃発しました。
スペインでは正規軍だけでなく、民衆がゲリラ戦を展開し、フランス軍を苦しめました。さらに、イギリスの支援を受けたウェリントン公爵率いるイギリス軍がポルトガルに上陸し、フランス軍に対する反攻を開始しました。この戦争はナポレオンにとって想定外の消耗戦となり、彼の軍事的優位を徐々に削いでいくこととなりました。
ロシア遠征とナポレオンの苦境
ナポレオンはロシアが大陸封鎖令を遵守しないことに業を煮やし、1812年にロシア遠征を決行しました。彼は60万の大軍(大陸軍)を率いてロシアに侵攻し、モスクワへと進軍しましたが、ロシア軍は焦土作戦を展開し、フランス軍を消耗させました。
1812年9月、ナポレオンはボロジノの戦いで辛勝し、モスクワに入城しました。しかし、ロシア軍は徹底抗戦の構えを見せ、フランス軍は補給路の確保に苦しみました。冬が訪れると、ナポレオンは撤退を決断しましたが、撤退中にロシア軍の反撃と厳しい寒さにより、大軍の大半を失うこととなりました。
ライプツィヒの戦いとフランス帝国の崩壊
1813年、ナポレオンはロシア遠征の失敗から立ち直るべく、再びヨーロッパの戦場に舞い戻りました。しかし、プロイセン、ロシア、オーストリア、スウェーデンなどが第六次対仏大同盟を結成し、フランス帝国に対抗しました。ナポレオンはドイツ戦線で一連の戦勝を収めましたが、1813年10月のライプツィヒの戦い(諸国民戦争)において決定的な敗北を喫しました。
この戦いでは、フランス軍は多国籍連合軍と戦い、ナポレオンの部隊は孤立し、最終的に後退を余儀なくされました。この敗北により、フランスの影響力は急速に低下し、ナポレオンはドイツ、スペイン、イタリアにおける支配を失うこととなりました。彼の軍事的優位は崩れ、フランス国内にも疲弊と不満が広がりました。
連合軍のパリ入城とナポレオンの退位
1814年、連合軍はフランス本土に侵攻し、ナポレオンはフランス領内で数々の防衛戦を展開しました。しかし、フランス軍の兵力は限界に達しており、連合軍の前進を食い止めることはできませんでした。最終的に、1814年3月31日、連合軍はパリに入城し、フランス国民は戦争の終結を求める声を強めました。
ナポレオンはフォンテーヌブロー宮殿で退位を余儀なくされ、1814年4月6日、正式に皇帝の座を降りました。その後、彼はエルバ島へと追放され、フランスは王政へと回帰し、ルイ18世が即位しました。フランス革命とナポレオン戦争の激動の時代は、ひとまず終焉を迎えたのです。
百日天下とワーテルローの戦い
しかし、ナポレオンはこのまま歴史の舞台から退場することはありませんでした。1815年3月1日、彼はエルバ島を脱出し、フランス南部のカンヌに上陸しました。彼の帰還は急速に支持を集め、ルイ18世の王政に不満を抱く国民や軍人たちは次々とナポレオンのもとに馳せ参じました。こうして、ナポレオンは再び帝位に返り咲き、百日天下と呼ばれる短期間の復活を遂げました。
しかし、ヨーロッパ諸国はナポレオンの復帰を脅威と見なし、第七次対仏大同盟を結成しました。ナポレオンは迅速に軍を再編し、ベルギーへと進軍しましたが、1815年6月18日、彼はイギリス軍とプロイセン軍の連合軍と対峙し、ワーテルローの戦いで決定的な敗北を喫しました。
この戦いでは、ナポレオンはウェリントン公爵率いるイギリス軍に対して果敢に攻勢をかけましたが、プロイセン軍の到着によって戦況が逆転し、フランス軍は総崩れとなりました。この敗北により、ナポレオンの帝政は完全に終焉を迎えました。
ナポレオンの流刑と最期
ワーテルローで敗北したナポレオンはパリへ戻り、再び退位を余儀なくされました。1815年6月22日、彼は正式に皇帝の座を降り、連合軍に投降しました。ナポレオンはイギリスの軍艦ベルロフォン号に乗せられ、最終的に南大西洋の孤島セントヘレナ島へと流刑されました。
セントヘレナ島でのナポレオンは孤独な生活を送りながら、自身の回顧録を執筆し、かつての栄光の日々を振り返りました。彼は1821年5月5日、病に倒れ、ついにその生涯を閉じました。彼の遺体は長らくセントヘレナ島に留め置かれましたが、1840年、フランス政府の要請により、彼の遺骸はアンヴァリッド廃兵院に改葬され、現在もフランスの英雄として崇められています。