イングランド王国の歴史において、11世紀は激動の時代でした。1042年、デーン朝が終焉し、エドワード懺悔王の即位によってウェセックス王家が復活しました。しかし、1066年のエドワード王の死後、王位継承を巡る争いが勃発し、イングランドは大きな変革を迎えます。
ヘイスティングズの戦いを経てウィリアム1世が王位を掌握すると、イングランドにはノルマン人の統治が始まり、封建制度が確立されていきました。
本記事では、ウェセックス王家の復活からノルマン朝の成立と終焉までの流れを詳しく解説していきます。
エドワード懺悔王の即位とウェセックス王家の再興
クヌート大王の死後、その子であるハーデクヌーズが即位しましたが、彼は短命に終わり、1042年にはウェセックス王家出身のエドワード懺悔王が王位に就くこととなりました。これにより、デーン朝の支配が終焉し、アングロ・サクソン系の王統が復活することとなりました。エドワードはかつてノルマンディーに亡命していた経験があり、宮廷にはノルマン系貴族が多く登用されることになります。これが後のノルマン・コンクエストの伏線となります。
エドワード王の治世において最も権勢を誇ったのがゴドウィン伯でした。彼はイングランドで最も有力な貴族であり、エドワードの王妃エディスの父でもありました。しかし、エドワードは王権を強化するために、ゴドウィン伯の影響力を抑えようとし、一時的に彼を失脚させるものの、結局ゴドウィン伯は復権し、その死後は息子のハロルド・ゴドウィンソンがその地位を継承しました。
エドワード懺悔王の死と王位継承問題
1066年、エドワード懺悔王が後継者を明確に定めることなく崩御すると、イングランドの王位を巡る争いが勃発しました。エドワードの死後、ウィタン(貴族会議)はゴドウィン伯の息子であるハロルド・ゴドウィンソンを王に選出し、彼はハロルド2世として即位しました。しかし、これに異を唱えたのがノルマンディー公ギヨーム(のちのウィリアム1世)でした。
ウィリアムはかつてエドワード懺悔王から王位継承の約束を受けたと主張し、さらにハロルド自身がかつてノルマンディーを訪れた際にウィリアムへの忠誠を誓ったとされる証拠を提示しました。これにより、ウィリアムはイングランド遠征の準備を進めることとなります。一方で、ノルウェー王ハーラル3世(ハーラル・ハルドラーダ)もまた、かつてのイングランド王であったクヌート大王の血筋を根拠に王位を主張し、北方から侵攻を開始しました。
スタンフォード・ブリッジの戦い
ハーラル・ハルドラーダは1066年9月、ヨークシャー地方に上陸し、スタンフォード・ブリッジの戦いにおいてハロルド2世と激突しました。ハロルド2世率いるイングランド軍は激戦の末、ハーラル・ハルドラーダを討ち取り、ノルウェー軍を壊滅させました。しかし、この戦いでイングランド軍は大きな損害を受け、北方での戦いの後、すぐに南へ向かう必要に迫られることになります。
ノルマン・コンクエストとヘイスティングズの戦い
ハロルド2世がスタンフォード・ブリッジの戦いで勝利を収めたわずか数日後、ウィリアム率いるノルマン軍がペヴェンジーに上陸しました。そして、1066年10月14日、ヘイスティングズの戦いが勃発しました。
この戦いにおいて、ウィリアムの騎兵戦術と弓兵による攻撃がイングランド軍を苦しめました。イングランド軍はシールド・ウォール(盾の壁)を形成し、当初は優勢でしたが、ウィリアムの戦略的な偽退却によって陣形を崩され、最終的にはハロルド2世が戦死し、イングランド軍は壊滅しました。
ウィリアム1世の戴冠とノルマン朝の成立
ヘイスティングズの戦いに勝利したウィリアムはロンドンへ進軍し、1066年12月25日にウェストミンスター寺院で戴冠し、ウィリアム1世としてノルマン朝を開きました。これにより、イングランドはノルマン貴族による支配へと移行し、封建制度が確立されていきます。
ウィリアムは征服後、ドゥームズデイ・ブック(土地台帳)を作成し、イングランド全土の土地所有状況を詳細に記録しました。これにより、彼の支配を確固たるものとし、ノルマン貴族に広大な領地を分配しました。また、ノルマンディー様式の城塞が次々と建設され、その象徴的な存在がロンドン塔でした。
このようにして、ウェセックス王家の復活からノルマン朝成立までの間に、イングランドは大きく変貌を遂げ、封建的支配体制が確立されることとなりました。
ウィリアム1世の統治と封建制度の確立
ウィリアム1世(ウィリアム征服王)の統治は、イングランドの政治・社会構造を大きく変革するものでした。彼は征服後、封建制度を導入し、忠誠を誓ったノルマン貴族に土地を分配しました。この統治体制の特徴は、領主と臣下の双務的契約にあり、王が貴族に土地を与え、その代わりに軍役と貢納を義務付けました。
また、ウィリアムはドゥームズデイ・ブック(土地台帳)を1086年に編纂し、全国の土地所有状況を詳細に記録しました。これは租税徴収を効率化し、王権を強化するための画期的な政策でした。さらに、ノルマン人の支配を強固にするために、モット・アンド・ベーリー城を各地に建設し、治安維持に努めました。
ウィリアム2世と王権の強化
ウィリアム1世の死後、ウィリアム2世(ルーファス)が王位を継ぎました。彼は強引な課税政策と王権の強化を進めましたが、貴族や聖職者との対立を深めました。特に、カンタベリー大司教アンセルムスとの確執は有名で、王の強権的な支配が教会との摩擦を生みました。
ウィリアム2世は1100年に狩猟中の事故で急死し、その弟であるヘンリー1世が王位を継承しました。ヘンリー1世はコモン・ロー(慣習法)の基礎を築き、行政改革を進めました。
ノルマン朝の終焉
ヘンリー1世の死後、王位継承問題が発生しました。彼の唯一の嫡出子であるマチルダは女性であったため、多くの貴族がこれを認めず、代わりにヘンリー1世の甥であるスティーブンが王位を主張しました。この結果、無政府時代(The Anarchy)と呼ばれる内戦が勃発しました。
スティーブンは1135年に即位しましたが、彼の統治は不安定でした。マチルダはフランスのアンジュー伯ジョフロワと結婚しており、その子であるヘンリー・プランタジネット(後のヘンリー2世)を王位継承者として擁立しました。これにより、イングランド国内では王位を巡る激しい戦争が続きました。
この内戦は1153年にウォリンフォード協定が結ばれるまで続きました。この協定により、スティーブンは自身の死後、マチルダの息子であるヘンリー・プランタジネットを王位継承者とすることを認めました。翌年、スティーブンが死去し、1154年にヘンリー2世が即位し、こうしてノルマン朝は終焉を迎え、プランタジネット朝が成立しました。
ノルマン朝の終焉は、単なる王朝交代にとどまらず、イングランドの統治体制にも大きな影響を与えました。ヘンリー2世は法制度の改革を進め、王権を強化する一方で、フランスの広大な領土を統治することでイングランドとフランスの関係に新たな局面をもたらしました。こうして、ノルマン人の影響を受けた統治体制は、新たなアンジュー帝国の形成へと発展していくこととなるのです。