19世紀のフランスは、政治的変遷と革命の連続でした。ナポレオン三世による第二帝政の成立は、フランスの近代化を加速させる一方で、強権的な統治と外交の失敗が帝政の終焉を早めました。1870年の普仏戦争における敗北は、第三共和政の誕生へとつながり、フランスは再び共和制へと移行しました。しかし、新たな政体の確立は決して容易ではなく、パリ・コミューンの蜂起やドレフュス事件など、国内の分裂と対立が続きました。
本記事では、第二帝政の成立から第三共和政の憲法制定に至るまでの流れを、政治・外交・社会の視点から詳細に解説していきます。
第二帝政の成立とナポレオン三世の統治
1852年、フランスにおいてルイ=ナポレオンが皇帝に即位し、第二帝政が成立しました。フランス国民は1848年の二月革命により成立した第二共和政の不安定さに疲弊し、強力な指導者を求める声が高まっていました。ルイ=ナポレオンは1851年にクーデタを起こし、翌年の国民投票によってナポレオン三世として皇帝に即位しました。
ナポレオン三世の統治はボナパルティズムの精神に基づき、権威主義的な側面と国民の支持を基盤とする側面を併せ持つものでした。彼は国民投票を頻繁に実施し、プレブリシットを用いることで大衆の支持を確認しながら統治を進めました。また、産業の発展を促進し、パリの都市改造を進めることでフランスの近代化を推進しました。
外交面では、ナポレオン三世は積極的にヨーロッパの国際関係に介入し、クリミア戦争(1853〜1856年)ではオスマン帝国側についてロシア帝国と戦い、フランスの国際的地位を向上させました。また、イタリア統一戦争ではサルデーニャ王国を支援し、オーストリア帝国に対する戦争(1859年のイタリア戦争)に勝利することで、ロンバルディアを獲得し、イタリア統一運動を支援しました。しかし、これによりローマ問題が浮上し、フランス軍がローマに駐留することでイタリアの統一が遅れることになります。
一方、メキシコ出兵(1861〜1867年)は大きな失敗に終わりました。ナポレオン三世はメキシコの内乱に介入し、オーストリアのマクシミリアンを皇帝として擁立しましたが、メキシコの抵抗に遭い、最終的に撤退を余儀なくされました。この失敗はフランス国内でのナポレオン三世の評価を低下させる要因の一つとなりました。
普仏戦争の勃発と帝政の崩壊
1860年代後半になると、フランス国内では自由主義的な改革を求める声が強まり、ナポレオン三世は1869年に立憲帝政へと移行する憲法改正を行いました。しかし、同時期にドイツではプロイセン王国が指導する形で統一運動が進んでおり、フランスにとって大きな脅威となっていました。
プロイセン宰相ビスマルクは巧妙な外交戦略を駆使し、フランスを孤立させた上で戦争へと誘導しました。1870年、エムス電報事件をきっかけにフランスはプロイセンに宣戦布告し、普仏戦争が勃発しました。
しかし、フランス軍はプロイセン軍の組織的な作戦と優れた鉄道輸送能力に圧倒され、各地で敗北を喫しました。特に1870年9月2日のスダンの戦いでは、ナポレオン三世自身が捕虜となり、フランス軍は壊滅的な敗北を喫しました。この結果、フランス国内では第三共和政の樹立が宣言され、ナポレオン三世は退位し、フランス第二帝政は終焉を迎えました。
第三共和政の成立とパリ・コミューン
1870年9月4日、パリ市民は帝政の崩壊を受けて蜂起し、臨時政府を樹立しました。こうしてフランスは共和制に戻り、第三共和政が成立しました。しかし、プロイセン軍は引き続きフランス領内に侵攻し、パリを包囲しました(パリ包囲戦)。臨時政府はプロイセンとの和平交渉を模索しましたが、パリ市民の間では徹底抗戦を求める声が高まりました。
1871年1月、フランスはプロイセンとフランクフルト講和条約を締結し、戦争は終結しました。しかし、この条約によりフランスはアルザス=ロレーヌ地方を割譲し、多額の賠償金を支払うこととなりました。この屈辱的な講和に怒ったパリ市民は政府に反発し、労働者を中心に自治政府であるパリ・コミューンを樹立しました。
パリ・コミューンは社会主義的な政策を打ち出し、労働者の権利を擁護する施策を実施しました。しかし、フランス政府はパリ・コミューンを危険視し、ヴェルサイユ政府軍を派遣してこれを鎮圧しました。1871年5月、政府軍はパリに突入し、激しい市街戦の末にパリ・コミューンは崩壊しました。この戦いで多くの市民が犠牲となり、多数のコミューン参加者が処刑されました。
第三共和政の憲法制定と政治体制
パリ・コミューンの鎮圧後、フランスは新たな政体を確立する必要に迫られました。1871年2月の総選挙では保守派が多数を占め、ティエールが臨時政府の長に選ばれました。彼は和平を優先し、フランクフルト講和条約を締結しましたが、この条約の内容は国民にとって屈辱的なものでした。そのため、反発が高まりましたが、ティエールは強権を発動して共和制の確立を進めました。
1873年、ティエールが辞任し、代わってパトリス・ド・マクマオンが大統領に就任しました。彼は王党派に支持されていましたが、共和主義者の台頭を抑えきれず、1875年に共和制の枠組みを定めた一連の共和政憲法が成立しました。これにより、フランスは正式に第三共和政としての体制を整え、二院制議会(元老院と代議院)および強い行政府を持つ政治体制が確立されました。
第三共和政の初期の政治的動揺
第三共和政の初期は、政治的な不安定さが続きました。王党派と共和派の対立が依然として激しく、王党派はオルレアン家を支持する立憲君主制の復活を目指しました。しかし、1879年には共和派が議会を掌握し、ジュール・グレヴィが大統領に選出され、王党派の影響力は衰退していきました。
この時期、フランスは国内の政局安定を図る一方で、植民地政策を積極的に推進しました。1880年代から1890年代にかけて、フランスはインドシナ半島やアフリカへの進出を強め、フランス植民地帝国を形成していきました。この植民地拡大は、国内のナショナリズムを高める要因ともなりました。
ブーランジェ事件と共和政の危機
第三共和政の基盤が固まりつつあった1880年代後半、フランスの政治は新たな危機に直面しました。その一つがブーランジェ事件です。ジョルジュ・ブーランジェ将軍は国民の人気を集め、「復讐主義」を掲げてドイツへの報復戦争を主張し、強権的な政治を目指しました。彼の急進的な姿勢は共和派にとって大きな脅威となり、1889年に彼が政権奪取を狙うクーデター未遂事件を起こしたことで、共和政の存続が問われる事態となりました。しかし、最終的にブーランジェは国外逃亡し、この事件を機に第三共和政は安定へと向かいました。
ドレフュス事件と社会の分裂
19世紀末、第三共和政にとって最大の政治スキャンダルがドレフュス事件でした。この事件は、ユダヤ系のフランス軍人であるアルフレッド・ドレフュス大尉がドイツへのスパイ容疑で冤罪にかけられたことに端を発します。1894年、彼は証拠が乏しいまま有罪判決を受け、流刑となりました。
しかし、1896年に真犯人が別にいることが発覚し、ドレフュスの冤罪が明らかになりました。それにもかかわらず、軍部や保守派は裁判のやり直しを拒否し、共和派や社会主義者との対立が激化しました。1898年には作家のエミール・ゾラが「私は弾劾する」という公開書簡を発表し、この事件の不当性を世界に訴えました。
この事件はフランス社会を二分し、最終的に1906年にドレフュスは無罪を勝ち取りましたが、その過程で軍部の権威は失墜し、共和政の原則である法の支配と人権の尊重が再確認されました。
第三共和政の安定と世界大戦への道
20世紀に入ると、第三共和政はより安定した体制へと移行しました。1905年には政教分離法が制定され、フランスはカトリック教会の影響を排除し、ライシテ(世俗主義)を確立しました。また、労働運動の高まりを受けて社会政策の整備も進められ、労働者の権利が徐々に向上しました。
しかし、国際的にはドイツとの対立が依然として続いており、フランスは英仏協商(1904年)を締結し、ドイツに対抗する体制を整えました。この対立構造はやがて第一次世界大戦(1914年)の勃発へとつながっていきます。
このように、第三共和政は数々の危機を乗り越えながらも、徐々に民主主義国家としての基盤を築いていきました。しかし、その歩みは決して平坦なものではなく、国内外の政治的緊張の中で揺れ動くものでした。次の時代へと続くフランスの歴史は、これらの経験を基盤に新たな局面へと進んでいきます。