17世紀のイングランドは、政治・宗教・国際関係が大きく揺れ動いた激動の時代でした。三十年戦争の終結はヨーロッパの国際秩序を再編し、イングランドもまた内政において変革の時を迎えました。王権神授説を掲げるチャールズ1世と議会の対立は深まり、やがて清教徒革命へと発展します。その後、共和政を経て再び王政復古が行われるも、専制を志向するジェームズ2世の治世がさらなる混乱を招きました。そして、1688年の名誉革命により、イングランドは立憲君主制への道を歩み始めます。
本記事では、この時代の出来事を詳細に追いながら、いかにしてイングランドが近代国家への道を開いたのかを解説します。
新たな国際情勢とイングランド
三十年戦争の終結はヨーロッパの国際秩序を一変させました。ウェストファリア条約によって神聖ローマ帝国の政治的分裂が固定化され、フランスがハプスブルク家に対抗する新たな覇権国家として台頭し、オランダとスウェーデンも戦争の勝者として国際的地位を確立しました。このような状況のなかで、イングランドは大陸の動向を注視しつつ、内政においても激動の時代を迎えることになります。
ステュアート朝の治世は、王権と議会の対立が顕著となり、やがて清教徒革命(イングランド内戦)、共和政の樹立、王政復古へと展開していきました。こうした一連の出来事は、イングランドの政治構造を大きく変容させ、絶対王政の確立とは異なる道を歩む契機となりました。
チャールズ1世の専制と議会との対立
ジェームズ1世がスコットランド王としての経験を引き継ぎながらも、イングランドでは「王権神授説」に基づく専制政治を志向したため、ピューリタンを中心とする議会としばしば対立しました。そしてその息子であるチャールズ1世もまた父の政策を継承し、強権的な統治を進めました。
チャールズ1世は1625年に即位すると、財政難を解決するために度々議会を招集しましたが、議会は国王の専制に強く反発し、1628年には権利の請願を提出して課税権の制限や法の支配の尊重を求めました。しかし、国王はこれを無視し、1629年には議会を解散し、その後11年間にわたり議会を開かない「親政」を行いました。この時期に国王は、船舶税をはじめとする課税を強行し、反対者を星室裁判所で裁くなど、専制政治をさらに強化しました。
スコットランドとの対立と長期議会の成立
チャールズ1世の宗教政策もまた問題を引き起こしました。彼はカトリック的要素を持つ礼拝儀式を強制しようとしたため、長老派(プレスビテリアン)を信仰するスコットランドが激しく反発し、1637年には国民盟約(コヴェナンター)を結んで国王に抵抗しました。こうして主教戦争が勃発し、戦費を捻出する必要に迫られたチャールズ1世は、1640年に議会を召集しましたが、短期間で解散しました(短期議会)。しかし、その後も戦争は続き、国王は再び議会を招集せざるを得なくなり、ここで長期議会(1640-1653年)が開かれました。
長期議会では、王権の抑制を求める声が一層強まり、国王の側近であるストラフォード伯爵や大主教ロートを処刑するなど、王党派に対する圧力が加えられました。さらに、三箇条決議が採択され、国王の同意なしに議会を解散できないことが明文化されるなど、国王の権限は大きく制限されました。
イングランド内戦の勃発
こうした中、1642年に国王派(王党派)と議会派(ピューリタン・円頂党)の対立が決定的となり、イングランド内戦が勃発しました。国王派は主に北部および西部の貴族や地主を支持基盤とし、議会派はロンドンを中心とした商工業者や独立派のピューリタンから支持を受けていました。
戦争初期は王党派が有利に進めましたが、議会派は軍制改革を行い、オリヴァー・クロムウェルの指導のもと鉄騎隊を組織し、1645年のネイズビーの戦いで決定的な勝利を収めました。そしてチャールズ1世は逃亡を試みたものの捕らえられ、1649年には王政裁判にかけられて処刑されました。
共和政の成立とクロムウェルの統治
チャールズ1世の処刑後、イングランドは共和政(コモンウェルス)を宣言し、国王なき国家体制が成立しました。議会はランプ議会として存続しましたが、権力闘争が続き、最終的にクロムウェルが護国卿(ロード・プロテクター)に就任し、軍事独裁色を強めました。
クロムウェルは、アイルランドやスコットランドに侵攻し、これらの地域を厳しく統制するとともに、1651年には航海法を制定し、オランダとの貿易競争を激化させました。こうして第一次英蘭戦争が勃発し、イングランドは海洋覇権を巡る争いに本格的に参入しました。
王政復古への道
クロムウェルの死後、その息子リチャード・クロムウェルが護国卿を継ぎましたが、政治的手腕を欠いていたため、軍部と議会の対立が再燃しました。1660年、軍の主導で王政復古が進められ、亡命していたチャールズ2世が帰国して即位しました。
このように、三十年戦争の終結後、イングランドでは王権と議会の対立が激化し、やがて内戦を経て共和政が成立し、その後再び王政が復活するという劇的な展開をたどりました。この過程で、絶対王政の強化ではなく、立憲政治の基盤が築かれていったことが、フランスや他のヨーロッパ諸国との大きな違いとして注目されます。
チャールズ2世の治世と議会との関係
1660年、チャールズ2世が即位し、イングランドは王政復古を迎えました。彼は父チャールズ1世の失敗を教訓にしつつも、王権の回復を目指しました。即位後、仮議会(コンヴェンション議会)が開かれ、国王の権威を回復する一方で、議会の権利も一定程度認められました。
チャールズ2世の統治下では、クラレンドン法典と呼ばれる一連の法律が制定され、国教会の復興が図られました。これにより、ピューリタンやカトリック教徒に対する厳しい制限が課され、宗教的対立が再燃しました。
対外政策と英蘭戦争
チャールズ2世の治世では、イングランドはヨーロッパの国際政治において重要な役割を果たしました。特に、貿易と海洋覇権をめぐりオランダとの対立が続きました。1651年にクロムウェル政権が制定した航海法はオランダの海運業に打撃を与え、両国の緊張を高めました。その結果、第二次英蘭戦争(1665-1667年)が勃発しましたが、イングランドは戦争で大きな損害を被り、1667年のブレダ条約でオランダに有利な形で終結しました。
その後、チャールズ2世はフランスと結び、1672年に第三次英蘭戦争を開始しました。彼はルイ14世と密かにドーヴァー密約を結び、フランスの支援を受ける代わりにカトリック復興を目指しました。しかし、この戦争もまた決定的な勝利を収めることができず、1674年に講和が成立しました。
宗教対立とジェームズ2世の即位
チャールズ2世には男子の嫡子がいなかったため、弟のジェームズ2世が1685年に即位しました。彼は公然とカトリックを支持し、信仰の自由宣言を発布してカトリックと非国教徒に寛容な政策を取りました。しかし、この政策は国教会派や議会の強い反発を招きました。
ジェームズ2世は専制的な統治を進め、軍隊や官僚機構にカトリック教徒を多数登用するなど、国教会派との対立を深めました。1688年、ジェームズ2世に男子が誕生すると、王位がカトリックの血統に引き継がれることを恐れたトーリー党とホイッグ党の指導者たちは、オランダ総督でありプロテスタントのウィリアム3世に助けを求めました。
名誉革命とステュアート朝の終焉
1688年、名誉革命が勃発しました。ウィリアム3世とその妻でジェームズ2世の娘であるメアリー2世が軍を率いてイングランドに上陸すると、ジェームズ2世はほぼ無抵抗のままフランスへ亡命しました。
1689年、ウィリアム3世とメアリー2世は権利の宣言を受け入れ、国王に即位しました。この際、権利の章典(Bill of Rights)が制定され、国王は議会の同意なしに課税や法律の停止ができないことが明文化されました。この出来事によって、イングランドの立憲君主制が確立し、王権は大幅に制限されることになりました。
影響とその後の展開
名誉革命の結果、ステュアート朝は終焉を迎え、イングランドは議会主導の政治体制へと移行しました。その後、1701年には王位継承法が制定され、カトリック教徒が王位に就くことを禁止する法律が確立しました。
これにより、1714年にステュアート朝最後の君主アン女王が崩御すると、ハノーヴァー朝が開かれ、イングランドは新たな時代へと突入しました。こうして、三十年戦争後から名誉革命、さらにはステュアート朝の終焉に至るまでの時代は、イングランドにとって政治・宗教・国際関係の面で大きな転換点となったのです。