【フランス王国の歴史】百年戦争終結からイタリア戦争へ

【フランス王国の歴史】百年戦争終結からイタリア戦争へフランス
【フランス王国の歴史】百年戦争終結からイタリア戦争へ

中世ヨーロッパから近世ヨーロッパへ―。その大きな転換点となったのが、1453年から1494年までの約40年間でした。この時期のフランス王国は、百年戦争の終結により獲得した安定を基盤に、急速な変革を遂げていきます。

常備軍の創設、徴税制度の確立、中央集権化の推進など、現代の国家統治の原型となる様々な制度がこの時期に生まれました。さらに、ブルゴーニュ公国の崩壊という劇的な出来事は、ヨーロッパの勢力図を大きく塗り替えることになります。

本稿では、この重要な転換期におけるフランス王国の変容を、政治、経済、社会の各側面から詳しく見ていきましょう。

百年戦争後のフランス王国の再建

シャルル7世は1453年、百年戦争に終止符を打ち、その後フランス王国の再建に全力を注ぎました。戦争によって荒廃した国土の復興は容易ではありませんでしたが、シャルル7世は着実に改革を進めていきました。特筆すべきは、常備軍を創設し、軍事力の近代化を図ったことです。これにより、それまでの封建軍事体制から、国王直属の常備軍による新しい軍事体制への移行が進められました。

また、財政面においても重要な改革が行われ、タイユ税の恒常的徴収が確立されました。これは戦費調達のための臨時税であったものを常設税として制度化したもので、王権の財政基盤を強化する重要な施策となりました。シャルル7世はさらに、教会に対する王権の優位性を確立するため、ブールジュの国事詔書を発布し、フランス教会に対する教皇権の介入を制限しました。

ルイ11世の即位と中央集権化政策

1461年、ルイ11世が即位すると、フランスの中央集権化はさらに加速していきました。ルイ11世は「ヨーロッパの蜘蛛」と呼ばれ、巧妙な外交術と強力な統治力で知られていました。即位直後から、貴族たちの特権を制限し、王権の強化を図りましたが、これは貴族たちの強い反発を招くことになります。

1465年には、シャルル・ド・シャロレ(後のシャルル突進公)を中心とした有力諸侯による公共の利益のための同盟が結成され、ルイ11世に対する反乱が勃発しました。この反乱は戦争へと発展しましたが、ルイ11世は巧みな外交戦術を駆使して、同盟を分断することに成功しました。

ブルゴーニュ公国との対立

フランス王権にとって最大の脅威となったのは、ブルゴーニュ公国の存在でした。シャルル突進公は父フィリップ善良公から継承した広大な領土に加え、さらなる領土拡大を目指していました。ブルゴーニュ公国は、フランドル地方の豊かな商工業都市群を支配下に置き、経済的にも強大な力を持っていました。

1468年、ルイ11世はペロンヌにおいてシャルル突進公と会見しましたが、このペロンヌの会見は王にとって屈辱的なものとなりました。リエージュの反乱を扇動した疑いをかけられたルイ11世は、シャルル突進公に拘束され、屈辱的な条約の締結を強要されたのです。

同盟関係の構築と外交政策

ルイ11世は、ブルゴーニュ公国に対抗するため、積極的な外交政策を展開しました。スイスとの同盟を締結し、またハプスブルク家のジギスムントとも接近しました。さらに、イングランドのエドワード4世との関係改善を図り両国間の平和を確保しました。

この時期、フランス王権は着実に力を蓄えていき、王国の行政機構も整備されていきました。パルルマン(高等法院)の権限が強化され、司法制度も整備されていきました。また、商工業の発展を促進するため、定期市の開催を奨励し、道路や運河の整備も進められました。

文化と社会の変容

百年戦争後のフランスでは、社会構造にも大きな変化が見られました。戦争による人口減少は労働力不足を引き起こし、農民の地位向上につながりました。都市部では、ブルジョワジー(市民層)が台頭し、商工業の発展とともに、その社会的影響力を増していきました。

文化面では、フランス・ゴシック様式の建築が最盛期を迎え、多くの教会や城郭が建設されました。また、写本芸術も発展し、豪華な彩飾写本が制作されました。この時期、印刷術がフランスに伝播し、パリのソルボンヌ大学に印刷所が設置されるなど、知識の普及に大きな影響を与えました。

1474年には、ブルゴーニュ公国との対立が新たな段階を迎えようとしていました。シャルル突進公の野心的な領土拡大政策は、周辺諸国との関係を悪化させ、やがて大きな転換点を迎えることになります。

ブルゴーニュ公国の崩壊

1474年以降、シャルル突進公の強引な領土拡大政策は、周辺諸国との深刻な対立を引き起こしていきました。特に、アルザス地方への進出は、スイス同盟とハプスブルク家の警戒心を高め、1474年には両者がブルゴーニュ公国に対して宣戦布告を行いました。これに呼応して、ロレーヌ公ルネ2世もブルゴーニュ公国との戦いに参加することになります。

1476年、シャルル突進公はスイス軍との戦いでグランソンの戦いムルテンの戦いで立て続けに大敗を喫しました。その翌年の1477年1月、ナンシーの戦いにおいてシャルル突進公は戦死し、これによってブルゴーニュ公国は事実上崩壊することになりました。

マリー・ド・ブルゴーニュの相続問題

シャルル突進公の死後、その一人娘であるマリー・ド・ブルゴーニュの相続問題が浮上しました。ルイ11世は直ちにブルゴーニュ公国の領土の接収を開始し、特にブルゴーニュ公領とピカルディー地方を王領に編入しました。一方、マリーは1477年8月にハプスブルク家マクシミリアン(後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世)と結婚し、フランドルやブラバントなどのネーデルラント地域の支配権はハプスブルク家に移ることになりました。

この婚姻により、フランス王国とハプスブルク家の対立が始まり、これは後のイタリア戦争の重要な背景となっていきます。ルイ11世は、失地回復のためアラス条約(1482年)を締結し、一時的な和平を実現しましたが、これは将来の対立の種を残すことになりました。

ルイ11世晩年の統治と王権の強化

ブルゴーニュ公国の崩壊後、ルイ11世は王権のさらなる強化を進めました。プロヴァンス伯領を王領に編入し、またアンジュー家の所領も王国に併合されました。行政面では、大評議会の機能を強化し、中央集権的な統治体制を確立していきました。

経済政策においては、リヨンの大市を整備し、国際商業の拠点として発展させました。また、絹織物産業の育成にも力を入れ、リヨンを重要な工業都市として成長させました。この時期、フランスの経済は着実な発展を遂げ、都市部では銀行業や為替業も発達していきました。

シャルル8世の即位と新時代の幕開け

1483年、ルイ11世が死去し、その息子シャルル8世が即位しました。わずか13歳での即位であったため、姉のアンヌ・ド・ボージューが摂政として政務を執り行いました。この時期、再び貴族たちによる反乱が勃発しましたが、アンヌの巧みな手腕によって鎮圧されました。

シャルル8世は成長とともに、イタリアへの関心を強めていきました。特に、ナポリ王国への権利主張を強め、これは後のイタリア戦争につながっていきます。また、1491年にはブルターニュ公女アンヌと結婚し、これによってブルターニュ公国のフランス王国への統合が実現しました。

イタリア戦争前夜のヨーロッパ情勢

1494年のイタリア戦争勃発直前、ヨーロッパは大きな変革期を迎えていました。スペインではカスティーリャ女王イサベルとアラゴン王フェルナンドの結婚により、実質的な統一が実現し、新たな強国として台頭していました。イングランドではチューダー朝が開かれ、ヘンリー7世の下で国内の安定が図られていました。

一方、イタリアは依然として分裂状態にあり、ミラノ公国ヴェネツィア共和国フィレンツェ共和国教皇領ナポリ王国などの諸国が割拠していました。特に、ロドヴィーコ・イル・モーロが実権を握るミラノ公国は、シャルル8世のイタリア進出を支持する立場を取り、これが戦争の直接的な契機となっていきます。

このような国際情勢の中で、フランス王国は中世から近世への転換期を迎えていました。百年戦争後の再建と中央集権化の進展、ブルゴーニュ公国の崩壊を経て、フランスは西ヨーロッパ随一の強国としての地位を確立しつつありました。

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