【フランス王国の歴史】フランス革命の終焉とナポレオンの台頭:恐怖政治から第一帝政へ

【フランス王国の歴史】フランス革命の終焉とナポレオンの台頭:恐怖政治から第一帝政へフランス
【フランス王国の歴史】フランス革命の終焉とナポレオンの台頭:恐怖政治から第一帝政へ

フランス革命の激動は、1793年のルイ16世の処刑とともに新たな局面へと突入しました。王政が終焉し、国民公会のもとで共和政が確立されるも、国内外の圧力は日に日に増し、革命政府は次第に急進化していきます。特にジャコバン派が主導する恐怖政治は、多くの粛清を伴いながら革命の維持を図るも、やがてテルミドールのクーデターによって終焉を迎えます。その後、総裁政府が成立するも政治の安定には至らず、混乱の中で登場したのがナポレオン・ボナパルトでした。

本記事では、ナポレオンがクーデターを成功させ統領政府を樹立し、やがて第一帝政へと至る過程を詳しく追います。革命の終焉と新たな帝国の誕生、その歴史を紐解きます。

革命の深化とジャコバン独裁の成立

1793年1月21日、ルイ16世の処刑によってフランス革命は新たな段階へと突入し、共和制の維持と革命の進展をめぐる対立が激化していきました。フランス国内ではジロンド派山岳派ジャコバン派)の対立が決定的となり、外敵との戦争と国内の反革命勢力の制圧が最優先課題となりました。

この時期、フランスは第一回対仏大同盟を結成したイギリス、オーストリア、プロイセン、スペインなどの諸国と戦争状態にありました。さらに国内ではヴァンデの反乱をはじめとする王党派や反革命勢力が各地で蜂起し、共和国の存続が脅かされていました。こうした状況を背景に、1793年6月、国民公会内でジロンド派が追放され、ジャコバン派が権力を掌握しました。

ジャコバン派は、国家の危機に対応するため、公安委員会を設置し、実質的な政府機関として機能させました。この委員会の中心人物となったのがロベスピエールであり、彼の指導のもとで恐怖政治が展開されました。公安委員会は革命裁判所を設置し、反革命分子の粛清を進めました。この時期、ジロンド派をはじめとする穏健共和派や、急進派であったエベール派、ダントン派も粛清の対象となり、多くの政治家がギロチンの犠牲となりました。

恐怖政治の強化と社会の変革

ジャコバン政権の下で、フランス社会は大きく変貌しました。まず、戦争遂行のために徴兵制(全民皆兵)が導入され、国民軍が形成されました。これによってフランス軍は一時的に劣勢に立たされていた対外戦争で勝利を収めるようになります。

さらに、経済政策として最高価格令が制定され、物価の統制が行われました。これにより食糧価格の安定が図られましたが、一方で経済の自由が制限され、市場経済の混乱を招くことになりました。また、革命の理念を徹底させるため、革命暦が導入され、キリスト教の影響を排除する政策が進められました。特に、理性崇拝の名のもとにカトリック教会の財産が没収され、聖職者が迫害されるなど、フランス社会に大きな混乱をもたらしました。

しかし、恐怖政治の強化に対する反発は次第に高まりました。1794年7月27日(テルミドール9日)、公安委員会の権力集中を懸念した国民公会の議員たちがクーデター(テルミドールのクーデター)を決行し、ロベスピエールを逮捕・処刑しました。これにより、ジャコバン独裁は終焉を迎え、革命は次の段階へと進むことになります。

総裁政府の成立とその課題

ロベスピエール失脚後、革命は急進から穏健へと転換し、1795年には1795年憲法(共和国第三年憲法)が制定されました。この憲法に基づき、新たに総裁政府が設立され、5人の総裁が国家の運営を担うことになりました。

総裁政府は、ジャコバン派のような急進主義を避けながらも、王党派の復活を防ぐという難しい立場に立たされていました。国内では経済の混乱が続き、貨幣価値の下落やインフレが深刻化していました。また、対外戦争は続き、特にイギリスやオーストリアとの戦いは長引いていました。

このような状況の中で、ナポレオン・ボナパルトが台頭することになります。彼はイタリア遠征で輝かしい戦果を上げ、国民的英雄としての地位を確立しました。総裁政府は彼の軍事的成功に依存するようになり、ナポレオンの影響力は次第に増していきました。

ブリュメール18日のクーデター

総裁政府はその権力の弱体化と政治的混乱の中で揺れていました。フランス国内の経済問題や社会不安が深刻化する一方、軍事的にはイギリス、オーストリアなどとの戦争が続き、政府の指導力が問われる状況が続いていました。こうした中で、軍人として成功を収め、民衆からの支持を得ていたナポレオン・ボナパルトは、次第に政治の中心へと躍り出ることになります。

1799年11月9日(革命暦ではブリュメール18日)、ナポレオンは軍事力を背景にクーデターを敢行しました。彼は弟のリュシアン・ボナパルトの支援を受けて五百人会を強制的に解散させ、総裁政府を終焉へと追いやりました。このブリュメール18日のクーデターによって、フランス革命期の政治体制は大きな転換を迎え、総裁政府に代わる新たな統治機構として統領政府が樹立されました。

統領政府の成立とナポレオンの支配

1799年に制定された新憲法(革命暦第8年憲法)に基づき、統領政府が正式に発足しました。この政府は三人の統領によって運営されることになっていましたが、実際には第一統領となったナポレオンが全権を掌握していました。彼は革命の成果を維持するという名目のもと、フランス国内の安定化を図りつつ、権力基盤を強固にしていきました。

ナポレオンは国内の統制を進めるため、行政改革を行いました。ナポレオン法典(フランス民法典)の制定はその最たるものであり、これにより法の下の平等や私有財産の保護が明文化されました。また、彼は経済の安定を図るためにフランス銀行を設立し、通貨制度を安定させるとともに、公共事業を推進して失業者対策を講じました。

第一帝政の成立とナポレオンの皇帝即位

統領政府のもとでフランスは次第に安定を取り戻し、ナポレオンの人気と権力はますます強まっていきました。彼は国民投票(プレビシット)を利用して自身の統治を正当化し、1802年には終身統領となりました。そして1804年、フランスは共和制から帝政へと移行することになります。

1804年12月2日、パリのノートルダム大聖堂において、ナポレオンは自らの手で皇帝の冠を戴き、フランス皇帝ナポレオン1世を名乗りました。これは、伝統的にローマ教皇によって戴冠される慣習に対する挑戦であり、彼が皇帝権を教会ではなく自らの手で確立する意志を示したものでした。この第一帝政の成立によって、フランス革命によって誕生した共和制は終焉を迎え、フランスは再び強力な中央集権国家へと変貌していきました。

こうしてナポレオンのもとでフランスは国内の安定を手に入れましたが、一方でヨーロッパ諸国との対立は続き、やがて彼の征服戦争が本格化していくことになります。

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