16世紀末から17世紀にかけて、イングランドは宗教改革の影響を強く受けました。エリザベス1世は即位後、カトリックとプロテスタントの間で揺れ動く宗教政策を統一し、国教会を確立することで国内の安定を図りました。しかし、カトリック勢力の反発は続き、特にスコットランドのメアリー・ステュアートとの確執が国家の安定を脅かしました。
やがて、エリザベス1世の死後、王位を継いだジェームズ1世とチャールズ1世の治世では、王権神授説と議会の対立が激化し、清教徒(ピューリタン)の反発が強まりました。さらにヨーロッパでは、宗教戦争としての側面を持つ三十年戦争が勃発し、イングランドの外交にも影響を与えました。
本記事では、この時代の宗教対立と政治変動を詳しく解説します。
エリザベス1世の即位とその背景
エリザベス1世が即位したのは1558年であり、これはテューダー朝の存続にとって極めて重要な転換点となりました。前王である異母姉のメアリー1世はカトリックの復興を目指し、スペイン王フェリペ2世と結婚することでイングランドのカトリック化を推し進めましたが、その政策は国内のプロテスタント勢力の反発を招き、多くの反対派が弾圧されました。メアリー1世の治世は「ブラッディ・メアリー」と称されるほどの厳格な宗教政策の時代として記憶され、マリアン・パージによって多くのプロテスタントが処刑される事態となりました。
メアリー1世が1558年に病死すると、プロテスタントであった異母妹のエリザベスが即位しました。エリザベスは即位直後に国教会制度を確立し、1559年に統一法を制定することでイングランドの宗教的統一を目指しました。この政策は、ヘンリ8世以来のイングランド国教会の伝統を引き継ぐものであり、ローマ教皇の権威を否定しながらも一定のカトリック的要素を残す中道的なものでした。
この宗教政策はカトリック・プロテスタント双方からの反発を招き、国内の宗教対立を深めました。特にカトリック諸侯が支持するスコットランドのメアリー・ステュアートはエリザベスの王位継承権を否定し、自らが正統な王位継承者であると主張しました。このため、エリザベスはスコットランド内の親イングランド派と結びつきながらスコットランド宗教改革を支援し、ジョン・ノックスの指導のもと、スコットランドにおけるプロテスタントの影響力を強化しました。
エリザベス朝の外交とスペインとの対立
エリザベス1世の治世において、イングランドの外交政策の大きな焦点となったのが、スペインとの対立でした。メアリー1世の時代にはイングランドとスペインは友好関係にありましたが、エリザベス1世の即位により状況は一変しました。スペイン王フェリペ2世はイングランドのカトリック復興を望んでおり、エリザベスのプロテスタント政策に強く反発しました。
特にイングランドはスペインの海外植民地に積極的に干渉し、フランシス・ドレークなどの海賊船長を用いてスペインの財宝船を襲撃するなどの私掠船政策を展開しました。これはスペインの経済に大きな打撃を与え、フェリペ2世の怒りを買いました。一方、エリザベスはスペインの宿敵であるオランダ独立戦争を支援し、スペインの支配から脱しようとするネーデルラントのゲルフ派を援助しました。
この対立は1588年のアルマダの海戦で頂点に達しました。フェリペ2世はカトリック勢力を結集し、無敵艦隊(アルマダ)をイングランド侵攻のために派遣しました。しかし、イングランド海軍はジョン・ホーキンスやフランシス・ドレークの指導のもと、機動力に優れた戦術を用いて無敵艦隊を撃破しました。この勝利はイングランドの海洋覇権の確立を意味し、以後、イングランドはスペインに対抗する主要な海洋国家として成長しました。
イングランドとフランスの関係
エリザベス1世はフランスとの関係においても慎重な外交政策を展開しました。フランスではヴァロワ朝の内紛が続いており、ユグノー戦争によって国内は宗教対立に揺れていました。特にサン・バルテルミの虐殺(1572年)では、多くのユグノーが虐殺され、フランスのプロテスタント勢力は大打撃を受けました。
エリザベスはフランス国内のプロテスタント勢力を支援することで、スペインとフランスの結びつきを防ごうとしました。そのため、ナントの勅令を発布したアンリ4世と同盟関係を結び、フランスのカトリック勢力とのバランスを取ろうとしました。また、フランスとの婚姻外交も試みましたが、最終的にエリザベス1世は生涯独身を貫き、「ヴァージン・クイーン」として知られることとなりました。
エリザベス1世の時代は、宗教対立が国内外の政治に大きな影響を与えた時代でした。イングランド国教会の確立、スペインとの対立、そしてフランスとの微妙な関係の中で、エリザベスは巧みな外交と統治を行いました。アルマダの海戦の勝利によりイングランドの海洋覇権が確立され、後のイギリス帝国の基礎が築かれました。
エリザベス1世の晩年とステュアート朝への移行
エリザベス1世の晩年は、次第に国内の政治的・経済的問題が表面化する時期となりました。彼女の治世は長く続き、40年以上の統治を経て、国家は安定したものの、彼女の後継者問題が常に政治の重要な課題となりました。エリザベスには正式な後継者がなく、王位継承問題は政界に大きな不安を与えていました。
エリザベス1世は外交的な巧みさを持っていたものの、1590年代になるとスペインとの対立やアイルランド反乱の影響で国家財政が逼迫し、国民の間には不満が募っていきました。特に1594年から1603年にかけての九年戦争(ティロンの反乱)は、アイルランドにおけるイングランドの支配を大きく揺るがし、多大な軍事的・経済的負担をイングランドにもたらしました。
1603年、エリザベス1世は死去し、彼女の従兄弟でありスコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世として即位しました。これにより、イングランドとスコットランドは同じ君主を戴くこととなり、同君連合が成立しました。これによりステュアート朝が始まりました。
ジェームズ1世の統治と王権神授説
ジェームズ1世はイングランド王位を継承すると、スコットランドとイングランドの統合を目指し、中央集権的な統治を進めました。彼は王権神授説を強く信じ、国王の権力が神から授けられたものであると主張しました。このため、議会との対立が激化し、特にイングランド議会との関係は険悪になりました。
ジェームズ1世の治世では、ピューリタンとの対立が際立ちました。彼は国教会を重視し、ピューリタンの改革要求を退けました。1605年にはカトリック勢力による火薬陰謀事件が発覚し、カトリック弾圧が強化される契機となりました。
また、ジェームズ1世は財政的に困窮し、増税や特権売却を行いましたが、議会の協力を得ることができず、結果的に王権と議会の対立は深まることとなりました。
ピューリタン(Puritans)は、16世紀後半から17世紀にかけてイングランドで生まれたプロテスタントの一派であり、カルヴァン主義の影響を強く受けた宗教改革派の人々を指します。
彼らはイングランド国教会の改革をさらに進め、「純粋な」キリスト教信仰を確立しようとしました。「ピューリタン」という言葉自体が「清められた者」を意味し、彼らが国教会の儀礼や組織が依然としてカトリック的であると考え、さらなる改革を求めたことを表しています。
チャールズ1世と議会との対立
ジェームズ1世の死後、1625年にチャールズ1世が即位しました。彼は父と同様に王権神授説を信じ、議会を軽視する傾向がありました。彼の治世では特に課税問題をめぐって議会と激しく対立しました。
チャールズ1世は権利の請願(1628年)を議会から突きつけられましたが、これを無視して1629年から11年間も議会を召集しない親政を行いました。この期間、彼は国王の権力を強化する政策を進めましたが、ピューリタン革命の原因となる不満を蓄積させてしまいました。
1639年から1640年にかけての主教戦争により、チャールズ1世は戦費を賄うために議会を召集せざるを得なくなりましたが、これが後の清教徒革命(イングランド内戦)へとつながっていきました。
三十年戦争の勃発とイングランド
1618年、神聖ローマ帝国のベーメンで起きたプラハ窓外投擲事件を契機として、ヨーロッパ全土を巻き込む三十年戦争が勃発しました。戦争の初期はカトリック勢力の優位に進みましたが、後にフランスやスウェーデンの介入により、戦局が大きく変動しました。
イングランドは直接的にはこの戦争に積極介入しませんでしたが、プロテスタント勢力を支援するために財政的・外交的な援助を行いました。特に、チャールズ1世の妃がフランス王家のカトリック出身であったため、国内のプロテスタント勢力からは批判の声が上がりました。
三十年戦争は1648年のウェストファリア条約によって終結し、神聖ローマ帝国の分裂が進み、ヨーロッパの勢力バランスが大きく変動しました。この条約により、主権国家体制の確立が進み、後の国際関係の枠組みが形成されました。
まとめ
エリザベス1世の死後、イングランドはステュアート朝のもとで王権と議会の対立が深まり、次第に国内の政治不安が増大していきました。ジェームズ1世、チャールズ1世の統治を経て、最終的にはピューリタン革命という形で王権に対する議会の挑戦が本格化することとなります。
一方、ヨーロッパ全体では三十年戦争が勃発し、国際的な宗教戦争の時代が到来しました。この戦争の結果、ウェストファリア条約が結ばれ、近代的な国家体制が整備されていきました。
イングランドはこの変革の時代において独自の政治体制を模索し、次の時代には清教徒革命、王政復古、そして名誉革命という新たな局面を迎えることになります。