14世紀のヨーロッパは動乱の時代でした。その中でもフランス王国とイングランド王国の間で繰り広げられた百年戦争は、中世を終焉へと導く重大な戦争として歴史に刻まれています。この戦争は、フランス王位継承をめぐる対立を発端とし、単なる王家同士の争いではなく、封建社会の構造変化や軍事技術の革新、そして両国の政治体制の変容を引き起こしました。クレシーやポワティエの戦い、アジャンクールでの衝撃的な敗北、そしてジャンヌ・ダルクの登場によるフランス軍の復活など、戦局は幾度も転換を迎えました。
本記事では、この百年戦争の発端から終結までを詳細に解説し、その背景や歴史的意義を深く掘り下げていきます。
百年戦争の勃発と初期の展開
フランス王国とイングランド王国の間における長き戦いとして知られる百年戦争は、1337年に勃発し、その後約1世紀にわたって続きました。この戦争の背景には、封建制の構造的な問題、王位継承をめぐる対立、経済的要因、さらには戦術や軍事技術の変遷が深く関与しており、単なる戦争ではなくヨーロッパ中世社会の変容を促す大きな契機となりました。
直接の発端は、フランス王フィリップ6世がイングランド王エドワード3世からフランス王位の請求を退け、ガスコーニュの封土を没収したことでした。エドワード3世は、母方の血統を理由にフランス王位継承権を主張し、これに反発したフィリップ6世がヴァロワ朝の正統性を主張して対立が決定的となりました。
フランス国内の諸侯は、カペー朝の断絶を受けてフィリップ6世を擁立しましたが、イングランド側はこの選択を認めず、エドワード3世は自らがフランス王の正統な後継者であると宣言し、戦争が本格的に始まりました。この争いは単なる両国間の戦争にとどまらず、フランドル地方やナバラ王国、ブルゴーニュ公国などの諸侯も介入し、ヨーロッパ各地を巻き込む大規模な戦争へと発展していきました。
クレシーの戦いと戦術の変革
百年戦争初期において、イングランド軍はロングボウを駆使した戦術でフランス軍に対して優位を確立しました。その象徴的な戦いが1346年のクレシーの戦いであり、この戦闘は中世ヨーロッパにおける戦術変革の転機となりました。
フランス軍は重装騎兵を主力とした伝統的な戦法を採用していましたが、イングランド軍はロングボウ部隊を巧みに配置し、騎士の突撃を迎え撃つ陣形を整えました。イングランド軍は兵を3列に配置し、前線には弓兵を、中央には歩兵と騎士を配備することで、フランス軍の攻撃を効果的に防ぎました。
フランス軍は数的には圧倒的でしたが、指揮系統の混乱と地形の不利も相まって統制の取れない攻撃を繰り返し、そのたびにイングランド軍の弓兵によって多くの騎士が討ち取られました。結果としてフランス軍は大敗を喫し、当時の戦闘様式において重装騎兵の時代が終わりを迎えつつあることが明らかになったのです。
この戦いの後、イングランド軍はフランス北部の要所を次々と占領し、1356年にはポワティエの戦いで再びフランス軍に大勝します。この戦いでは、イングランドの黒太子エドワードが中心となり、フランス王ジャン2世を捕虜とするという大戦果を挙げました。
ブレティニー条約とその影響
1359年、イングランド軍はフランスの首都パリへ進撃しましたが、パリ市内の防御が堅固であったため、攻撃を断念しました。その結果、翌1360年にブレティニー条約が締結され、フランスとイングランドは一時的な和平を迎えることになります。
この条約の主な内容は、イングランド側に有利な条件が多く含まれていました。まず、イングランド王はフランス王位請求権を放棄する代わりに、アキテーヌ公領の完全な主権を獲得しました。さらに、イングランドが占領した領土の多くが正式にエドワード3世の支配下に置かれ、フランスは巨額の身代金を支払うことで捕虜となっていたジャン2世の解放を実現しました。
しかし、この和平は長くは続きませんでした。ジャン2世の死後、フランス王位を継承したシャルル5世は戦力を再編し、イングランド軍に対する反攻を開始します。彼の治世下でフランスは徐々に勢力を回復し、ロングボウの脅威を減らすために機動力の高い戦術を採用し始めました。
ワット・タイラーの乱とイングランドの混乱
百年戦争が続く中で、イングランド国内では大きな社会不安が生じました。特に14世紀後半のペスト流行によって人口が激減し、労働力の減少による農村経済の混乱が顕著になりました。この影響で農民たちは生活苦に陥り、封建領主からの重税や労役に対する不満が爆発することになります。
その象徴的な出来事が1381年のワット・タイラーの乱でした。この農民反乱は、若干14歳のリチャード2世の治世下で発生し、特に南東部のケントやエセックスで大規模な蜂起が起こりました。反乱の原因は人頭税の導入であり、これは戦費調達のために国王政府が課した新たな税制度でした。
反乱軍はロンドンへ進軍し、サヴォイ宮殿を焼き討ちし、王室の官僚を殺害するなど一時的に都市を占拠しました。しかし、リチャード2世は巧妙な策略で反乱指導者ワット・タイラーを謀殺し、蜂起を鎮圧しました。この反乱の鎮圧により、イングランドの封建社会は一層不安定になり、王権に対する民衆の不満が高まることになります。
ランカスター朝の成立とアジャンクールの戦い
百年戦争の最中、イングランド国内では政治的な変動が相次ぎました。1389年にリチャード2世が親政を開始しましたが、彼の専制的な統治と貴族との対立は次第に深刻化し、1399年には従兄であるヘンリー・ボリングブロークによって廃位されました。ヘンリーはヘンリー4世として即位し、ここにランカスター朝が成立しました。
ヘンリー4世の治世では国内の不安定な状況が続きましたが、彼の息子であるヘンリー5世は強力な指導力を発揮し、フランスとの戦争を再開しました。彼の軍事的手腕が最も発揮されたのが1415年のアジャンクールの戦いです。この戦いでイングランド軍は、数において圧倒的に不利な状況ながら、ロングボウ部隊を駆使してフランス軍を壊滅させました。
アジャンクールの勝利はイングランドに大きな勢いをもたらし、以降フランス北部の支配を拡大しました。この結果、1420年にはトロワ条約が結ばれ、フランス王シャルル6世の娘キャサリン・オブ・ヴァロワとヘンリー5世の結婚が決定し、ヘンリー5世がフランス王位の継承者として認められることになりました。
フランスの反撃とジャンヌ・ダルクの登場
しかし、ヘンリー5世は1422年に急逝し、幼いヘンリー6世が即位すると、イングランドの統治は不安定になりました。一方、フランス側ではシャルル7世が王位を主張し、フランス国内の抵抗勢力が活発化します。その中でも特に重要な役割を果たしたのがジャンヌ・ダルクでした。
1429年、ジャンヌ・ダルクはシャルル7世に謁見し、フランス軍の指導的立場を与えられました。彼女の指揮のもと、フランス軍はオルレアンの包囲戦で大勝利を収め、戦局は一変しました。彼女の活躍により、シャルル7世はランスで戴冠し、正統なフランス王としての地位を確立することができました。
しかし、1430年にジャンヌ・ダルクはブルゴーニュ公国の軍に捕らえられ、最終的にイングランド側へ引き渡されました。翌1431年、彼女は異端審問によって火刑に処せられましたが、その後のフランス軍の勢いは衰えることなく続きました。
百年戦争の終結とその影響
ジャンヌ・ダルクの死後も、フランス軍は勢いを維持し、シャルル7世のもとで組織的な軍制改革が進められました。フランスはシャルル7世の軍制改革によって常備軍を整備し、戦力を強化していきました。
その後、フランス軍は次々とイングランド軍を駆逐し、1453年のカスティヨンの戦いで決定的な勝利を収めました。この戦いをもって、イングランドはフランス本土から完全に撤退し、ここに百年戦争は事実上終結しました。
百年戦争の終結により、フランスでは王権が強化され、封建領主の力が相対的に弱まりました。一方、イングランドでは戦争の長期化と国内の対立が影響し、後の薔薇戦争へと繋がる政治的不安定が生じました。
百年戦争は単なる国家間の戦争ではなく、中世から近世へと移行する過程においてヨーロッパの社会構造を大きく変えた出来事であり、フランスとイングランド双方の歴史に深い影響を与えました。