18世紀末、フランスは深刻な財政危機と社会的不満の高まりに直面していました。アメリカ独立戦争への介入により国庫は逼迫し、国民の負担は増大。そんな中、啓蒙思想が広まり、「自由・平等・人民主権」といった新しい理念が社会を動かし始めました。そして、1789年のバスティーユ襲撃を皮切りにフランス革命が勃発。革命は立憲君主政を経て共和政へと突入し、国王ルイ16世の処刑という衝撃的な結末を迎えます。
本記事では、フランス革命の発端から王政廃止、第一共和政の成立までの過程を詳細に解説します。
アメリカ独立戦争後のフランスと社会の変化
1783年にパリ条約が締結され、アメリカ独立戦争が正式に終結しました。この戦争においてフランスは多額の資金を投じ、ラファイエットをはじめとする将軍や兵士を派遣し、積極的に参戦しました。しかし、独立を果たしたアメリカ合衆国はフランスに大きな経済的利益をもたらすことはなく、むしろ財政難を加速させる結果となりました。
ルイ16世の治世下において、フランス経済は深刻な財政危機に直面していました。特にテュルゴーやネッケルといった財政改革を試みた者たちは、既得権益層の強い反発にあい、十分な成果を上げることができませんでした。王室の浪費や貴族階級の免税特権が庶民の負担を重くし、都市部の民衆は生活に困窮していました。また、重農主義の影響を受けた政策も期待された成果を上げず、フランス社会全体に不満が蓄積されていきました。
こうした状況の中、啓蒙思想の影響がフランス国内に浸透していきました。ヴォルテールやルソー、モンテスキューといった思想家たちの著作は広く読まれ、社会契約論や人民主権の概念が知識層のみならず庶民にも影響を与えるようになりました。特にルソーの「社会契約論」は革命の思想的な土台となり、民衆の間で「国王ではなく国民こそが主権を持つべきである」という意識が芽生え始めました。
三部会の招集と特権階級の抵抗
1787年、フランス財政の危機がいよいよ深刻化したことを受け、ルイ16世は名士会を招集しました。しかし、この会議では財政改革を実行するための決定的な合意は得られず、翌1788年には国王がついに三部会の召集を決定しました。三部会は1614年以来となる久々の開催であり、貴族・聖職者・平民(第三身分)の代表が参加することになりました。
しかし、問題は議決方法にありました。従来の方式では身分別投票が採用され、第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)が常に連携し、第三身分(平民)の意見が通らない仕組みでした。この不公平な制度に対し、第三身分の代表たちは不満を募らせ、平等な投票権を要求するようになりました。
1789年5月5日に開催された三部会では、この議決方法を巡って対立が生じました。第三身分の代表たちは身分別投票を拒否し、合同審議を求めました。しかし国王と特権階級はこれを認めず、対立は深まるばかりでした。そこで第三身分の代表者たちは、6月17日に国民議会を結成し、国民こそが主権者であることを宣言しました。さらに6月20日、国民議会の議員たちは球戯場の誓いを行い、憲法制定まで解散しないことを誓いました。
国王ルイ16世はこれを力で抑えようと考え、軍隊を動員して議会を解散させようとしました。しかし、これに対する民衆の反発は激しく、特にパリでは不満が爆発寸前の状態となりました。
バスティーユ襲撃と革命の勃発
1789年7月14日、ついに革命が勃発しました。パリの民衆は武器を求めてバスティーユ牢獄を襲撃し、これがフランス革命の象徴的な出来事となりました。バスティーユ牢獄は政治犯の収容施設であり、絶対王政の象徴と見なされていたため、その陥落は王権の権威が失われつつあることを示すものでした。
この事件を受け、全国各地で地方蜂起(グランド・ペウル)が発生し、農民たちは貴族の館を襲撃し、封建的な土地制度を破壊し始めました。革命の勢いは止まらず、8月4日には封建的特権の廃止が宣言され、同月26日には人権宣言が採択されました。この「フランス人権宣言」は、自由・平等・人民主権を掲げ、後の憲法制定へ向けた重要な布石となりました。
しかし、国王ルイ16世はこの革命の動きを受け入れず、反革命的な態度を取り続けました。特にマリー・アントワネットはオーストリアの支援を期待し、国王を説得して抵抗を続けるよう求めました。これに対し、民衆の怒りはさらに高まり、やがて王政そのものを廃止すべきだという意見が広がっていきました。
続く10月5日には、パリの女性たちがヴェルサイユ宮殿へと行進し、ルイ16世とその家族をパリへ連行しました。こうして王家はテュイルリー宮殿に幽閉されることとなり、もはや絶対王政の権威は完全に失墜しました。
ヴァレンヌ逃亡と王政の危機
1791年6月20日、ルイ16世とマリー・アントワネットは革命の進行に危機感を抱き、フランスを脱出しようと試みました。この出来事はヴァレンヌ逃亡として知られています。王家は変装し、パリを密かに脱出しましたが、計画はずさんであり、途中で国王と気付かれ、ヴァレンヌにて逮捕されてしまいました。
この逃亡未遂はフランス国内に大きな衝撃を与えました。国王が憲法制定の過程に協力する姿勢を見せながら、実際には国外勢力と結託し、絶対王政の復活を画策していたことが明らかになったのです。この事件を受け、国民の王政に対する信頼は決定的に失われ、王権の存続を求める意見は急速に衰退していきました。
1791年憲法と立憲君主政の成立
ヴァレンヌ逃亡後も、国民議会は新しい国家体制の構築を進め、1791年9月に1791年憲法を制定しました。この憲法により、フランスは立憲君主政に移行し、国王の権限は大幅に制限されました。
新たに設置された立法議会では、王政の存続を支持するフイヤン派と、より急進的な改革を求めるジロンド派・ジャコバン派が対立しました。しかし、王政に対する不信感は根強く、国内の混乱は収まりませんでした。
フランス革命戦争の勃発
1792年4月、フイヤン派主導の政府はオーストリアに対して宣戦布告を行い、フランス革命戦争が勃発しました。この戦争は、国内の反革命勢力を抑え、同時に国外の王政復古を阻止する目的で行われました。しかし、フランス軍は当初苦戦し、国王は密かに敵国と通じているのではないかとの疑念が生じました。
これに対し、8月10日に民衆がテュイルリー宮殿を襲撃し、国王はタンプル塔に幽閉されました。この出来事により、王政の存続はますます困難となり、1792年9月20日には国民公会が成立し、フランスは正式に共和政へと移行しました。
ルイ16世の処刑と王政の終焉
国民公会では、国王の裁判が行われ、ルイ16世は国家反逆罪で有罪判決を受けました。そして、1793年1月21日、ルイ16世はギロチンにより処刑されました。これはフランス王政の終焉を意味し、王政復古を目指すヨーロッパ諸国との戦争はさらに激化していきました。
王政の廃止と国王の処刑により、フランス革命はより過激な段階へと突入し、ジャコバン派による恐怖政治が始まることになります。この後、フランスは国内外の危機と向き合いながら、新たな共和国体制を確立していくことになるのです。