【イングランド王国】百年戦争後のイングランド~薔薇戦争から宗教改革まで

【イングランド】百年戦争後のイングランド~薔薇戦争から宗教改革まで世界史
【イングランド】百年戦争後のイングランド~薔薇戦争から宗教改革まで

百年戦争の終結は、イングランド王国にとって新たな時代の幕開けとなりました。長年にわたるフランスとの戦いが終わったことで、国内の権力闘争が表面化し、やがて薔薇戦争という血みどろの内戦へと発展します。ヨーク家とランカスター家の王位争奪戦は、イングランドの政治秩序を大きく揺るがし、最終的にテューダー朝の成立へとつながっていきました。そして、新王朝を築いたヘンリー7世の息子、ヘンリー8世の治世において、宗教改革というさらなる激動の時代が訪れます。

本記事では、百年戦争終結後のイングランドがどのように変遷を遂げたのかを、政治・宗教・外交といった視点から詳細に解説し、国家としての形成過程を振り返ります。

百年戦争終結後のイングランド王国と薔薇戦争の勃発

百年戦争が1453年に終結すると、イングランド王国は深刻な内政不安に直面しました。長年にわたる対フランス戦争による莫大な戦費の負担と、それに伴う国内経済の疲弊、さらには戦場となったフランス領を失ったことによる貴族たちの動揺が重なり、政治的対立が深刻化しました。こうした状況の中で、ランカスター家ヨーク家の間で王位を巡る権力闘争が激化し、やがて薔薇戦争が勃発することになります。

百年戦争末期のイングランド王ヘンリー6世は、精神不安定で統治能力に欠ける人物であり、その治世下では王権が弱体化していました。彼の王妃であるマーガレット・オブ・アンジューは積極的に政務を執り行いましたが、王の無力さを補うには至らず、国内の貴族勢力の間で不満が高まります。その中で、王家の分裂が決定的となったのが1455年に起こった第一次セント・オールバンズの戦いであり、これをもって本格的な内戦が始まりました。

薔薇戦争は、ランカスター家の象徴である赤薔薇と、ヨーク家の象徴である白薔薇の対立に由来する名称であり、両家の間で数十年にわたる戦闘が繰り広げられました。ヨーク家の指導者であったリチャード・オブ・ヨークは、ヘンリー6世の精神的な不安定さと王妃マーガレットの専横に反発し、王位を奪取しようとしましたが、1460年のウェイクフィールドの戦いで戦死しました。しかし、彼の息子であるエドワード4世が勢力を盛り返し、1461年のタウトンの戦いで決定的な勝利を収めることでヨーク家が王位を掌握し、ヘンリー6世は一時廃位されることとなりました。

エドワード4世の治世はヨーク朝の成立を意味し、国内の安定が期待されましたが、彼の死後、弟のリチャード3世が王位を奪取したことで事態は再び混迷を極めました。リチャード3世は、甥であるエドワード5世とその弟をロンドン塔に幽閉し、結果として「ロンドン塔の王子たち」と呼ばれる悲劇を生むこととなりました。彼の即位は広く疑念を持たれ、多くの貴族が反発したため、ヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世)がランカスター派の支持を得て対抗しました。そして1485年のボズワースの戦いにおいてリチャード3世を討ち取り、テューダー朝が成立することになります。

テューダー朝の成立と中央集権化の進展

ヘンリー7世が即位すると、長年の内戦で疲弊したイングランド王国の安定化を図るために様々な改革を行いました。まず彼は、王権を強化するために星室庁を活用し、強大な貴族たちの力を抑え込みました。星室庁は特に反乱の恐れがある貴族に対して厳しく対処する機関として機能し、これにより国内の秩序が徐々に回復していきます。

また、財政面でもヘンリー7世は優れた手腕を発揮しました。百年戦争や薔薇戦争によって著しく衰退していた王室財政を再建するために、彼は封建税の強化や貿易振興策を推進しました。特にイングランドの羊毛産業を活性化させ、ブルージュやアントワープなどのフランドル地方との貿易関係を強化し、商業の発展を促しました。この政策によって、イングランド経済は徐々に復興し、王室の財政基盤も安定していきました。

対外政策においては、フランスやスペインとの関係を慎重に調整しながら、イングランドの国際的地位を強化することに努めました。特に彼は、息子のアーサー王子をスペインのカスティリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の娘であるキャサリン・オブ・アラゴンと結婚させることで、スペインとの外交的結びつきを強めました。この結婚同盟は、イングランドがヨーロッパの大国間で有利な立場を確保するための戦略的な一手でしたが、アーサー王子が早世したことで後に大きな問題を引き起こすことになります。

ヘンリー7世の治世は、戦乱の世を終わらせ、安定した統治を確立したことで高く評価されますが、彼の死後、息子のヘンリー8世が王位を継ぐと、イングランドの歴史はさらに大きな転換期を迎えることとなりました。

ヘンリー8世の即位とイングランド宗教改革

ヘンリー7世の死後、1509年に即位したのがヘンリー8世でした。彼は若く精力的な王として、フランスとの戦争や外交政策に積極的に関与し、また自身の結婚問題を通じてイングランド史上最大の宗教的変革を引き起こすことになります。

彼の最初の王妃は、父の代から婚約が決まっていたキャサリン・オブ・アラゴンでした。しかし、二人の間に男子の後継者が生まれなかったことから、ヘンリー8世は離婚を望むようになります。しかし、当時の教皇クレメンス7世はこれを認めませんでした。これは、キャサリンの甥であり神聖ローマ皇帝でもあったカール5世の影響を受けていたためでした。

ヘンリー8世はこれに強く反発し、1534年に首長法(国王至上法)を成立させることで、ローマ教皇の権威から独立し、イングランド国教会を創設しました。これによって、イングランドはカトリックから離れ、国王が宗教の最高権威を持つこととなりました。この宗教改革によって、修道院の財産が没収され、王室の財政を強化する結果となりました。また、国内のカトリック勢力との対立も深まり、反対者は処刑されるなど、社会不安も増大しました。

ヘンリー8世は最終的に6度の結婚を行い、その中で有名な王妃としては、アン・ブーリンやジェーン・シーモアが挙げられます。特にアン・ブーリンとの結婚によって生まれたのが、後の女王エリザベス1世であり、ジェーン・シーモアとの間に生まれたのが、後に即位するエドワード6世でした。

ヘンリー8世の死とその後の宗教政策の変遷

1547年にヘンリー8世が死去すると、その息子であるエドワード6世が王位を継承しました。エドワード6世はわずか9歳で即位したため、実権は摂政であるサマセット公エドワード・シーモアとノーサンバーランド公ジョン・ダドリーが握ることになります。彼らの治世において、イングランドはより本格的なプロテスタント化を進め、1549年の一般祈祷書(ブック・オブ・コモン・プレイヤー)の導入によって、礼拝が英語で行われるようになりました。

しかし、エドワード6世は病弱であり、1553年にわずか15歳で死去すると、カトリックの復権を目指すヘンリー8世の長女であるメアリー1世が即位しました。メアリー1世は敬虔なカトリック信者であり、スペイン王フェリペ2世と結婚し、ローマ教皇との関係を修復することでカトリックの再興を試みました。彼女の治世では、プロテスタントへの弾圧が強化され、多くの宗教改革派が処刑されました。このことから彼女は「ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)」と呼ばれるようになりました。

エリザベス1世の即位と宗教の安定化

1558年にメアリー1世が死去すると、異母妹であるエリザベス1世が即位しました。彼女は1559年の統一法(宗教統一法)を制定し、イングランド国教会を再び確立しました。エリザベス1世の宗教政策は、プロテスタントとカトリックの対立を調和させるものであり、比較的寛容な姿勢を取りました。しかし、スペインとの対立が深まり、やがて1588年のアルマダの海戦へと発展していくことになります。

エリザベス1世の時代は、イングランドが大国へと成長する転換期であり、また後のイギリス帝国の礎を築く時代でもありました。彼女の治世については、次の時代へと続いていくことになります。

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