【イングランド王国】プランタジネット朝の興亡

【イングランド王国】プランタジネット朝の興亡世界史
【イングランド王国】プランタジネット朝の興亡

12世紀から13世紀にかけてのイングランドは、大きな変革の時代を迎えました。プランタジネット朝の成立とともに、広大なアンジュー帝国が形成され、フランス王との激しい対立が始まります。リチャード獅子心王の第三回十字軍、ジョン王の失政とマグナ・カルタの制定、そして王権と貴族の対立を背景に、イングランドは封建制度の変革を迫られました。

本記事では、ヘンリー2世からエドワード3世に至るまでの歴史を詳しく追います。

プランタジネット朝の成立と初期の統治

1154年、ノルマン朝の最後の国王であるスティーブンの死去により、イングランド王位はアンジュー伯アンリが継承し、彼はヘンリー2世として即位しました。これにより、新たにプランタジネット朝が成立し、フランスのアンジュー伯領を中心とする広大なアンジュー帝国が形成されました。ヘンリー2世はアンジュー、メーヌ、トゥーレーヌ、ポワトゥー、ガスコーニュ、アキテーヌなどのフランス諸地域を統治しており、これによりフランス王国との関係は極めて緊張したものとなりました。

彼の統治は、内政改革と司法制度の発展によって特徴付けられます。特にコモン・ローの発展は、イングランドの法制度に大きな影響を与えました。彼はまた、巡回裁判官制度を導入し、国王の裁判権を全国に拡大することを試みました。さらに、貴族の城を制限するアシズ・オブ・アームズや封建的軍役義務の代わりにスカタージュ(封建制度下で騎士の兵役を免除する代わりに国王に支払われた金)を徴収する制度を整備し、国王権力の強化に努めました。

しかし、ヘンリー2世の治世は波乱に満ちたものでした。彼とカンタベリー大司教であるトマス・ベケットとの対立は、王権と教会権の対立の象徴的な事件となりました。王の命令に忠実なベケットが次第に教会の立場を強く主張するようになったため、両者の関係は悪化し、最終的にベケットは1170年にカンタベリー大聖堂で王の家臣によって暗殺されました。この事件はヨーロッパ中に衝撃を与え、ヘンリー2世は教皇アレクサンデル3世からの非難を受け、最終的にカンタベリー大聖堂での屈辱的な謝罪を余儀なくされました。

また、ヘンリー2世は、王位を巡る息子たちとの対立にも直面しました。リチャード獅子心王やジョン王(失地王)らは、母であるアリエノール・ダキテーヌの支持を得て反乱を起こし、フランス王フィリップ2世と結託することもありました。結果として、ヘンリー2世はフランス国内の領地支配を揺るがされることとなり、彼の死後、王位はリチャード1世へと受け継がれることとなりました。

リチャード獅子心王の治世と第三回十字軍

1189年に即位したリチャード1世は、勇敢な戦士として知られ、彼の生涯のほとんどを戦場で過ごしました。彼の即位直後、彼は弟ジョンと母アリエノールにイングランドの統治を委ね、自身はフランス領の統治と第三回十字軍の準備に集中しました。

1187年、イスラムの英雄サラーフ・アッディーン(サラディン)によって、エルサレムが陥落したことを受け、ローマ教皇グレゴリウス8世は聖地奪還を目的とする第三回十字軍を呼びかけました。これに応じたのがリチャード1世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)、フランス王フィリップ2世(尊厳王)の三君主でした。しかし、フリードリヒ1世は遠征中に小アジアで溺死し、フィリップ2世も途中で帰国したため、リチャード1世は単独でサラディンと戦うことになりました。

彼は1191年にキプロス島を占領した後、アッコンの攻略に成功し、続くアルスーフの戦いでサラディン軍に勝利を収めました。しかし、エルサレム奪還には至らず、1192年にサラディンと休戦条約を結び、キリスト教徒の巡礼がエルサレムを訪れることを許可する条件で遠征を終えました。

帰国途中、オーストリア公レオポルト5世に捕らえられ、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世のもとに引き渡され、高額な身代金を支払って釈放されました。彼はその後もフランスとの戦争を続けましたが、1199年、フランスの城攻めの最中に負傷し、死亡しました。

ジョン王の治世と教皇との対立

リチャード1世の死後、弟であるジョンが即位しましたが、彼の治世は混乱を極めました。ジョンは領地を守るためにフランス王フィリップ2世と戦いましたが、1204年にはノルマンディーをはじめとする大部分のフランス領を喪失し、「失地王」と呼ばれるようになりました。

また、教皇インノケンティウス3世との対立も激化しました。1205年、カンタベリー大司教の任命を巡ってジョン王は教皇と対立し、1213年には教皇から破門されました。ジョンは屈服し、イングランドをローマ教皇の封土と認めることで和解しましたが、この屈辱的な譲歩は貴族たちの反発を招きました。

その後、フランスとの戦争に敗れ、1214年のブーヴィーヌの戦いでフィリップ2世に大敗したことで、彼の権威はさらに失墜しました。この敗戦が決定打となり、イングランド国内で貴族の反乱が発生しまし、この反乱の結果、ジョン王は1215年にマグナ・カルタ(大憲章)の承認を余儀なくされました。

マグナ・カルタとジョン王の死

1215年、ジョン王は貴族たちの圧力に屈し、マグナ・カルタ(大憲章)を承認しました。この文書は、王権の制限と貴族の権利の保証を目的としたものであり、後のイギリスの憲政発展の基礎となりました。特に「国王も法に従わなければならない」という原則が明記されたことは、封建社会において革新的な概念でした。しかし、ジョン王はすぐにこれを破棄しようとし、内戦が勃発しました。この内戦は第一次バロン戦争と呼ばれ、貴族たちはフランス王ルイ8世を招いて支援を受けました。

しかし、1216年にジョン王が死去し、彼の幼い息子ヘンリー3世が即位すると、事態は変わりました。摂政としてウィリアム・マーシャルが政権を握り、1217年にフランス軍を撃退し、貴族との和解を進めました。この結果、マグナ・カルタは再確認され、王権と貴族の関係が新たに調整されることになりました。

ヘンリー3世の統治とシモン・ド・モンフォールの乱

ヘンリー3世は長期間にわたり統治しましたが、その政策は貴族たちの反発を招くものでした。彼はフランス人顧問を重用し、特に母の出身であるポワトゥー地方の貴族を重用したことから、国内の有力貴族の反感を買いました。また、教皇への忠誠心が強く、多額の資金をローマに送ったため、財政的な問題も深刻化しました。

このような背景のもと、1258年には貴族たちがオックスフォード条項を国王に認めさせ、王の専制政治を制限する体制を整えました。しかし、ヘンリー3世はこれを受け入れず、貴族との対立が激化しました。この結果、シモン・ド・モンフォールが指導する反乱が起こり、1264年のルイーズの戦いで王軍を破り、モンフォールはイングランドの実質的な支配者となりました。

1265年、モンフォールは最初の議会を開催し、貴族だけでなく聖職者や都市の代表も参加する形を取りました。これは後のイングランド議会の原型となる重要な出来事でした。しかし、同年のイーヴシャムの戦いで、王太子エドワード(後のエドワード1世)によってモンフォールは敗死し、王権は回復しました。

エドワード1世の統治とウェールズ・スコットランド遠征

ヘンリー3世の後を継いだエドワード1世は、強い王として知られています。彼は国内の法律を整え、イングランドをさらに強い国にしようとしました。そのために、法律をまとめたウェストミンスター法を作り、王が直接支配できる仕組みを整えました。

また、彼はイングランドの支配を広げるために、まずウェールズ遠征を行いました。当時、ウェールズは独立していましたが、エドワード1世はこれをイングランドの一部にしようとしました。彼はウェールズ大公リウェリン・アプ・グリフィズを攻め、最終的に1284年にウェールズを征服しました。こうしてウェールズはイングランドの一部となり、エドワード1世はその支配を固めるために多くの城を建てました。これが現在も残るカーナーヴォン城やコンウィ城などです。

次に、エドワード1世はスコットランドにも目を向けました。当時のスコットランドでは、王位を巡る争いが起きていて、エドワード1世はスコットランドの問題に介入し、自分の支配下に置こうとしました。1296年にはスコットランドに軍を送り、国王ジョン・ベイリャルを退位させましたた、スコットランドの人々はこれに反発し、戦いが始まりました。

特に有名なのが、ウィリアム・ウォレスという指導者が率いた反乱です。彼は1297年のスターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍を破り、スコットランドの独立を守ろうとしました。しかし、最終的にはエドワード1世によって捕らえられ、処刑されました。

このように、エドワード1世の時代には、イングランドの支配がウェールズやスコットランドに広がりましたが、スコットランドでは独立を求める戦いが続き、のちに有名なロバート・ブルースが立ち上がることになります。

エドワード2世の失政とエドワード3世の復興

エドワード1世の死後、息子のエドワード2世が王位を継ぎました。しかし、彼の統治は問題が多く、貴族たちとの対立が絶えませんでした。特に、彼が寵臣(お気に入りの家臣)であるピアーズ・ギャヴェストンを重用したことが、多くの貴族たちの怒りを買い、ギャヴェストンは王の側近として強い影響力を持ちましたが、貴族たちは彼を排除しようとし、最終的に1312年に処刑しました。

その後もエドワード2世の政治は混乱し続けました。彼は新たにヒュー・ディスペンサー親子を重用しましたが、これがさらに貴族たちの不満を招きました。また、彼の治世ではスコットランドとの戦いにも敗れ、1314年のバノックバーンの戦いでは、スコットランド王ロバート・ブルース率いる軍に大敗し、イングランドの北部支配は大きく揺らぎました。

この失敗が続く中、1325年にはエドワード2世の妻であるイザベラ王妃が、フランスで愛人ロジャー・モーティマーと手を組み、イングランドに攻め込みました。翌年、エドワード2世は捕らえられ、1327年に王位を廃されました。その後、彼は幽閉され、同年のうちに謎の死を遂げました。

こうして、エドワード2世に代わって、息子のエドワード3世が即位しました。しかし、彼はまだ若く、実際には母イザベラとモーティマーが政権を握りました。しかし、エドワード3世は成長するとともに、自らの権力を取り戻そうとし、1330年にクーデターを起こしてモーティマーを処刑し、母イザベラを引退させました。

エドワード3世は、ここからイングランドの強化を進めていきます。彼の治世では百年戦争が始まり、イングランド軍はフランスと戦うことになります。クレシーの戦い(1346年)やポワティエの戦い(1356年)では、エドワード3世の息子である黒太子エドワードが活躍し、イングランド軍は大勝しました。

また、エドワード3世はガーター騎士団を創設し、騎士道精神を重んじる政策を進めました。彼の治世は軍事的な成功によって王権が強化され、イングランドの威信を高めることにつながりました。エドワード2世の失政による混乱を乗り越え、エドワード3世のもとでイングランドは再び強い王国へと成長したのです。

この時代の戦争や政治の動向は、イングランドの王権のあり方や議会の成長に大きな影響を与え、後のランカスター朝ヨーク朝へと続く歴史の流れを形成していくこととなりました。

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